イベント業界で生きていく

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電算の頃から少しは手伝っていたものの、現場に出るのは人生初。

しばらくは怒られ、怒鳴られ、凹む日々。

休みはない。残業はある。ゆとりはない。ストレスはある。

そんな日々が3年位続くと、意外と慣れるもんで。。。



イベント屋といっても、様々な業種がある。

俺はイベント屋に就職したつもりだったけど、就職したのは「施工屋」だった。

施工屋というのは、簡単にいえばステージ作ったり、看板作ったり、備品用意したりと、

大道具+小道具のような仕事。

逆に「施工屋」以外、よく分かってなかった。

イベント業界マップなんてないんだもん。。。



ふとある時に「出向してくれ」と言われた。

日本トップの代理店のグループ会社。

もともと先輩が行っていたから、気軽な感じで行ったけど。。。

「免許取り立ての人間がターボチャージャー付の車に乗る感じ」

乗れなくはないよ。でも、無理だよ。だって、俺、施工屋だもん。



言い訳は当然通じない。

代理店業務なんて何してるのかなんて全く分からん。

テントの立て方は一切役に立たない。

スチレンボードの厚みなんて聞かれない。

ガチャとラチェットの違いなんて誰も聞かない。



必要なのは、計画立案、マニュアル作成、仕様書作成、テクニカル知識。。。

はて、俺は何をしにここに来たのだろうか。



まぁ、山のように仕事はある。

ほぼ毎日徹夜。

デスクで朝日を眺め、シャワーのために家に帰る。

毎日毎日、俺がやりたかったイベントの仕事をしている。。。はず。。。多分。。。



たった1本のイベント「2003年 第5回アジア冬季競技大会」

この仕事のおかげで、イベントの苦労が分かったし、楽しさも知った。

奥深さも分かったし、自分のレベルも分かってしまった。

クライアントには出禁間際までダメ出しされ、雪山にはスーツで登り、

地元企業にバカにされ、デザイナーには怒られる。

この時ほど、自分がどれだけイベントの仕事を甘く見ていたのか、

イベントの仕事がどれだけ大変なのか。ようやく理解出来た。



それでもやっぱり続けている。

施工屋→代理店出向→セールスプロモーション会社→制作会社と、

サラリーマンイベンターを続けてきた。

そして、独立。

シンシアプロデュースという会社はまだ出来て間もない。


あれだけダメ出しされた俺が、気付けばイベントの専門学校講師もやっている。

生徒達には「イベントは98%が辛い部分だぞ。楽しい所はたった2%あるかないかだよ!」って

何度も言ってきている。


「イベントは自己犠牲の上に成り立っている。自分がどれだけ大変な思いをしたかによって、

 比例して来場者は笑顔になる」

「夢だけあれば食っていける。夢は諦めちゃいけない。死んでも諦めるな」

「やりたくないことはやるな。やりたいことだけやってろ。

 でも、やりたいことのためなら、やりたくないことでもやれ!」

「目に見える全てが、お前たちの知識であり、経験だ。目に映る全てのものをイベントと思え」

「業界で生きていくなら、嘘はつくな。たとえクビになるようなことがあっても、嘘はつくな」

「イベント業界にはエンドロールはない。自分の名前は誰も知ってもらえない。でも、来場者が

 感謝してくれる表舞台の人達に感謝されると、感謝が倍増されて届くこともある」


「イベントは98%が辛い部分だ。楽しい所はたった2%しかないぞ。

 でも、たった2%の幸せが、人生の120%の喜びに変わる時が来る」



裏方仕事で大いに結構。

表に立ちたいとは思ってない。

表に立ちたいと思っている人達の踏み台になり、支えになる方が何十倍も幸せだから。


きっと、俺は死ぬまでイベント業界で生きていく。

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