(11):コンテストで入賞した!/パニック障害の音楽家

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そんな生活が続く中、ローランドでのアルバイトが早めに終わると開発室にある機材を使わせてもらって自分の音楽作品を製作するようになり始めました。


前回書いたように当時のローランドは超弱小企業で、楽器メーカーであるにも関わらず、開発室には自社楽器なんてデモ用ですら全く置いていませんでした。しかし時々、楽器開発のテスト用にシンセサイザー類が持ち込まれる事がありました。技術部長はそういう事が事前に分かると「来週から1週間、開発テスト用に機材が来るから空き時間に曲制作をしなさい」と言ってくれました。私はこのタイミングを利用させてもらって作品作りをしたのです。


テスト用の楽器は、いつ開発室に持ち込まれるか直前まで分かりません。そこで私はどんなタイミングで機材が来てもすぐに作品作りが出来るよう、常に万全の準備をするようにしていました。当時のシンセは一度に1〜2個しか音が出せませんでした。なので音楽を作ろうとするとマルチトラックのテープレコーダーってのが絶対に必要なのですが、これは4チャンネル(本当はトラックというのが正確)なら4つの音を、8チャンネルなら8つの音を録音できました。それ以上の音を録音したい時には、4チャンネルなら1〜3チャンネルに音を録音したら、それを1つにミックスしながら4チャンネル目に移し替え、空いた1〜3チャンネルを消して新たに3つ音を録音する、という事をやりました(場合によっては行き先のチャンネルの手前に1つ空きチャンネルを置かないと音が歪んでしまう事もありました。


というわけなので、昔のシンセの録音のためには譜面の他に録音手順のデータを作っておかないと「伴奏はできたのに、メロディーを入れるチャンネルが足りない!」という悲劇が起こりました。そこで、私は常に「この曲を録音するときは、こういう手順で作業しよう」という手順書のような物を準備しておいて、開発室に機材が来ると、その手順書に従って効率良く録音をしていきました。


☆当時作っていた録音の手順資料(音をどのチャンネルからどのチャンネルに移すかの手順が書かれている):




この頃の私はまだ作曲という事をやった事はありませんでした。ローランドに通い出してしばらくしてから小舟幸二郎氏(冨田勲氏、黛敏郎氏、小林亜星氏などの作曲の師匠)や有馬礼子氏(東京音大教授)というそうそうたる先生方に音楽理論を習っていましたが、どちらかというと音楽を構成する要素を習うのが中心でメロディーを書く練習というのはしていませんでした。当時の私のシンセサイザーのヒーローは日本の冨田勲という作曲家で、彼の作品にはまりこんでいました。冨田氏はNHKの「新日本紀行」や「勝海舟」等の音楽で有名ですが氏のソロ作品というのはクラシック音楽を素材にし、それをシンセサイザーで演奏したものでした。そんな影響もあり私もオリジナル曲の作曲よりもクラシック音楽を素材にして、それをシンセサイザーで演奏したものを製作する事に興味を覚えていました。


こうしてアルバイトの合間をぬってドビュッシーの「小さな羊飼い」(ピアノ曲集「子供の領分」)「蚊が踊っている」(ホワイトという作曲家の曲)「ツァラトゥストラはかく語りき」の3曲を完成させました。こうして作った音楽はまだまだ一般的な知名度の低かったローランド製品で作られた、という事で技術部に来たお客さんに聞かせたりする事もあり、高校中退で自分が世の中から忘れ去られてしまったのでは?という不安感を持つ私にはちょっとした自信を与えてくれました。


☆「人形へのセレナード」の音を聞く

☆「ツァラトゥストラはかく語りき」の音を聞く


そうこうするうちにローランドが日本のシンセサイザーの一般への普及のため「シンセサイザーテープコンテスト」というのを開催しました。「テープコンテスト」という言葉は今では無くなってしまいましたが、前にも書いたように当時の楽器は一度に1〜2個しか音が出せないためテープレコーダーは必須の機材だったため、このような名前が付いたのです。


そこで私は上記の3曲をコンテストに出品してみました。まだまだマイナーな存在だった第一回コンテストにはそれでも50本近いシンセサイザー作品が集まりました。このコンテストの審査員には上記の私のあこがれの冨田勲氏も参加しており、日本としては画期的なコンテストとなりました。この中で私の3作品は最終候補まで残り、最終審査で「蚊が踊っています」が入選となりました。入選当時の私の年令は17歳でしたが評価は非常に高いものでした。このコンテストはその後毎年開催され1980年代の終わり頃まで続きましたが、入選者の中には有名な音楽家に成長した人も何人かいます。


☆コンテスト講評会の様子(左端がローランドの梯社長、4人目が冨田勲、右端がローランドの私を拾い上げてくれた技術部長):


☆ワウワウ誌に掲載された私の作品への講評:


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