⑨ 無一文で離婚した女が女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「彼のおいたち・修善寺旅行の出来事」
彼はカウンター、私は近くのテーブル席で剣豪作家のT先生や若手男性作家のKさんと飲んでいた。
と、カウンター席から、突然マリちゃんの、
「岡村先生、そんなこと言うなら、なぜマリに付き合ってとおっしゃらないんですか!」
大きな叫び声が聞こえて、みないっせいに振り返った。
「マリは、マリは…三日前に彼氏と別れたばっかりなんですよっ」
どうやら岡村がれいによってマリちゃんに、
「あなたを描いたら、さぞいい絵が描けるでしょうねえ」
と言ったらしい。
画家さんはだいたい女性を見れば挨拶がわりにこう言うのだ。
それに酔っ払ったマリちゃんが過剰反応して、あの発言になったらしい。
あっけにとられて固まったその場の雰囲気をなごませるように、
「あらん、岡村先生、描くなら私も描いてええ」
ピンクのディオールのスーツを着た新聞社のおえらいさんの奥様が、二人の間に大きなお尻を入れて割って入った。
その日のマリちゃんはそうとう酔っていた。
帰り際、みんなでタクシー相乗りで帰ることになった時、方向が同じなので、私と岡村が二人一緒のタクシーになった。
マリちゃんは岡村の腕をとり、
「先生、大丈夫ですか? ねえ大丈夫?」
何回も聞いている。
岡村は、れいによってニコニコと恥ずかしそうな笑みを浮かべながら、
「僕、年ですから送りオオカミにはなりませんから、大丈夫ですよ」
と答えていたが、きっとマリちゃんが心配していたのは、別のことだったろう。
この頃は、私たちが付き合っているのは、まだ秘密にしてあったのだ。
私は最初、彼がモテるのは彼の描く絵が天才的にすばらしいからだ…と思っていた。
だからモテるのだ、と。
だが、ある画廊に行ったとき、彼がモテる要因は、別のところにあると気づいた。
その画廊は、彼が住む町の駅近くにあった。
小さな画廊だが、水彩展を開催していたので、お昼を食べるついでに、立ち寄ったのだ。
画廊に入ると、黒いシャネルスーツを着た女性がいた。
岡村は、普段着姿。
パーティーに行くときなどはお洒落な装いをしているが、普段は、着古したシャツにズボンの、じじむさいとも言える服装をしている。
横に立った洋子は、クリームの超ミニスカート・スーツにピンヒール。網タイツをはいて、腰まである髪を背にたらした、ど派手な装い。
画廊の黒いシャネルスーツの女性は、
(ビンボーそうなじじむさい男と変な女のカップルが入って来た)
と言う感じで、鼻もひっかけない。
こちらを無視して声もかけて来ないでいた。
ところが、あまりに二人が熱心に長時間絵を見てまわっていたので、声をかけないわけにはいかなくなったのだろう、
そこで、お愛想に、
「いらっしゃいませ、こちらいい絵でしょう。この作家さん、人気があるんですよ」
と話しかけてきた。
岡村が、
「アルシュの8号に描いてますね。海の描き方が、なかなかいい」
と呟くと、
「絵を、お描きになるんですか?」
ちょっと見直した感じだった。
「はい、僕も描いています」
岡村がうなずくと、
「どんな絵を描いていらっしゃるんですか?」
とシャネルスーツの女性が聞いた。
「裸婦です。僕は裸婦専門です」
さらっと岡島が答えると、
「まあ」
声が1オクターブ上がって、彼女の唇が開かれた。
「こちらのモデルさんを専属で描かせていただいてます」
岡村は横の私を紹介する。
私を見つめた画廊の女性の瞳が、もう変わっていた。
らんらんと光がみなぎり、輝いているのだ。
「そうですの…こちらが、モデルさん…」
熱につかれたように、彼女は喋りだした。
「女は、一枚でも、自分のこの時の姿を映した絵を描いていただいたら、それは、それは…宝物になりますわよね! たった一枚描いていただいただけでも、それは生涯たいせつな記念の、宝物ですわ!…」
声がわなわなと震え、目は輝いて潤んでいる。
「一枚でもたった一枚でも描いてもらえれば宝物」
と彼女は繰り返した。
その豹変振りに、目を見張った。
画廊の女性は、たった今すぐにでも、岡島の前で、服を脱ぎ捨てそうだったのだ。
その目はあきらかに、
(ふん、こんなモデルより、私を描いてくれれば、もっといい裸婦の絵が描けるわ!!)
と物語っていた。
そう、嫉妬に燃え、私の絵こそ描いて欲しい! どうもこの男性、近くに住んでるみたいだし…と狙っている目だったのだ。
最初取り澄まして鼻も引っ掛けなかった女性。
それが、たった5分、岡村と会話しただけで、もう服を脱ぎそうになっている。
岡村の会話能力に驚愕したのだ。
しかも彼女は、岡村の絵を一枚も見ていないのに…。
画廊を出た後、
「先生、あの画廊の女性、先生に自分の絵を描いてもらいたそうだったわよ」
と告げると、
「それでまち子にあらぬ疑いをかけられるといやだから、もうあの画廊にはいかないよ」
岡島は苦笑いをしていた。
私は彼のこの会話力を、もっと他の方向に生かせばいいのに…と思ったことがある。
「先生、女性にモテるんだから、女性の肖像画を描いたらいいのに。いいお金になるでしょう
?」
岡村は、
「そういう話もあったけど、僕は、描きたい! と思う女性しか、描きたくない。描けないんだ。僕の我がままだと思うけど」
彼は、絵を描きたがらない変わった画家なのだ。
自分からか描かせてくれと頼んだ私でさえ、なかなか描かない。
せっかくアトリエに行っても、お喋りや、その他、絵を描く以外のことばかりをしたがる。
それをなだめなだめ、
「絵を描いてくれないと、してあげない」
とおあずけにして、
「さあはやく、セッティングしましょうよ」
椅子やソファーをせっせと所定の位置に置いてポーズをとり、なんとかイーゼルに向かわせるのだ。
●修善寺旅行
「やめてーっ」
「この、アマッ、よくも俺を騙したな」
「きゃーっ」
和風旅館の一室で、襲い掛かる岡村と、逃げ惑う私。
床の間の花瓶が倒れる。
とっさにつかもうとした備え付けの電話機のコードが引きちぎられた。
修羅場だ。
場所は修善寺の老舗和風旅館内。
ことの起こりは、めずらしく素面で絵を描いてくれていた岡村が、
「今まで本当に苦労かけてすまなかったね。お詫びに、旅行に連れて行ってあげる」
とイーゼルごしにしみじみ声をかけてくれたのが、発端だった。
「先生、ほんとですか?」
「ああ、どこでも好きな場所、好きな旅館でいいよ。計画を立ててくれ」
るんるん気分で計画を立て、ガイドブックを見て選んだのは修善寺にある露天風呂が有名な、格式のある老舗有名旅館だ。
うきうきと新幹線に乗り込み、昼には途中にある蘭園を見学し、宿に夕刻到着。
名物の露天風呂は広く、自家天然温泉の湯はきれいで当たりがなめらかだった。
彼も上機嫌でおだやかで幸せそうだった。
それが、夕食前の私の一言で豹変した。
机の上に、今夜の催し物のパンフが置かれていたのだ。
それを見て、
「あらっ、今晩9時から、清元の若弥師匠がこの旅館のロビーで演奏なさるらしいわ。私一回だけ彼に取材したことがあるの。行ってみましょうよ」
と何気なく告げたとたん、彼の表情が一変した。
仲居さんが、夕食の膳を運んできた。
楽しげに仲居さんと喋っていた彼は、
「人肌で酒をもらおうか」
と言い出した。
今度は私の顔色が変わる。
「先生、飲まないと言ってたでしょう。禁酒してたじゃない」
「まあまあまあ」
上機嫌の表情のまま、彼は、
「旅の酒は上手い。美味しい料理とこんなきれいなオネエさんがついてくれるんだ、一杯くらいいいだろう」
「そうですよ、自酒のいいのがありますから、お持ちします」
悪い予感がしたが、仲居さんも彼に賛同した。
酒が運ばれる。
彼は早いピッチで飲みだした。
しだいに目が据わり、私を睨みつけると、
「お前、俺を騙したな!」
仲居さんが席を外した時を見計らって怒鳴りだした。
「新内の師匠と語り合って、ここで落ち合う約束をしてたんだろう!!」
「何を言うの。誤解よ」
「誤魔化そうたって、そうはいかないぞっ」
仲居さんが入ってくると、仏のようなもとのニコニコ顔に戻る。
怖いほどの演技者、豹変ぶりだった。
(どうかずっと仲居さんがいてくれますように)
祈りむなしく、彼女は料理を取りに席を外してしまう。
「このアマっ、人をどれだけ馬鹿にしたら気が済むんだっ」
とうとう机を乗り越ええてやってきた彼は、逃げ惑う私の髪をひきずり、殴り、蹴り…。
騒ぎを聞きつけて、旅館のハッピを着た男性従業員や和服の女将が駆けつけた。
「なんですかあなたたちは! 」
女将さんが一喝する。
「東京から来た画家さんと作家さんていうから、丁寧におもてなししてたのに…他のお客様の迷惑になりますから、すぐに出て行ってください!!」
宿泊費と部屋を壊した弁償代も払い、タクシーに押し込まれ、私たちは夜の夜中に旅館を追い出されたのだーー。
さすがにもうダメだと思った。
「お前が悪いんだ」
「悪いのは先生でしょう!」
東京にと帰るプラットホーム。
そこでも言い争いを繰り返した。
(もうダメだ。彼とは別れよう)
彼の嫉妬は異常だ。
病的だ。
しかも不思議なことに、彼は自分の妻にはまったく嫉妬したことがないという。
「先生はなぜ奥様を描かないの?」
と一度質問したことがある。
「描いたことがあるんだけど…右を向いていてと言うと、三日でも向いている女だ。ポーズをとっていてもそんな調子だから、俺の方が気詰まりで描く気がしなくなってしまう…」
なんと勝手な言い分だろう。
だが気持ちはわかる。
従ってくれる、確実にじっとそこにいてくれる奥様のような女性より、勝手気ままで、今日はアトリエにいるけれど、次は来るとは限らない。
そんな女性を懸命にアトリエにとどめて、その姿を描くほうが、彼は喜び度が高いのだ。
だけど、恋人としてはどうなのか?
彼はないものねだりをしている。
私と彼とでは、絶対に上手くいかない。
げんに喧嘩を繰り返してこの頃では絵も進まない。
奥様と暮らした方が、彼は幸せなのだ。
しかも奥様のご実家は超金持ちで彼の絵を一家をあげて応援していると言う。
モデルは、プロの美しく若い人をいくらでも頼めるではないか。
私も人生やりなおしたい。
修善寺での事件のあと、絶望した私は決意して彼に手紙を書いた。
「このまま関係を続ければ、私たちの美しい思い出さえ汚してしまう。それが残念でしかたがない。だから別れましょう…私はもう決して先生とはお逢いしません…私をもう追いかけないでください」
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