35年間いつも側にいてくれた人と別れたいと思った理由【6】勇気を出して2度目の告白

1 / 2 ページ

前編: 35年間いつも側にいてくれた人と別れたいと思った理由【5】勇気を出して初告白
後編: 35年間いつも側にいてくれた人と別れたいと思った理由【7】普通コンプレックスからの卒業

娘が小学校に上がる春、初めてヒロに「離婚してほしい」


と、自分の気持ちをぶつけてみた。


結果は、変えられる事は、ちゃんと私の気持ちに沿って、変えて行くから、娘の為に、もう少し我慢してほしいと言われた。



私には、言われたくない言葉がいくつかあり、ヒロは知ってか知らずか、すごいタイミングでその言葉を引き出してくる。


離婚を切り出した時も

「自分と同じ思いを娘にさせる気か‼︎」

と、地雷を投げてきた。


その時は、大爆発を防ぎ、お互い痛み分けな感じで過ごし、3年の時間が流れた。


娘が4年生に上がる春、私は

「今度こそ‼︎」と腹をくくって、2度目の離婚交渉を試みた。


前回とは違い、その後の収入面も考慮して、4月から契約社員として、レストランのホールチーフ、と言う肩書きも手に入れたし、離婚する気満々だった。


ヒロは最初、

「3年前に気持ちを告げられた時と、今では、ほとんど生活に改善された面はなく、むしろ親父とお袋の介護状態や、家計の状態も悪くなってるし、もうそろそろ、お前を解放してやらないといけないのかな?とは思う。」

と言って、離婚届に判を押す事を了承したのだが、それを知ってだまっていなかったのが、義母だった。


「あんたに今、家を出ていかれたら、私たちはどうやって生活したらいいの?死ねっていうの?」

と詰め寄られ、最後には、やはり娘を引き合いに出して

「かわいそうだと思わないの‼︎」

とまくし立てられ、一方的に私が責められるだけだった。


義母のその態度を見て、ヒロの考えが揺らぎ、今度は

「親権はやらない!!」

と言い出した。そういえば、私が出て行かないのが分かっているからだ。


そんなわけで、またしても私の思いは遂げられず、義母に

「せめてあと1年だけ待って‼︎

○○(娘の名前)も、10歳になればいろんなことがもう少しできるようになるし、わかるようになるから‼︎」

と、まったく彼女基準の観念の話で、最後はうまく丸められ、私の我慢の日々は、続くのであった。



ここで少し、養父の話をしておきたい。


養父は鹿児島の生まれで、男尊女卑の思想が、根強く残っている人だった。


幼少の頃、次男坊だった養父は、男の子が生まれない、親戚の家に養子に出される。という経験をしており、後に生家へ戻されるのだが、プライドも強かったので、大人の事情でそのような扱いをされ、本人的には、家族というものに、トラウマ的な感情を持っていたのかもしれない。


どのような経緯で、義母と出会ったのか、私は知らないが、義母の体は、生まれつきの不自由なもので、結婚当初から、それをわかっていて、養父は鹿児島から、婿入りしてくれたので、義母サイドの両親は、とてもありがたがって、大事にしていたと思われる。


サザエさん一家の、マスオさん的な立場で、養父なりに色々、煩わしい事もあっただろうと思うが、義母は、その辺も踏まえて、かいがいしく主人の世話をやき、家事をこなしていたのだと思う。


そんな義父は、1つだけ発作のようなものを持っていた。


感情が大きく揺り動かされると、寝ている間に、別人格が乗り移ったような行動をとり、その状態の時は、息子であるヒロのことを息子と認識できず、興奮して、舌を噛み切らないようにと、義母が口にタオルを詰め込んで、相手をしてやると、何とか落ち着き、また布団に戻る。


そして、一眠りして起きると、ひどく疲れてぐったりしているのだが、発作(?)の時の事は、何も覚えていないと言う。


そんなことが、度々起こった。


この症状?は、ヒロが子供の頃には、もう既におきていたようで、それが原因で◯◯(ヒロ苗字)家では、お養父さんをなるべく怒らせない様に⇨言われた事には、素直に応じる。という家風が、出来上がっていた。


また、家族でテレビを見ている時なども、

「全く近頃の若いもんは‼︎」的な発言を養父が出し始めると、養母がさりげなく、チャンネルを変えるなどして、養父の逆鱗に触れるような事は、なるべく避けていた。


そんな様子だったので、私が家に入った時は、まず第一にお養父さんのご機嫌、次におじいちゃん⇨お義母さんと言う順位がついていた。


おじいちゃんが亡くなり、娘が生まれてからも、この順位は崩れることなく、我が家の、守られるべき物事の筆頭順位は、

1 お養父さん

2 お養母さん

3 娘

4 ヒロ

だった。


娘が小さい時も、いつも

「まず、じぃじの〇〇をやってからだから、ちょっと待っててね。」と、言い聞かせていた。


本当は、もっとかまってもらいたい時期もあっただろうに…。


娘は、私に似て我慢強く、そしてお年寄りや、弱者に対して優しい気持ちを持った女の子に育ってくれた。



話は戻って、2度目の告白をした後、私は、朝ごはんの用意や、夕飯の用意、片付けは普通にこなし、その後、二階の部屋へ降りて、少しでも自分の時間を持つようにする。という、家庭内別居のような生活をしていた。(家の造りが三階建で、1階と2階の2軒は、賃貸していたが、1軒だけ空いていた。)


離婚して、私が出て行ってしまったら、またお養父さんのカンに触って、どんな発作を引き起こすか、心配で仕方がないお養母さん。


少しでも自由になりたい私。


元々、私の部屋は、玄関からすぐの部屋なので、ここにこもっていても、二階の部屋に降りても、車イス生活で、リビングからは出てこないお義父さんには、わからない。


引き留めたいヒロ、養母側と、家を出たい私の譲歩策として、夕飯片付け後は、

(部屋でくつろぐふりをして、二階に降りても良い)

と言うことになった。


それまでは夕飯後も、なんとなく家族全員で、リビングでテレビを観なくてはいけない…。と言う雰囲気になっていたのだが、私にとっては、その時間さえも辛かったのだ。



家庭内別居状態になってから、7ヶ月後、養父は肺炎をこじらせ、入院するも、翌日、帰らぬ人となってしまった。


娘が10歳の誕生日を迎える2日前だった。


ヒロは、気を落とした母親に

「今まで、親父に尽くしてきて、自分のやりたいこともできずに、我慢してきたんだから、何か趣味にでも没頭して、残りの人生を楽しんでくれよ。」

と、言葉をかけていた。



その後、我が家の筆頭がお養母さんとなり、今まで連れ合いのために、いろいろ我慢してきたことが多かった彼女は、まるでヒットラーのように振る舞うようになり、家を出たがる私を、弾圧するのであった。



養父を11月に亡くし、迎えた正月。


当然、喪に服しているので、にぎにぎしくは祝えない。


「これでおせちの用意(年越しから正月3が日まで分)して。」

と、3万円渡されて、いつもより、質素な感じに正月を迎えたのだが、養母は

「せっかくのお正月なのに、なぁ~んにもおいしいもの食べられなかった。3万円も出したのに!!」

と言い出した。


いつもは、5万円以上かけて、年越しそばお正月飾り、おせち料理、元日2日3日の夕飯(すき焼き、お寿司など)を用意するのだが、お義父さんの手前もあるし、3万円しかもらってないしで、それなりにしたら、お養母さんの満足度が、異様に低かったらしい。


ブーブー文句を言われて、私は内心

「祝っていいのか?

そんなに、祝っても良いものなのか?」

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。