最後の慰霊祭

  鹿児島で高校の同窓会に参加した翌日、私は九州新幹線に乗り、福岡に向かった。2016年7月17日のことである。博多駅には一人の女性が待っていた。75歳の私よりは40以上も若い女性である。プラットフォームに降りると、手を振りながら笑顔で近づいて来た。彼女は小柄ながら元気で明るい性格である。言葉遣いも丁寧で、はっきりした口調で話す。「鶴亀さん、アメリカからの長旅、ご苦労様でした。また会えて嬉しいです。有難うございます」と挨拶して呉れた。彼女の名前は萩尾麻由さんという。彼女のお父さん、萩尾武紀さんを私は良く知っていた。武紀さんのお父さん、武夫さんは私の父親の極めて親しい戦友だった。二人は日本帝国海軍の伊号166潜水艦と共に今もマラッカ海峡のペナンとシンガポールの間の海底に眠っている。マラッカ海峡はマレー半島とスマトラ島の間にある海峡で、現在では中東から石油を、中東や欧州へ自動車や家電製品などを運ぶ、日本経済にとっては生命線とも言うべき重要な航路でもある。


  麻由さんの運転する車で私達は佐世保を目指した。佐世保の東山公園内にある海軍墓地で行われる伊号166潜水艦の慰霊祭に参加するためであった。佐世保東山海軍墓地は高台にあり、眼下には佐世保の市街と港が見渡される。くねくねした坂道を上り詰めると門があり、門の向うには緑の芝生が広がっていた。今は季節ではないが、桜の大木が何本も立ち、中央には東郷平八郎元帥の銅像があった。戦前、日本帝国海軍は横須賀、呉、舞鶴、そして佐世保に艦船の根拠地を置いていた。鎮守府と呼ばれ、艦隊後方を統括していた。佐世保鎮守府には52隻の潜水艦が所属していたが、太平洋戦争中にその内、32隻が沈んだ。総勢2,591名の乗組員が戦死した。伊号166潜水艦では私の父と萩尾武夫さんを含め、88名が亡くなった。1944年7月17日のことである。イギリスの潜水艦、テレマカスの魚雷を受け、沈没した。


  毎年7月17日に行われて来た慰霊祭も遺族の皆さんが高齢となり、参加者も年々少なくなっていた。以前は数十人あった数が今年はわずか11名だった。私が遺族会の会長を務めていたが、今年が最後の慰霊祭になるだろうと覚悟していた。実は二年前の慰霊祭が最後になる予定だったが、その後も何人かの遺族の皆さんの要望があり、今年また実行したのだった。いわば今回は二度目の最後の慰霊祭である。慰霊祭は墓地内にある潜水艦合同慰霊碑の前で行われた。御影石の立派な慰霊碑は昭和60年(1985年)に佐世保鎮守府に所属した潜水艦関係者の手により戦友の冥福を祈るために建てられたものである。題字は当時の総理大臣、中曽根康弘氏の揮毫である。横の戦没者銘板には2,591名全員の名前が刻まれている。  

 

  二年前の一度目の最後の慰霊祭の後、さらに何人かの参加者がこの世を去っていた。癌治療中の身体を押して参加した萩尾武紀さんもその一人だった。東京で劇団に入っていた娘の麻由さんはなるべく父親の近くで看病したく、好きな演劇を離れ、福岡に戻っていたが、その甲斐もなく武紀さんは静かに亡くなった。麻由さんから聞いた娘と父親の間の会話の一つ一つは私の胸に強く響いた。父は娘に「心を込めて看病して呉れて有難う。毎日麻由と色んな話が十分出来て本当に嬉しかった。必ず天上からいつまでも麻由のことを見守り、応援しているよ」と感謝の言葉を伝え、最後の息を引き取ったという。武紀さんは父の武夫さんの遺言に従い、福岡県警で長年働いた。趣味はトライアスロンでいつも練習を怠らず、極めて健康かつ強い体力を誇っていたが、癌には勝てなかった。武夫さんの遺言には「世のため、人のためになる仕事を選べ」とあったという。武紀さんの息子さんも警官となり、スワットチームの一員である。前年に亡くなった父を偲び、彼も勤務の休みを取り、家族と共に二度目の最後の慰霊祭に参加した。頑丈な体躯と敏捷な行動が私の印象に強く残っている。祖父から息子へ、そして孫へと「世のため、人のため」のメッセージは継承されているようである。


  私の父親が戦死した時、私は3歳だった。武紀さんは4歳だった。私の7歳の誕生日に母が仏壇の引き出しから姉と私に宛てた父の遺書を取り出し、私に見せた。それには「いとしの我が子よ 父は今帝国海軍の天晴れなる軍人として潔く死んでゆく 皇国のために 汝等はいまだ幼くしてよく父の面影だに思ひ出すまい しかしこの父はこの魂は必ずそちら二人の身辺から寸刻も離るまじ この父の恩より幾層倍ました母の偉大なる御恩をよく感得して一日も早く成人して母への孝養を盡しておくれ 汝等二人の成長を祈って居る よい子どもよい日本人に育っておくれ いとしの淑子と彰よ 父より」とあった。その姉も戦争中にわずか6歳の若さで亡くなった。

 武紀さんは父親の遺言に従い、立派な一生を終えた。未亡人となった母親にも孝行を盡した。果たして私はどうだろうかと、父の遺言を再度思い起こした。私は1966年、25歳の時に企業駐在員として渡米したが、それ以来半世紀近い在米生活が続いている。母親は私がロサンゼルスでの生活を始めた翌年肝臓癌で亡くなったため、十分な孝養を盡せなかった悔しさと悲しみが今も深く私の心に残っている。私は父の遺言に答えられなかったのではないだろうか。


  私が大切にしている二枚の写真がある。一枚は1943年にペナン基地滞在中の伊号166潜水艦の艦上で萩尾武夫さんと私の父親が肩を組み、楽しそうに笑っている写真である。二枚目は2004年に武紀さんと私、息子同士二人が父親たちと同じように肩を組み、撮影した写真である。二年前の一回目の最後の慰霊祭を終えて別れる前にも二人で同じ姿勢で麻由さんのデジカメの前に立った。それが武紀さんとの最後の写真になった。

  慰霊祭は無事に終わったが、一人の老女の姿が無かった。誰よりも熱心にいつも参加していた人だが、転んで複雑骨折のため入院中だとの説明が娘さんからあった。老女の名前は本岡文子さんと言い、現在94歳になる。伊号166潜水艦の慰霊祭が最初に行われたのは2004年だったが、彼女はそれ以来、必ず参加した。彼女から聞いた話も切ないものだった。彼女には一人の兄がいた。向井栄さんと言ったが、伊号166潜水艦では魚雷担当だった。とても優しく思いやりのある兄だったという。彼女は兄の凛々しい軍服姿を今も鮮明に記憶している。最後に佐世保を出る際、出港前日に家に立ち寄り、好物のお汁粉を望んだ。文子さんも母親を手伝った。ほやほやのお汁粉をおいしそうに食べていた兄の表情が忘れられない。それが兄妹の最後の別れとなった。また文子さんの両親も長崎の原爆で亡くなった。一人きりになった文子さんは頼るべき人もなく、胸が不安で潰れるような日々だった。しかし彼女は押し寄せる困難にもくじけず、結婚し、出産し、子供を育て上げた。今は優しい子供達や孫達に囲まれて幸せな日々を送っていたが、寄る年波のせいか、庭先で転倒したらしい。


  11年前、2005年7月の慰霊祭は伊号166潜水艦が沈む海上で行われた。日本財団が資金支援していたマラッカ海峡協議会とインドネシア海事局の特別な協力で実現した。本岡文子さんや萩尾武紀さんを含み、11家族、総勢24名の遺族が参加した。沈没地点で追悼の祈りを捧げ、遺族たちは日本から持ってきた死者たちの好んだお酒やたばこ、食べ物や菊の花を船内に準備された祭壇に捧げた後、海底に眠る愛する家族に届けと祈り、海中に投げ入れた。不思議なことが起きた。文子さんが手にしていた白い菊の花を投げ入れた。横にいた日本財団の理事長だった作家の曽野綾子さんが黄色い菊の花を文子さんに手渡し、文子さんはそれも投げ入れた。他の人々が投げ入れた花は波に乗り、どんどん向うに流れて行くのに、文子さんが投げ入れた白と黄色の二本の菊はすっと近づき、下駄でも並べたみたいにまっすぐ並んだ。そして船から離れず、いつまでも近くでプカプカ浮かんでいた。それを見た時、文子さんは心の底から湧き上がる喜びを感じたという。長年思い続けていた最愛の兄と長い歳月を経て、やっと一緒になった気がしたという。

 警察官でトライアスロンの強者の萩尾武紀さんも顔中涙に濡れながら、「父の死ははるか昔にあり、半分忘れて日々の生活を送っていたが、今日、父が眠る場所に来て、深い感動に包まれています。父はここで死にましたが、自分に命を与えてくれた人です。父への感謝の思いで胸がはちきれそうです」と語った。武紀さんの妹の福田静子さんも、白いハンカチをびしょびしょにしていた。父は静子さんが生まれてすぐに出征した。名前を決めてくれたこと、一回だけおしめを洗って貰ったことが彼女の喜びであり、誇りになっていた。福岡から何度か上京して靖国神社に参拝したが、父と会えた実感を得ることは出来なかったそうだ。しかし、この海では身体が震えるほど父を感じたという。海面に向かって泣きながら「お父さん、お母さんと天国で再会しましたか、今、一緒に仲良く過ごしていますか」と大声で問いかけていた。

 岡本美代子さんという愛媛出身の老女がいた。甲板の上から海を眺めながら慟哭していた。兄がどこで、どんな最後を迎えたのか知りたいと願い続けた長い年月だった。彼女の兄は植田松雄さんといった。兄と妹が最後の語らいをしたのは植田さんが21歳、岡本さんが17歳の時だった。出征に際し、兄は妹に形見分けかのように、自分の使っていた腕時計と万年筆を贈った。その夜、兄が風呂場の湯気で曇ったガラス戸に、こっそり自分の恋人の名前を右の人差し指で書いているのを岡本さんは目撃していた。その情景が岡本さんの脳裏に戻り、たとえようのない悲しみと懐かしさが彼女を襲ったのだった。

 鹿児島県の沖永良部から参加した東一之という老人がいた。彼の弟、一昭さんは伊号166潜水艦の最年少の乗組員だった。通信担当でわずか15歳だった。山口県防府市にあった海軍通信学校で6ヶ月間の厳しい教育を受けた後、伊号166潜水艦勤務となった。若くして異郷の海で死んだ弟のことを想って一之さんは慰霊祭の間、ずっと沈黙していたが、周りの人々に励まされて、静かな口調で弟の思い出を語った。「まだ小学生だった弟が畑で大けがをしましてね。村には診療所がなかったものですから、中学生になったばかりの私が2里も離れた隣村の診療所に背負って連れて行きました。じっと痛みを耐える弟の身体から伝わった温かさを今までずっと忘れていたのに、それを今、この海に来て思い出しました。生きて郷里に戻っていれば、結婚もし、子供も生まれ、今頃は孫に囲まれているでしょうに。何故15歳の若さで死ななければならなかったのかと、まだ納得出来ない思いです」と両眼を潤ませながら語った。


  海上慰霊祭に参加した24名の遺族の大半は70代、80代の老人だった。戦死者の兄弟・姉妹が多かった。戦死者の子供は萩尾武紀さんと福田静子さん、そして私の3人だけだった。遺族会会長の私としては老人たちの健康が心配だった。行先は赤道直下の南の海である。しかも夏の盛りである。灼熱の太陽で、気温は容易に40度を越え、その湿気は想像を超える。旅の疲れからの風邪や下痢だけでなく、日射病や風土病の恐れもある。多くの人が初めての海外旅行だった。しかし、老人たちの決意は固かった。「たとえ死んでも、愛する身内の最後の場所を見たい。そして鎮魂の祈りを捧げたい」と覚悟していた。潜水艦の基地があったペナンやクアラルンプール、そして海上と5泊6日の旅だったが、老人たちは耐え抜いた。沈没地点に向かうためにマラッカ海峡に近いクアラルンプールのシャー・アラム地区にあるグランド・ブルーウェイブ・ホテルに泊まった。日本の資本が入っているので、日本食も楽しめる。日本人の若い女性スタッフも数人いて、年寄りたちを優しく世話して呉れた。だが、その彼女たちが老人たちの優しさや思いやりの心にすっかり感動したらしい。戦後の困難を乗り越えて来た老人たちの強さ、優しさを実感したのであろう。私が見ていても老人たちは本当に謙虚で、忍耐強く、常に周りの人を気遣う優しい人々だった。日本人が伝統的に持つ、律儀で正直、勤勉で我慢強い気質に加え、敗戦と戦後の食糧難や物不足を乗り越えた共通の体験から、譲り合いや思いやりの態度が身体に沁み込んだ、素晴らしい市井の人々だった。老人たちの乗ったバスがホテルを出発してクアラルンプールの空港に向かう朝、日本人の女性スタッフは全員がホテルの出口で見送ったが、わずか2泊3日の触れ合いの印象がそこまで強かったのか、泣きながらバスを追い、手を振った。老人たちもバスの窓から彼女たちが見えなくなるまで手を振っていた。


  11年前の海上慰霊祭を思い出している内に私はどうしても本岡文子さんにもう一度会いたくなった。今回の機会を無くすと、もう二度と会えない可能性が高い。彼女は94歳である。私は彼女が入院中の病院を訪ねたいと思った。彼女の娘さんで遺族会の事務局長を務めている吉原ゑみ子さんにその希望を伝えると、「母は喜ぶと思いますけど、ここから1時間以上掛かり、そこから博多駅に戻るにはうんと遠回りになりますよ」と言った。その言葉を聞いて運転手役の麻由さんの方を見ると、彼女は笑顔で「大丈夫、行きましょう」と言って呉れた。

 複雑骨折で身体を動かせない文子さんだったが、私と麻由さんの訪問を心から喜んで呉れた。私の手を握って離さない。ベッドの上で横になったままの日々だが、食欲もあり、医師や看護婦さん始め、娘夫婦や孫たちも優しくして呉れているらしい。「毎日感謝の日々です」と言い、「ところでオランダのカチャさんはどうしていますか」と聞く。カチャさんについては少し説明がいる。伊号166潜水艦はオランダの潜水艦K-16をボルネオ沖で1941年12月25日に撃沈していた。クリスマスの日である。全員36名が戦死したが、カチャさんのお父さんもその一人だった。元は敵同士だったオランダと日本の間で潜水艦家族同士の交流が生まれていた。カチャさんは2005年4月に日本を訪れ、東山海軍墓地で文子さん始め伊号166潜水艦の遺族と会った。伊号166潜水艦の魚雷担当は文子さんの兄だった。文子さんはカチャさんに歩み寄り、謝罪した。その行為に心を打たれたカチャは「有難うございます。しかし謝罪は必要ありません。それは戦争でした。貴女のお兄様も私の父親も軍人として愛する国のために戦っただけです」と言い、1メートル80センチもある大柄な彼女は1メール50センチほどの文子さんの小柄な身体を優しく包み込み、いつまでも抱き合っていた。戦争の悲しみを知る二人の抱擁だった。その最初の出会い以後も文子さんはカチャさんのことを気にしていたのだろう。

 カチャさんと一緒に伊号166潜水艦を沈めたイギリスの潜水艦の艦長の娘さんとお孫さんも上記の旅に同行していた。艦長さんの家族は戦後イギリスではなくアイルランドにあるオーランモア城という古城に住んでいた。2004年に当時まだ94歳で健在だったビル・キングという艦長さんを発見した私はカチャさんや私の家族と一緒にオーランモア城を二回に渡って訪問していた。そしてお城の庭にリンゴの木を植えていた。今度は東山海軍墓地で記念の植樹をした。事務局長の吉原ゑみ子さんが準備して呉れた桜の木を植えた。2007年には今度はオランダでも海軍兵学校の庭に梨の木を植樹した。三本の木には「和解と友情を祝し、平和なる世界を祈る」という言葉が「テレマカス、伊号166、K-16」の名前と共にプレートに刻まれている。三つの国の三つの潜水艦家族の交流は今も続き、アイルランドと日本とオランダで三本の木がすくすくと育っている。

  夜が迫っていた。「後は天国で兄と再会するのが楽しみです」と語った文子さんに別れを告げた。彼女との出会いは恐らく今度が最後かも知れない。博多駅に戻る車中で麻由さんと私はいろんな話をした。麻由さんは「多くの遺族が亡くなっても私一人だけでも毎年7月17日には慰霊碑を訪問し、祈りを捧げます」と言った。私は彼女の言葉に感激し、「それでは二年後の2018年、例え二人だけででも三度目の最後の慰霊祭をやりますか」と言うと彼女は大きく頷いた。11年前の海上慰霊祭に参加した老人たちもその多くが亡くなった。その内には私も死ぬだろう。しかし、もうしばらくは麻由さんの手で慰霊祭は続くだろう。そして、東山海軍墓地の慰霊碑の横に年々大きく伸びつつある桜の木と、アイルランドのオーランモア城にあるリンゴの木と、そしてオランダの海軍兵学校の庭にある梨の木は、三度目の最後の慰霊祭の後も、麻由さんの一人での慰霊祭の後も、ずっとずっと長く戦争の記憶を語り続けて呉れることを私は願いながら、麻由さんと別れた。長い一日だったがいつまでも心に残る一日だった。(終わり)











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