⑨ 無一文で離婚した女が女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「彼のおいたち・修善寺旅行の出来事」
上野の森美術館を出た後、岡村と私は、カレーが美味しいと有名な近くのレストランに入りました。
陽光のさす明るい2階の店内で、お昼のカレーランチに珈琲とデザートをつけて注文し、食べながら岡村の話を聞いたんです。
彼が生まれたのは東京。
父親は職業軍人でした。
終戦になり、父親は大手保険会社の支店長として、長崎の島に移り住みます。
ーー僕は高校を卒業すると、絵では食えないと言う親父の反対を押し切って、東京の美術学校を受けたんだ。
小さい頃から庭でガラス瓶に色粉を入れて溶かして、それを陽にかざして遊ぶのが、何より好きな子供だった。
お袋や親父からは、変な子だねとよく怒られていた。
(そして高校では、授業をさぼり、一人丘に登って長崎の海の絵ばかり描いていたんですね)
そう、教師や友人はみんな応援してくれた。
武ちゃんは絶対に有名な画家になるけん、と言ってね。
総出で見送りに来て、送り出してくれた。
美術学校は落ちてしまったんだけど、仲間に送り出された長崎には帰れなかった。
それで、東京の大学生になった友人のアパートに同居して、彼と二人で中野の飲み屋街をバイトしてまわった。
彼はギターを弾き、俺は客の似顔絵を描くんだ。
でも客がつかなくてね。
ある時新宿に行くと、伊勢丹のシャッターの前に大勢の似顔絵描きがいた。
僕が若い頃には、伊勢丹デパートが営業をおえてシャッターを降ろすと、その前に似顔絵描きが大勢立っていたんだ。
客もついている。
これだっ、と思った俺は、さっそくオードリーヘップバーンやフランクシナトラのペン画を描いてイーゼルの横にはりつけ、似顔絵描きに立ったんだ。
まだ18歳だった。
白いシャツに蝶ネクタイをしていたから(蝶ネクタイ)と呼ばれていた。
いそいそとまっさきにイーゼルを立てて、
「社長、いいお顔してますねえ~」
「3分で描けますから!」
声をかけてどんどん客を取っちゃう。
そのうち、
「勝手に入ってきたあのあつかましい新参ものはいったいどこの誰なんだ?」
と言うことになってね。
その場所のリーダー格の25歳のケンさんが、
「お前、誰に断ってここに毎晩立ってるんだ?」
と文句を言いに来た。
裏で決闘になったんだ。
「誰に断っているかだって? 俺は命かけてるんだっ」
低く構えて尻のポケットにいつもさしている肥後のかみを抜くと、その刃がきらっと光って、それを見たケンさんは笑い出したんだ。
「わかったわかった。お前なかなかいい度胸してるじゃないか。蝶ネクタイ、その意気買ったよ」
リーダーって言ったって、ケンさんもまだ美大生の画家の卵だったんだから。
すぐに仲良くなった。
似顔を描きながら、俺は世田谷にある水谷清高先生の洋画研究所に通ったんだ。
野々宮くんはその時の同じ門下生で、兄弟子。僕たちの面倒を見て指導をしてくれた。
新宿で似顔絵描きをしているというと、
「それは生きたデッサンの勉強になりますね」
とやさしく言ってくれたよ。
(水谷は海外でも人気の高い、現在絵画の第一人者。油絵の裸婦像が得意で有名)
生徒はおもに教室で石膏デッサンや静物デッサンなどをするんだけど、水谷先生はいつもご自分のアトリエで、モデルさんを使い油絵を描いておられた。
そのアトリエのドアがいつも開いている。
教室に行くには、そのアトリエの前を通るので、生き帰りに裸婦のモデルさんが開いたドアから見えるんだ。
目に入るその白い裸身が女神のように眩しくて美しくて…若い僕は心臓が飛び出そうなほどどきどきした。
水谷先生は、きっと生徒たちに、君たちも将来は美しいモデルさんを使って絵を描く画家になりなさいと、発奮させるためにドアを開けてあるのだなと、思った。
その時以来、僕は女性を描く画家になりたい、と思ったんだ。
その頃僕がしていたアルバイトは、着物を着た日本人形の顔描き。
息をつめて筆で描くんだよ。
いかに美人に描くか、競ってね。
(彼が顔を描いた、それはそれは美しい芸者さん姿の日本人形が、長方形のガラスのケースに入ってアトリエに置いてあった)
その後僕は、舞台美術がやりたくて、舞台美術の巨匠に弟子入りした。
この仕事は誰にも相談せず、僕独りで決めたんだよ。
楽しかったな。
二年間浅草の劇場に寝泊りして、美術監督の師匠に学んだ。
「先生、踊り子さんたちにモテたんじゃない?」
「純情だったから、口もまともにきけなかった。武ちゃん武ちゃんて、可愛がってくれたよ」
だけど、と彼は言う。
お袋に見つかって大反対され、お袋が監督に直談判して、俺を辞めさせてしまったんだ。
お前は女で身をもちくずすだろう…と言って。
その後、縁あって挿絵界の巨匠に弟子入りしたんだ。
(先生、腕を見込まれたの?)
そうじゃなくて、親父は東京支店長になり、東京に帰ってきていた。
挿絵の巨匠の奥様とお袋が近所同士で親しくなり、その縁で絵を見てもらうようになったんだ。
先生のお宅に行くと、いつも珍しい洋菓子や果物を出してくれてね、それが目当てで通っていたようなものだけど。
先生はきりっとした妖艶ないい女を描くんだ。
売れっ子だった先生が忙しい時になど雑誌や新聞の挿絵をまわしてもらうようになって、挿絵の道に進んだ。
洋画研究所には行かなくなったけれど、女性の肌を描きたいと、その思いはずっと続いていた。
そして50代を過ぎてから女房の勧めもあって本格的に絵画をはじめ、水彩は沼沢先生に学んだ。
プロのモデルさんにお願いして描いた水彩画が、二年前野々山さんと水谷先生のいる光景会で入賞した。
野々宮君に、
「あれいらい絵を出していないけれど、新しい絵をぜひ出品してください。待ってますよ」
と会場で言われたんだ。
思えば長い道のりだ。
しみじみと聞いていた私は、
「先生はお母様に反対されて無理やり辞めさされてうらまなかったの? まち子だったら反抗するけど」
と聞いてみた。
「いや、あれで正解だったんだよ。挿絵画家になったおかげで、まち子と知り合えたんだから。 そして今、絵画への思いをかきたててくれている。それが、まち子、お前なんだよ。とても感謝している…」
「それなら先生、なおさら油絵を描かなくちゃ! 光景会は油絵でしょ」
私は、とここぞとばかりはっぱをかけた。
「先生になら描ける。絶対に大丈夫。油絵は間違ってもその上に塗り重ねてやりなおせるのよ。透明水彩みたいにむつかしくないわ。ハイライトだって、あとから白を入れればいいんだから、うんと簡単よ」
「ねえ先生油絵を描いてよ!」
「まだ油絵ははやいよ。自信がないよ」
「まち子はそんなに簡単に言う…こっちの気持ちも知らないで」
がんとして、首をたてに振らなかったーー。
私は、ぜひとも彼に油絵で私の姿を描いてもらいたかったのだーー。
たとえば、チャイナ服姿で椅子に腰掛け、斜め上をまっすぐに見詰めた表情の女性肖像画。
そんな絵を彼に私で描いて欲しい。
チャイナドレスを描いた肖像画は多い。
その展覧会で大臣賞を取っていたのも、赤いチャイナドレスを着た女性が、スチールの椅子に腰掛けて、バックと床はグレーで塗られた30号の油絵だった。
美術館の売店で、その絵のポスターカードを土産に買った。
「先生、これと同じポーズ、同じチャイナ服で私を描いて。きっといい絵になると思う! 先生にならきっと描ける」
懸命に説得しても、彼はうんと言わなかったーー。
※
喧嘩しては仲直り。
そんな関係を続けていた。
実際につきあって驚いたのは、女流作家の多くが彼をひいきにしていた事だ。
彼は文壇の女性に人気がある。
ある文壇パーティーの2次会にスナックに参加した時のこと。
そこには、23歳の新人イラストレーターのマリちゃんがいた。
2次会のスナックに現れた岡村を見て、マリちゃんは、
「あら、岡村先生が2次会にいらっしゃるのは珍しいですね」
と弾んだ声をかけた。
マリちゃんは若くてチャーミング。
瑞々しいバストが赤いセーターを押し上げている。
はつらつとしていて、みんなのアイドル的存在だったのだ。
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