40才からの成り上がり
社会に出てからのこの約20年、一体ボクは何をしてきたのだろう?
「誰かを幸せに出来たか?」
「誰かの役に立つことが出来たか?」
「自分がこの世に生まれてきた証をなにかひとつでも残せたか?」
平成25年7月10日、ボクの親父は睡眠薬を飲み川に飛び込んで自殺した
63才で、自分の人生を終わらせる決断をしたのだった
死ぬ前に、母親の携帯に電話があったそうだが、母親は冗談だと思い、取り合おうとはしなかった
父親と母親は、ボクが17才のときに離婚している
離婚してからも、ときどき二人は合っていたらしく、子供達が自立してからは、お互いの家を行き来していたらしい
東日本大震災のときは、一週間連絡が取れず心配したが、結局2人避難所で寄り添っていた
ボクが小さい頃、親父と母親で飲食店を経営していたが、ボクが8才のときに経営が苦しくなり店を閉めて借金だけが残った
それからというものの、昼ドラにありがちな、親父は酒に溺れ職を転々とし、ろくに働こうとはしなかった
母親は、僕ら兄弟を育てながら働き、無理が祟り足を悪くした
いつもお金がなく、電気・ガス・水道なんかはしょっちゅう止まっていた
借金取りが家に来ると、ボクが出て行かされ、「居留守」の片棒を担がされた
真冬に電気が止められ、蝋燭の火だけがゆらゆら揺れている静寂のなか、一家五人で黙々と少ないおかずを分け合って食べていた
日本の平均以下の家族だった
そんな子供時代のボクはいつも「妄想」のなかで、お腹いっぱい好きなモノを食べたり、病気が治っていたり、将来の幸せな自分を思い描がきながら、自分自身をコントロールしていた
親父が亡くなったと警察から連絡があったとき、ボクは特別驚きはしなかった
なんとなく「ああ、そうか自殺したのか」と思っただけだった
親父が自殺した事実よりも、これからしなければいけない「後処理」のことばかり考えていて、新幹線での移動中ずっとボクは、携帯で調べものばかりしていた
遺体の引き取り、火葬、通夜、葬式、納骨、親父の部屋の片付け……
夕方には警察に到着し、遺体安置所のドアを開けると、二段ベッドの下から親父は冷凍マグロのように出てきて、地獄の入り口に立っているかのような臭気が辺りを漂い、その臭いのせいで僕の頭はクラクラして、ここに来るまでの忙しさと疲れから、その場に踏ん張っているのがやっとだった
パンパンに膨れあがった親父の顔を見ながら、ボクは最後に親父と電話で話したことを思い出していた
「親父が自殺した理由」
その日いつものように親父はパチンコで負けて、金の無心をするために酔っ払いながら、ボクに電話をしてきた
そんな親父に対して、冷静に僕は言う
「何が楽しくて生きてんの? 正直迷惑だから、自殺でもして、もう人生終わらせた方が世の中の為じゃない?」
親父は何も言わず電話を切った
そしてこの電話が親父と話した最後で、その数週間後、自ら命を絶った
そう、「僕が親父を殺したのだ」
酒の飲み過ぎで体を壊し、まともに働くことも出来ない
少ない生活保護費のなかで、唯一の楽しみと言えば酒とパチンコぐらい
しかも一銭も残らず負けては子供にたかり、子供からは「自殺すれば?」と言われる始末
経営していた飲食店が潰れてから、自分で人生を終わらせるまでのこの何十年間、親父は何を考えながら生きてきたのだろう?
悔しくなかったのか?
それとも自分なりに折り合いをつけて、時間が止まったように虚しい日々を過ごしていたのか?
自分ではどうすることも出来ない現実から逃げるために、酒を飲んで妄想の世界に入り込み自我を保っていたのか?
そんな親父に似ているボクは、いずれ自分も家族から見放され、退屈で味気のない人生に絶望し、同じ道を辿るような不安が心の奥底から、ずっと消え去らずにいる
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?

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