⑧ 無一文で離婚した女が女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「上野の森美術館で見た絵」
彼が結婚していたなんて、まったく知らなかったんです。
泣き崩れる彼を抱き起こして、ビルの地下一階にある近くの和食店に入りました。
着物姿の女性が注文をとりに来ます。
さすがに仲居さんがいる時は泣きやんでおとなしくしています。
グラスで酒が運ばれると、彼はぐいぐい飲み干しました。
怖いくらいの飲みようです。
「先生は、奥さんがいたんですね。どうして今まで黙っていたんですか?」
「4年も前から別居しているんだ。もう夫婦ではない。今は金銭問題だけでつながっている。だけど、妻の実家は大金持ちで俺の絵を応援してくれていて、妻も、俺の絵は認めてくれているんだ」
その妻が、昨日彼のアトリエにやってきて、
(この家に帰ってきます。あなたのために尽くします)
とすがったのだと言う。
「だけど、俺はお前の絵を見せて、妻を追い返した。もうここでモデルを描いているんだ、絵のじゃまになる。帰って来るなと」
彼はまた、酒をあおって、テーブルのものをなぎ払い、
「俺は、俺はっ、お前のためにあんなにいい女房を泣かしているんだああああああ」
叫んで荒れるのだ。
目の前に起こっていることが信じられなかった。
「私のせいじゃないわ、騙されたのは私の方です、先生、独身だとおっしゃってたじゃありませんか」
責めると、
「お前はなぜ俺に礼を言わない! 先生奥様より私を選んでくださってありがとうございますと、礼を言って俺を気使うのが当然だろう!!」
くってかかって私に殴りかかる。
「やめてくださいっ」
悲鳴をあげると、
「お客様、お静かに、どうなさったんですか?」
仲居さんが飛んでくる。
「なんでもないんですよ。痴話喧嘩です」
仲居さんにはいい顔を見せ、店の従業員がいなくなると、また、
「お前のために、俺は多くの人を裏切っているんだああ」
泣き叫びがはじまる。
もう彼とはダメかも知れない。
せっかく二人してあんなに努力して、人に褒められうらやましがられるいい絵が描けるようになったのに…。
その矢先なのに。
なんと言うことだろう…。
※ ※
彼には妻がいたんです。
それに気が付かなかった私も大馬鹿です。
今思えば、不審なことがありました。
二階にあった女物の衣類とクローゼット。
流し台や廊下のタイル貼りの洗面所から出る、美味しくて冷たい水を説明してくれた時のこと。
「俺たちがこの家を立てたときは、このあたりは山中で水道さえ通っていなくて、私設で引いた飲料水なんだ。だから冷たくて美味しいだろう」
「俺たちって…誰かと一緒に来たんですか?」
「あ、この並びに数人がいっせいに家を建てて住んだんだよ」
今思えば、俺たちって奥様のことだったんだーー。
それ以外にも、彼は異常に嫉妬深く、私がパーティーで他の男性と笑顔で話していただけで、責めさいなむようになりました。
それまで隠していた顔を、じょじょに見せはじめたんです。
嫉妬のあまりDVさえも始まって…。
「花束を渡す役をして欲しいんですって。だから、明日はアトリエに行けないわ」
ある顔見知りの作家さんから、ホームパーティーに参加してくれと頼まれ、彼にキャンセルの電話をした時のことです。
「そんなパーティー断れっ」
彼は電話口で怒鳴りました。
「そんなこと出来ないわっ」
「どうしても行くと言うんだな」
「私の勝手でしょ。束縛しないでっ」
大喧嘩になりました。
「今からお前のアパートに行ってやる!」
無視していると、1時間半後アパートにやってきた岡村は、
「開けろーっ」
ドアをガンガン叩き続けます。
しかたなくドアをあけると、すごい日本酒の匂い。
私のドレスをすべて引きちぎり、そのまま彼の車に連れ込まれました。
この時も、子供はおばあちゃん家でいませんでした。
ベロンベロンに酔っている彼の運転。
なんども車とぶつかりそうになって、急ブレーキを引きます。
「危ない! ぶつかるっ!」
幾度ももうダメだ、と思いました。
猛スピードが出ているのに、彼はハンドルをバンバン叩きながら、
「俺はお前に賭けた…」
「俺はお前に賭けたんだあ~~~」
「それなのに、お前は別れようと言ううううううう」
泣き叫ぶのです。
「先生わかった。私はどこへもいかない。聞いて!」
叫びっぱなしでした。
無事彼のアトリエに着いたのが奇跡のようです。
逃げださないよう服を隠され、スリップ一枚にされて、殴る蹴るのDVです。
日本酒の瓶をかかえて、コップ酒をあおりながら、
「お前は俺を裏切るんだなっ」
「違うっ」
「嘘つけっ」
怒鳴られます。
(なんとしてでも、逃げなければっ!)
彼がトイレに入った隙に、
「1、2、3、4、5…今だ」
スリップ一枚で玄関から駆け出しました。
10分ほど走るとコンビニがあります。
その灯りに駆け込んで、店員さんに助けを求めたんです。
「警察呼んでください! 近くの家に監禁されて脅されているんですっ」
コンビニの店員さんは、とても親切でした。
裏の事務所に案内してくれて、従業員用のジャンバーを羽織らせ、温かい飲み物を差し入れてくれます。
(他人はこんなに親切なのに、どうして恋人である岡村は、あんなに私を傷つけ、害をあたえるんだろう)
そう思うと、泣けました。
なぜ他人の方が親切なんだろう…。
パトカーがやってきて彼の家に一緒に行き、服やバッグを取り戻して、私は自分の家に帰ったんです…。
「きっと心入れ替えるから。これからは絵を一心に描くから!」
毎日彼からの謝りの電話がかかってきます。
「お前がいないと絵はどうなるんだ? あの絵はどうなる? 未完のままだぞ」
彼は、懸命に電話で訴えます。
そう言われると、弱いのです。
彼との間には、いつでも製作途中の絵がありました。
お前がないと、その絵を描けなくなる。
そう訴えられると、心が動いてしまう。
ポーズを決め、自分の姿がじょじょに紙の上に現れて、それがリアルに浮かび上がり、着色され、絵が完成する…。
一枚一枚、新しい違った姿の私が現れる。
それを見るときの喜び。
絵を描いてもらうことには、大きな魅力があったんです。
彼に描いてもらった絵で個展をひらきたい。
油絵で彼に私を描いて欲しい。
と言う欲望と夢がありました。
彼にはきっと油絵が描けるはず。
その誘惑に勝てなかったんです…。
(アラビアンナイト連作の一枚・水彩)
「まち子の肌の輝きを、できればまち子が発散する肌の匂いまでも、そっくりそのまま絵に写し取りたいんだ」
岡村がよく言っていた言葉です。
岡村は、私の天然の肌の香りを気に入っていて、
「まち子がポーズをとっていると、なんとも言えないいい匂いがする…」
とよく言っていました。
「キャンバスの裏に、まち子の肌香を、ちょいと塗りつけておこうか。きっと男たちが寄ってくるよ」
「いやーね、先生。そんなことしません」
彼は、その女体の肌の香りさえもキャンバスに現したいと、言うのです。
彼ほど女性の肌にこだわった人はいません。
「女性の肌の色香を描きたいために画家になった」
と言う彼に、
「それなら先生、油絵よ。油絵なら、それこそリアルに私がここに存在するように描けるじゃない」
とすすめました。
「夜中に起きて、あっ、まち子がいる、って錯覚して驚くような絵が描けるんだね」
「そうよ。だから、油絵を描きましょうよ」
ずっと彼に油絵を描くように進めていたんです。
だけど石橋を叩いても渡らない消極的な彼は、
「水彩画もきわめてないのに」
首を縦にふりません。
「先生は天才よ。ぜったい描けるわ。私の言うことを信じて」
いくら懇願しても、なかなか聞き入れてくれませんでした。
ーー上野の森美術館。
光景会の絵画展示会場。
200号の油絵で描かれた華麗な貴婦人の肖像画に、黒山のような人々が群がり集まっています。
会場で一番人気です。
野々山画伯の出品作。
ビロードとレースで出来た華麗な西洋のドレスをまとった美しい女性が、手に扇を持って立っています。
バックには、飾り棚と、花瓶に活けられたゴージャスな大輪の花々。
「なんて華やか」
「なんて美しいんでしょう!」
見る人はみんな貴婦人の肖像画にため息をついています。
写真を撮る人も大勢います。
「すごい人気ね」
「ああ、彼はいつも自分の奥さんを描いているんだ」
「ああいう油絵を、私で描いて欲しいのよ」
話していると、
「あっ、野々山さんだ」
彼が呟きました。
長身の紳士が、すっくと目立たぬように立っています。
岡村は近づくと、二言三言、言葉を交わしていました。
「ねえ先生、野々山画伯と知り合いなの?」
すごーい、私は興奮していました。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?

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