カルト教団の信者であった母親の思い出
私は約40年間という長きに渡って、精神的な世界を相手にただ1人でずっと戦ってきた。
精神的な世界と言っても、教団にいた頃の自分にとっては、生きるか死ぬかを意味するほどの現実的な世界そのものだった。
たとえ、その世界がカルト思想によって形作られた世界観であったとしても、それが自分たちが生きている世界の全てなのだと信じ込んでいた。
その戦いは私がまだ物心のつかない頃、3歳の頃から始まった。
それはちょうど母があのカルト教団 「エホバの証人」の信者と勉強し始めた時期だった。
当時の我が家は、父がずっと単身赴任で不在の中、母が1人で幼い二人の我が子の子育てに奮闘していた。
そんな母はいつも何かに不満を抱えて苛立っていた。機嫌の良い時はほとんどなかったように思う。
なぜなら、そんな時があれば、子供だった私たちは幼いながらも、機嫌の良い母に対して、逆に違和感を感じていたからだ。子供たちは母の存在全てが恐怖だったので、時折見せる母の笑顔さえ怖がっていた。
母の日々の苛立ちは、日夜、か弱い二人の子供たちに向けられ、体罰に形を変えてぶつけられた。子供たちにとって、家庭は憩いの場ではなく常に拷問を受ける場所だった。
だが、その母もまた本当の愛情を知らずに、自分の親から育てられたきたのだろう。血は争えないものである。
そんな拷問で満ちる我が家という世界に、ある日、あの不気味な笑顔を浮かべたエホバの証人たちが入り込んできた。
だからと言って、我が家に平和が訪れたわけではなく、自分たちにとっては母からの拷問がいくらか形を変え、理論武装されてさらに長期化しただけだった。
エホバの証人になる前の母には、いわゆる世の友人、非信者の友人が数名いたので、たまに、ではあったが、その友人宅に母と妹と三人で車で出かけることもあった。
そこで幼い私は、初めて母と同世代の女性をじっくりと間近で観察することになる。
その時、私は普段の母親に漂っている「怒りの雰囲気」とはまるで違う、母の友人たちに漂っていた「優しい雰囲気と物柔らかな物腰」にとても感動したことをよく覚えている。
また、その時、友人の前で体裁を取り繕い、作り笑顔を振りまいていた母の醜い姿もよく覚えている。
子供ながらに、私は、自分の母とその友人たちとは持っている「心が違うのだな」と直感的に把握していた。
だから「母にあの友人のような物柔らかさを求めても無駄だ」と諦めてもいたのだ。
また、その友人宅にいる時だけは、私がある程度、好き勝手に振舞っても、怒られることはなかったので、自宅にいるよりもずっと安心し、とてもリラックスして振舞っていた。
だが、あまりに気分が良くなってしまったためか、普通以上にはしゃいでしまった私は、母の友人の大切にしていた私物を壊してしまった、という記憶がある。
その時、その友人は「子供のすることだから仕方ないわよ」とすぐに快く許してくれたが、母には、帰りの車内で酷く怒られてしまい「そんなイタズラをして、私の友達に迷惑をかけるぐらいなら、もう二度と連れていかないわよ、家にロゴスちゃんだけ置いて私達だけでいくわ」と怒鳴られ、その怒りが収まることがなかった。
幼かった当時の私達たちにとって、この「真っ暗闇で寂しい自宅に1人取り残される」という宣告は、非常な恐怖以外の何物でもない。
母はそれを知っていたので、ひとしきり怒鳴り散らして私を怒った後は、あえて最後に「そんなことをしてるとロゴスちゃんだけ家にひとりぼっちにさせるわよ」と決めゼリフのように言うことで、私にさらなる恐怖というダメージを与え、自分の言いなりにさせようとしていたようだった。
そういう時の母の顔は、いつでも、まるで般若のようだった。
なぜ、般若が思い浮かんだかというと、当時、初めて見たテレビの時代劇番組の中で、般若の面を被った侍が、突然表れた時に、咄嗟に「あ、怒った時の母の顔とそっくりなお面だ」と心の中で思っていたからだ。
母のこういう一面、すなわち怒りの感情に振り回されて、相手をトコトンまで痛めつける邪悪な性格は、エホバの証人たちと勉強を始めたからと言って、全く変わることはなかった。
むしろ「神のムチ棒」というJWたちに承認された強靭な武器を手にすることによって、より一層エスカレートし、さらに子供たちを精神的にも肉体的にも痛めつけるようになっていったのである。
私には、こうした幼少期の辛い体験があったので、孤児院にいる子供たちのように、親から虐待を受けた子供たちの気持ちも、その子供たちの寂しい思いも、ある程度、理解することができる。
そして、エホバの証人をやめた今では、孤児院でのボランティア活動に定期的に参加している。毎月、なぜだか、そこの子供たちに会いに行きたい、と思ってしまうのだ。もしかしたら、幼少期の自分の姿と孤児院の子供たちの姿とを重ね合わせているのかもしれない。そこの子供たちは、事情があって今は孤児院に預けられているとはいえ、あの愛らしい子供たちには罪は全く無いのだから。
再び、母親についてだが、ほとんどの場合において、虐待加害者には「自分が虐待者である」という認識が欠けている。
子供が自分の言うことを聞かないので仕方なく自分が子供のために、懲らしめている、という言い訳を心の中で常にして、自分を正当化しているからである。
なので、うちの母親が、大怪我をした私を戸塚病院に連れて行った時に、医師は母親に対して「お母さん、普段から子供を虐待していませんか?」と尋ねたのであるが、母は「そんなことありませんよ」と平然と答えた。
せっかく医師が母親に気付かせるチャンスを与えたのに残念なことである。彼女は改心する機会を一つ失ってしまったのだ。
そんな母親が、ついにエホバの証人と勉強を始める時がきた。
横浜の片田舎にあるボロアパートの我が家を尋ねたのは、現在横須賀の会衆にいる斉藤兄弟、元自衛隊の兄弟である。お国のために仕えるのをやめて、仕える先をエホバに鞍替えした人物だ。
彼は、まずアパートの二階にやって来たが留守だった、そして我々の住んでいた一階にやってきた。母親は勘付いていたらしく、訪問を待ち望んでいたようだった。ちなみにその日の奉仕で斉藤兄弟は、全く良い人に出会うことができず、多少落胆していたらしい。
だが、母親は違っていた。カルトにぴったりな直情的で猪突猛進型人間だったからだ。母親は人恋しいのもあり、その兄弟の拙い証言をじっくりと聞いた。
彼が協会の発行した「真理」の本を紹介しようとすると、母は、「その本、私も持っています。すぐに勉強したいです」と斉藤兄弟にとってはありがたい言葉をのたまわったのである。斉藤兄弟は飛び上がって喜んだ。
それが全ての不幸の始まりだった。
これまでの母親の過剰な虐待に神のお墨付きが加わったのだ。
それからというもの、母親は自分の子供をムチ打つことに対して、一切の戸惑いがなくなった。
むしろ、神の名の元に自分は子供たちをムチ打ち懲らしめなければならないのだ、というように虐待が完全に神聖化されてしまったのだ。
ここまでの私のライフストーリーに、そして、私の母親像に深いショックを受けた方々がいるかもしれないが、全ては事実なのであり、仕方がなく変えがたい現実だったのである。
私の母親は、JWになる以前から少しも母親らしいところがなかったので、私と血は繋がっていたが、私にとっては「本当の親」などではなく、赤の他人のようだった。
いやむしろ、世間に野放しにされ、好き放題に子供を暴行する単なる虐待者でしかなかった。
たまに、私が怪我をして帰ってきても、母親から手当をされたという記憶はほとんどない。
そして、たとえ手当をしたとしても、傷口にしみる薬を強く塗りつけたり、包帯で強く締め上げたりして、後から非常な痛みが伴ったので、それ以来、私は自分の体を母親に一切触らせないようにしてきた。
そして、どんなに大きな怪我をしても、手当や包帯を巻いたりすることは、いつも自分でするようになった。
また、母親は子供のために、三時におやつを作ったりすることはほとんどなかったので、よく自分自身でおやつを作っては空腹を満たしていた記憶がある。
なぜ、母親が幼少期の無力な自分のことを、あれほどまでにひどく憎んでいたのか、その理由はずっと分からず仕舞いだ。
そして、私の中にこの母親と同じ血が流れていると思うだけで、私は大変に嫌な気分になるし、願わくばそうでなければいいのに、とさえ思ってしまう。
またかつては、この母親の元に産まれずに、友達の母親のように優しい別の母親の元に、産まれてくれば良かったのに、と思うこともあったが、そればかりは願っても変えられない自分の運命であり、仕方のないことだった。
ただ、この母親に対して、自分を産んでくれたことにだけは感謝している。
それによって、私は今でもこうしてなんとか生きる喜びを見出していて、それなりに人生に幸せを見出せてもいるわけなのだから。だが、それ以外の感情は一切ない。
何しろ産まれた頃から、私は母から愛情を一切受けてこなかったわけだし、ましてや母がエホバの証人になってからというもの、常に「神の王国」が生活の中で、第一位の位置を占めるようになったので、その傾向はなおさら強化されていったからだ。
私は、過去において母から見せかけの優しさを示されたことはあったが、心のこもった本当の優しさを感じたことは一度もなかった。
ある人は、私を寂しい生い立ちの人間だと思うかもしれないが、自分の世界には最初から、どこにも母親の優しさなんてなかったのだから、寂しいとは思わなかった。
ただむしろ、JW以外の他人の家庭を見ては羨ましく思ったり、自分自身の辛い境遇に悲しみを覚えたりすることはあった。
私が幼子だった当時、自分のことを守ってあげられるのは、非力な自分だけだったのだが、それがいつもうまくいくとは限らなかった。
母親が強い力で私の体を引っ張ったり、叩いたりしてくる時は、全く無抵抗で無防備な状態だったので、いつもされるがままだった。だから、母親から暴行されるのをただただ黙ってずっと耐えていくしかなかったのだ。
ただ、こうして誰にも守られることなく、常に自分の身が危険にさらされることは、日常においては、当たり前のことだったのでそれをひどく辛いと思ったことはあまりなかった。
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