『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第20章「本の出版とテレビ出演。きっと色々な形で、花は咲く」

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前話: 『イラスト奮闘録。イラストレーターになりたい、と走り続けた日々の物語』第19章「活動再開。イラストエッセイ本を作る」

その1「初めての本を出版する」

2015年、春。
イラスト活動もついに20年目に入ったその年、
初めての著書が世の中に出版されました。
それは父の介護をテーマにした、イラストエッセイでした。

そして同時に、長年憧れ続けて勉強や営業を繰り返しては
実にならなかった「本の装丁を描く」という夢を達成した瞬間
でもありました。まさか初めての装丁作品が、自分の本に
なるとは想像すらしませんでしたが。

こうして本が書店に並ぶと、嬉しくて嬉しくて、
ずっと書店巡りをし続けました。それは20年前に、
初めてイラストの仕事をした時、各書店を見て回ったのと
同じ感覚でした。

そして、ひとたび本が世の中に流通し始めると、
今までのイラスト活動とは全く違う手ごたえを
感じ始めました。それはイラストのみの仕事と比べて、
本を読んで下さった方は、思い入れの度合いが
大きく、しかもその感想がダイレクトに「私自身」に
届く事でした。

イラストの仕事は、本や雑誌の中の一部分や
数ページを彩る挿絵や、ルポが大半です。
たとえ大きなポスターの仕事をしても、作品自体に
私の名前が書いてあるわけではないので、
見て下さった方の手応えが、直に描き手の私自身に
届くことは、あまりありません。
なので、この経験は同時に「伝えている言葉の責任や、
影響の大きさ」をも、自覚する事に繋がりました。

そしてこの時「同じ『絵』を描いた作品でも、
こうした文章がついた物語性を伴った作品は、
読んで下さった方の反応が全然違う」という事を
知りました。

それは例えるなら、ある種の手応えと言うか
何か可能性のような物に触れた気がしました。
「今まで私は、イラストレーターとはイラスト(絵)を描かなくては
成り立たない職業だと思っていた。だから「絵」と言う
限られた世界の中で、より良い表現を模索し続けてきた。
でも必要以上に、その世界に囚われる事はないんじゃないか。
もちろん今まで通り絵は描くし、私はイラストレーターで
あり続けるけれど、自分の職業に対しては単に「絵描き」
ではなく「表現をし、伝える人」と言う、もっと広義の捉え方を
してもいいんじゃないか」と、思い始めていました。

要するに、絵を用いて伝えたい事を表現するためには、
絵だけにこだわらず、こうして文章を書いたり、また
全然新しい表現を考えたりと、色々なやり方を
試みてみようと思ったのです。
「大事なのは、分かりやすく伝える事だ」とも。

またこの年の6月に、ミネルヴァ書房さんで
募集していた「介護体験記」のコンテストでも
エッセイが佳作に選ばれ、受賞作品集が出版されたことも
その思いに追い風を与えました。

その2「描き続ける事の難しさと、新しいグループ展」

この年の5月、パレットクラブ・スクールの同級生から
「蒲田でグループ展をしませんか」と言う、
誘いを受けました。当初は「パレットのメンバーで
同窓会の様な感じで」と言う案だったので
「懐かしいな」と思い参加を検討しましたが、
いざ同期に声をかけてみると、予想に反して
これがなかなか集まりませんでした。

その理由は実に様々でした。
例えば遠方に越してしまったり、他の仕事が忙しかったり、
出産を控えていたり、病気で亡くなってしまったり、
そしてイラストの活動自体から遠のいて、既に
描いていなかったり。

パレットを卒業してから、ちょうど10年が経っていた
頃でした。コンスタントに描き続けていく事、この世界に
残っていく事の大変さと難しさを改めて感じました。
それでも集まった6名の同期と、知り合いの写真家さんや、
画家さんなどを新たに含めた、合計11名で
グループ展は無事に開催されました。
それは本の出版と相成って、華やかな明るい流れを
導いてくれるものでした。

けれど展示や出版と言う様な勢いのある時は、
同時に色々な事も、併せてやってきます。
「テレビに出演しませんか?」と言う知らせを
受けたのは、ちょうどこの展示会の最中で
バタバタしていた頃でした。


その3「絵描き、テレビに出る」

イラストレーターの日常は基本的に、とても地味
だと思います。毎日毎日ただひたすら紙と向き合って、
1人で黙々コツコツ自室にこもって描く日々だからです。
でも時には、すごく華やかな事もあります。
それは賞の授賞式だったり、個展のオープニングパーティ
だったり、またはポスターなどの大仕事で、自作が
街中を彩ったりする時なのですが、今回はそれに加えて
「テレビに出演する」と言う、新たな項目が存在する
事を知りました。

待望の本が出版されてまもなく、某テレビ局で
本の紹介番組を請け負っている映像制作会社の
ディレクターさんが、渋谷の大型書店で平積みに
なっていた私の本に気が付かれました。

そしてそこから「TV取材と出演」の話が舞い込みました。
第一報を受けて「出演されますか?」と、担当編集者の
Fさんに打診された時、頭に浮かんだのは何日も徹夜で
本を作ってくれたFさん達が、出版直前に「売れますように!」
と手を合わせて祈っていた姿でした。
売れるかどうか分からない、本に関しては全く
実績がない私の作品を、社内で押し通して、本を作ってくれた
Fさんには感謝もあるし、少しでも売り上げに貢献できたら
と思い、取材をお受けしました。

しかし…よくよく話を聞くと、取材日は2日後との事。
場所は自宅でと言われました。
でも今は展示会の最中で忙しく、部屋を掃除する余裕も、
何も全く時間がありません。だけどこのテレビ局は
首都圏はじめ、全国各地にローカル局を持つ、いわば
全国放送番組です。

「きれいに掃除したり、ちゃんとしていないと
宣伝どころか全国的に恥をさらす事になるのでは!?」
と、にわかに焦りが募りました。
その上、余談ですが前日は展示会のオープニング
パーティで帰りが遅かった上に、人身事故で乗っていた
電車が止まってしまい、帰宅が深夜遅くになり…
結果的に疲れて寝不足の顔のまま、取材班が来るまで
必死に家中の掃除をした次第です。

教訓「物事はいつ、いきなり動き出すかわからない。
なので常に完ぺきな状態で、待機するべし」と。
でもそれがきちんと出来ていれば、苦労はしない気もしますが。

こうして5月半ば、取材班の方が自宅に来て
約3時間にわたる撮影が行われました。雑誌の取材なら
一度受けた事がありますが、回っているカメラを前にしての
撮影取材は、比較にならない位ものすごく大変でした。
なぜなら雑誌等の場合は、言い間違えても後から
編集・修正が効きますが、テレビはそれが出来ないので
間違えるわけにはいかず、瞬時に質問された事項を
効率よくまとめて答えなくてはなりませんでした。

仮にうまく答えられても「惜しい、あと10秒縮めて下さい」
とか「『この本は』と言う表現が3度入っていたので、
ひとつだけにして言い直して下さい」とか
そう言ったやり直しを余儀なくされました。

その度に『えーと、さっきのが完璧な答えだっただけに
どこをどう直そうか』と考えるのですが、まとまらない内に
「それじゃあカメラを回します」と言われ…。
とうとう最後はくたびれて涙目です。
しかも3時間撮影して、放送されたのはたったの3分。
それでも収録された番組は、その後無事に放送され
北は東北地方から南は沖縄まで、様々な方から
感想や励ましの声を頂きました。
図書館の「おすすめ本コーナー」で、紹介して下さる
司書の方もいたりと、本当に「テレビの影響は大きい、
たった3分でもすごい」と痛感しました。

これまでも大きな転機はいくつか経験しました。
大型のポスターが街中に貼られた時や、イラストマップが
専門誌で特集された時。しかしそのどちらの反響も、
イラスト関連の業界の中で起こっていました。
けれどこの本の出版とテレビ出演は、業界を超えて
ようやく一般の方に届いたと言う感覚がありました。

少しずつ、少しずつ、それこそ20年と言う
時間の長さを考えれば、その歩みはごくわずかですが
それでも確実に手応えは広げつつある。そう感じました。


その4「ふたり展の開催とサプライズ」

2016年10月、原宿のギャラリーで
5年ぶりに大きな展示会を開催しました。
イラストレーターの友人A子さんと共同の
「ひとりごと ふたりてん」です。

前回大きな展示をした時は、活動15年目の節目
としての個展でした。なので本当は今回も、
活動20年目の節目の「個展」に出来たら良かった…
のですが、この5年間は前述のとおり私の周囲は
逆風が吹き荒れ、心身共に疲れ果てて、
奈落の底まで沈んでいたので、単独で大きな展示をする
パワーはまだありませんでした。

こういう時は無理をしても、うまく行きません。
ところが今回は折よく「陽のオーラ100%全開」と言った、
元気な勢いを持ったA子さんが声をかけてくださった事で、
「二人展」と言う形で実現できました。
これは幸運でした。

とは言え、今まで個展やグループ展、カフェ展などは
多々こなしてきたけれど、二人展は初めての試みです。
しかも一説では「二人展が一番難しい」とも言われているので、
一体どんな展示になるか、正直不安でした。

しかしいざ、ふたを開けてみると…これは
「今までの展示でも最高ではないか」と言うぐらい
何もかもが面白い展示会でした。
通常、イラストレーターの展示会と言うのは、仕事の営業の場
でもあるので、友人だけではなく仕事関係者の方との
新たな出会いもあるので、割と緊張を強いられることが多いです。
ですが、A子さんの人柄のせいか連日すごくリラックスした
笑いの多い、いい意味で肩の力の抜けた展示になりました。

そしてその肩の抜け具合が、良い雰囲気を生み出したのか
展示最終日、驚くべきことにあの憧れの画家・Y口さんが
来場されました。Y口さんは数年前、コンテストの
審査員をされた際に、私のイラストマップを選んで、
道を開いてくれた方です。
この頃はちょうど水戸の美術館での大きな個展を
終えたばかりで、そのご様子はテレビの日曜美術館や、
情熱大陸などの番組でも、相次いで特集されていました。
確かに以前授賞式の会場で、一度お会いしていましたが
基本的にY口さんは「テレビとかメディアで見かける方」と言う様な
イメージでした。そのY口さんが、ギャラリーの会場にいる!?

正直言って、生涯でこれほどまでに驚いて、緊張した事は
ありませんでした。心臓が口から飛び出るかと
思ったほどの、衝撃度200%です。
いや、衝撃を通り越して破壊力と言うべきかもしれない。
実際にY口さんが会場に現れた時、部屋の重圧が
ぐっと下がり、見に来ていた他の絵描きの友人達が
軒並み緊張して、何故かみんなその重圧に耐え切れず
帰ってしまったほどでした。とにかくすごいオーラです。

思わずDMを出して、お声をかけた張本人である
私でさえも帰ろうかと、錯乱するほどのオーラでした。
ちなみにA子さんは、後日しみじみと、この時の事を
振り返って「Y口さんとは、皆が(Y口さんの)展示を
見に行く事があっても、Y口さんご自身が見に来る
展示がある、という概念は今までありませんでした」と、
言うぐらいのカルチャーショックを受けていました。

Y口さんのこの突然の来訪は、当然ながら私に
大きな励ましをもたらしました。「Y口さんに作品を
見て頂けるなら、私はこれからももっと頑張ろう。
見て頂いて恥ずかしくないような、いい作品を描き続けよう」と。

ひとつの事を続けていると、たまに神様が面白がって
ご褒美をくれる事があるのかもしれません。
イラスト活動は決して良い事ばかりではないけれど、
悪い事もずっとは続かない。そしてその両面が
あるからいいんだと思います。きっとこの世界は
バランスよく出来ている、そんな気がします。


その5「巨大なイラストマップに挑戦する」

この「ふたり展」の際に、私は旧甲州街道と言う道の
イラストマップを描いて展示していました。旧甲州は
F市の中心部分に位置し、東西に伸びている
歴史ある旧道です。
当時父の病院がこの街にあったため、たまたまこの道を
連日通っていたのですが、周囲には歴史ある建物や
賑やかな駅前風景などがあり、絵にすると非常に
映える箇所でした。

完成した絵地図は、市全体の5分の一ほどの
大きさになりました。しかし次は展示を見に来た
F市民の方々から「折角だからこれを基にして、
F市の全体図を描いてみたら?」とアドバイスされます。

ひとつの街全部をイラストマップに?
確かに以前、下北沢を描いた事はあったけれど、
あれはあくまで駅周辺です。今回は例えるなら
「下北沢が属している、世田谷区全体を描いてみたら」
と言うに等しい提案でした。

街の全体図なんて…確かに面白そうだけど、
そんなものが実際に描けるのかしら。
でもやってみない事には、可能か不可能かわかりません。
「それにもし完成したら、それはきっとものすごく迫力があって
面白い作品になるだろうな」と、そんなワクワクした
好奇心が勝って、試してみようと言う気になりました。

幸いオリジナルの作品を作る時間はあります。
それにまだ父の介護も続いていたので
「それなら病院に通いがてら、もっと歩行距離を伸ばして
描いてみようか。引き続き病院通いに飽きる事への
防止にもなるし」と思い、巨大マップ作りに乗り出しました。

後日談ですが、このマップはさんざん苦労したあげく
1年3か月後の2017年1月に完成します。
全長3・30メートル、高さ2メートルに達した
この作品は、さながら巨大な絵巻物のようでした。
そしてこの作品は、その後少し面白い展開をしました。
でもそれはまた、少し先の話になります。


その6「きっと色々な形で花は咲く」

私はイラストレーターになった時、定期的にコツコツと
仕事を受けて、地道にそれをこなし続ける作業スタイルに
憧れていました。けれどいくら描いても、営業しても、
なかなか安定した仕事がとれなくて、そしてその事は
次第に私にとって大きなコンプレックスになっていました。

「ダメなイラストレーターだな」と、ずっと思っていました。
こんなに活動(仕事)に波がある様じゃ、ダメだって。
イラストでちゃんとご飯が食べられないのは、ダメな証拠だって。

周囲の友人の中には、活動歴は短くとも、すでに安定した仕事や
人気を得ている人が、沢山いました。そう言う確かな技術と
才能がある人が、私が目指していた所の本当のイラストレーター
だと思います。だから自分は今でも「イラストレーターです」と
名乗っていいのかどうか、正直悩みます。

でもある時、たまたま都内の美術館で高名な画家のY尾さんに
お会いする機会がありました。Y尾さんは西洋の美術雑誌を
手にしながら、傍らにいらした知人の方に
「この作家さん、また出てきているんだね。こういう風に
いなくなったと思ったら、また出てくる作家さんって…」と
話しているのを聞いて、私はきっと『ダメだよね』って
言うんだろうなと、勝手に構えていたのですが
意に反してY尾さんは「面白いよね」と呟かれました。

その一言は、私には目から鱗でした。
「えっ、そういう風に浮き沈みが激しくてもいいの?
世の中にはそれを、ダメではなく面白いと受け止めて
くれる方もいるんだ」と。
また同時に私の様に、浮き沈みが激しいタイプの
作家さんもいるんだと言う事にも気付かされました。

この20年間を振り返ってみて、自分は当初
意図していたようなイラストレーターには
なれなかったけれど、表現の方法は絵に
限らなくても良いと言う事も、同時に経験しました。
なのでこれから先も絵を描くだけに留まらず
「表現し伝える人である」と言う広い概念で
活動を捉えて、さまざまな方法を用いて
描いて行ければいいと考えています。

咲いたり、ダメになったり、を沢山繰り返して
きたけれど「きっと長くひとつの事を続けていれば、
何度でも色々な形で花は咲く」と思います。
人は一度咲いたらお終いじゃない。
形を変えて何度でも、また花を咲かせることが出来る。
それはイラスト業だけではなく、どんな職業でも、
どんな生き方にも、当てはまるかもしれません。
それが20年かけて見えてきたものでした。

同時に今まで活動を続ける事が出来た秘訣は、
単に私の意地だけではなかったように思います。
ここから先は父が入院していた病院で、ベテランの
介護士さんと話した時の会話です。

私とそれほど、歳が違わない様に見えたその方は
ある時「この仕事をする前は、印刷会社に
勤めていたんですよ」と教えてくれました。
「まだパソコンが、これほど普及する前だったので、
自分で文字をデザインしたり、ロットリングしたり
していました」と。何かを描いて表現して伝える、
という事に於いてその職業は、イラストの世界と
それほど遠くない気がしました。
けれど彼は今は介護職です。

「ずいぶん畑が違う職種を選ばれましたね」と、
驚く私に対し「パソコンなどを覚えて、印刷業を
続ける道もあったんですけど、それは自分が
やりたい事と、ちょっと違うかなと思って。
やはり手書きでデザインを組みたかったので
辞めてしまいました。それに元々うちは小さな
兄弟が多くて、いつも誰かの世話をしていたから
介護の仕事も向いているかもしれないと思ったんです」と。

私も、迷う事はある。むしろ迷ってばかりです。
なので「だけど諦めたり、辞めたりする事って、
ものすごく勇気がいるじゃないですか。私も悩むけれど、
その勇気がないから続いているだけかもしれません」と
伝えると、その介護士さんは笑ってこう言いました。

「だけど、周囲で支えてくれていた人が、
沢山いたんじゃないですか?そういう人がいる事も、
才能の一部なんですよ」と。

私は、ずっと夢中で描いてきました。
ずっと一人で描いてきました。
でも確かに描くのは私一人だけど、その生活や活動を
維持するためには、家族や友人や読者や仕事先…
その他、周囲の様々な人達からのサポートが、
絶対不可欠でした。自分個人の力には限界がありました。

支えてくれる人たちに対して、それまでは
「きちんとした成果が、なかなか出せなくてごめん」と言う
気持ちが強かったのですが、介護士さんが言ってくれた
言葉に甘えるなら、もう少し本当の限界まで
描き続けてみよう。そして少しでも支えてくれた
世の中の人達の、役に立てるような作品を描こう。
そうやって、自分の力を返していこう、と思いました。

私は回り道や行き止まりが多く、きっと人よりも効率が悪い
時間がかかる絵描きなのかもしれません。
でも時間をかけてきたからこそ、気付けたものや、
出会えた人もきっと多かったんだろうと思います。

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