(12):テクノポップの誕生、日本初のシンセサイザー・デモンストレーターになる/パニック障害の音楽家

前話: (11):コンテストで入賞した!/パニック障害の音楽家


 こうしてコンテストで入賞すると、ローランド内部でも「音楽が作れる安西史孝」が認識されるようになり始めました。ほぼ時を同じくしてローランドは世界で始めてコンピューターを利用してシンセサイザーをコントロールする機材「MC−8」を開発/販売する事になります(正確にはもう少し前にも同様の製品はあったが、まともに音楽制作に使える物ではなかった)。


MC-8 はシンセサイザーを鍵盤で演奏する代わりにコンピューターに演奏させる機材なのですが、そのデータ入力はテンキーを使って行います。例えば音程入力なら1番下のドの音を0、半音上のド#を1、レを2、オクーブ上のドは12として入力し、今度はその音符の長さを入力します。例えば4分音符なら48、8分音符なら24、16分音符なら12と言った具合です。


☆MC-8 のパンフレット:



また MC-8 自体はコントロール信号を出すだけなので、つなぐ先のシンセサイザーでドラムの音を作っておけば、正確無比なドラマーの誕生というわけです。音楽にちょっと詳しい読者の方なら分かるでしょうが、つまりテクノポップという全く新しいジャンルの音楽が誕生した瞬間だったのです(もちろんまだテクノポップという言葉はありませんでしたが)。


それまでコンピューター音楽という物が「実験的でわけの分からない前衛系」なものばかりだったため「コンピューターで作った音楽」に懐疑的だった私でしたが、いざこのMC−8で作った音楽(カナダの MC-8 開発者自身が作ったデモ曲)を聞かされた私は本当にブッ飛びました!コンピューターが演奏する正確無比で複雑なリズム。人間では絶対演奏できない変拍子や速度の速い演奏。すべてが新鮮であり「これからはコンピューターが音楽を作り出す重要な武器になる!この機械で世界の音楽に対する態度が変わってしまうのではないだろうか?!」と強い印象を受けました。


☆MC-8 で作られた世界最初のデモ「Odd Rhythm」


パニック障害による広場恐怖がありながらも、それを上回る興味が私の回りを取り巻き始めたのです。この時期はまさに世界のコンピューターの黎明期であり「アメリカでアップルという会社が個人用のコンピューターを開発したらしい」とか、「日本でもいよいよパーソナルコンピューター(当時はマイコンと呼ばれていた)が一般に普及を始めるだろう」といった風潮が高まり、若い技術系上がりの人たちがマイコンの雑誌(アスキーやI/O)等を創刊し始めました。そしてコンピューターと音楽の接点という事で、これらの人たちはこぞってローランドに遊びに来たのです。こうして高校中退であるにも関わらずあちこちのコンピューターマニア達に混じって私も音楽とコンピューターの両方を理解する人間としてデモンストレーションを行うようになり始めたのです。


よく漫画や雑誌で Apple の創業者のスティーブ・ジョブズが、出資者に話をしに行っているのに Apple やパーソナルコンピューターの未来を理解できない担当者なんかが対応にあたると、あらん限りの罵詈雑言を投げかけたというのは有名な話ですが、私にはこの時のジョブズの気持ちが凄く良く分かります。私も「MC-8 を使ったコンピューター音楽の未来が理解できない人は音楽産業に関わる価値なんてないし、それで偉そうな事言ってる奴は間違いなく将来、居場所を失うだろう」と思っていました。


で、発売したばかりのMC−8ですが、この機械、操作法が難しく、音楽とシンセサイザーとコンピューターの考え方の3つに精通して操作する必要があったため、これを使いたい、とローランドに打診してくるテレビ局等の仕事を下請けとして引き受けるようになり始めました。最初のうちは上記の技術部長たちと一緒にスタジオへ行ったりしていましたが、段々と私個人に仕事が回ってくるようになり始めたのです。


当時の MC-8 の価格はメモリー16kbyte で120万円という超高額!私個人で買えるようなシロモノではなかったわけですが、ローランドの開発室に機材が来ていれば自由に使えたし、さらに営業所としては MC-8 のデモが出来る人がいなかったので、私に優先的に貸してくれるようになり10代にして世界の最先端機材を好きに使える身分になってしまったのでした。


そんな経緯もあり、徐々に広場恐怖を克服して行き慣れたローランド以外の場所にも行かなければならないような状況に立たされ始めました。当時まだ相変わらず突然恐怖心に襲われる事はありましたが、それでもこのチャンスを逃がす手はありません!私は脂汗をかきながらスタジオやテレビ局に出向いてMC−8のプログラミングをしたのです。おまけにこういう仕事をすると一日で2〜5万円近いギャラがもらえました。まだ友だちが一時間400円とかでアルバイトをしている時にこの額は凄いものです!


☆当時の私の笑っちゃう恐怖心克服法:

というわけで、安西式恐怖心克服法を考え出し、私はスタジオへ行くようになりました。その頃はパニック障害とも広場恐怖とも分かっておらず、ただひたすらノイローゼと低血糖症だと思い込んでいたため、克服法の第一は「まずスタジオへ行く時は予定の一週間前から規則正しい生活をし、スタジオへ行く予定の時間に体調が最良になるように起床時間や食事の時間を調整する」でした。


また不安になってフラフラする原因のひとつに自律神経失調症があるのでは?と思っていた私は、これまた人から聞いた「自律神経失調には逆立ちが効く」という話を鵜呑みにし(本当に効果があるのかどうか未だに知らない...)、毎日のように逆立ちをしました。また外出してスタジオへ行ったような時には、まず最初に人がいない場所を探しておき、少しでも不安な感じがするとトイレに行くふりをしてその場所に行って逆立ちをして戻ってくる、という一種のオマジナイのような真似をしていました。


ただ人のいない場所というのはそうそうありません。そこで建物の中の綺麗なトイレを探し、そこの個室に入って逆立ちをするのです。テレビ局なんかはよく探すと出演者用と見られる綺麗なトイレがあるものです。私はそういう場所を目ざとく見つけて逆立ちをしていました。都内のテレビ局やスタジオのトイレで逆立ちをした人間というのは私以外にはいないだろうと思います...



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