(10):高校中退でローランドに重役出勤するワタシ/パニック障害の音楽家

前編: (9):救いの道はシンセサイザー?/パニック障害の音楽家
後編: (11):コンテストで入賞した!/パニック障害の音楽家

こうして私は、1976年の4月から、出社は毎日10〜11時くらいの重役出勤、仕事が終わるのが午後6時くらいという感じで週に2〜4回くらいの割でローランドに通うようになりました。


アルバイト先では何ともない風をふるまってはいましたが、内心はかなりドキドキものでした。実際アルバイト中にパニック発作を起こし不安感に襲われる事が何度かありました。それでもテスト基板の作成をする実験室はほとんど1〜2名の人間しかいなかったため、具合が悪くなってフーっと意識が遠退いたような感じになり、脂汗(冷汗?)をかいて視界が狭くなり、不安な気持ちになった時でも周りの人と関わらずにすんだため、一人じっと不安感の去るのを待つ事が可能でした。


 前にも書きましたが「荏原ポンプ」と書かれた倉庫を使ったローランドの開発室は2階、3階に行くとさらに凄い状態でした。2階と書きましたが実際には屋根裏部屋で、ここが基板作成の実験室になっていました。天井の高さが低いので屈んで歩かないと天井の蛍光灯に頭がぶつかるというくらいのスペース。屋根裏ですから床は普通の人が歩いてもギシギシと音をたててヘコむという状態で、太った人がいたら絶対床が抜けるな、というような場所でした。


 また3階は設計室だったのですが、そこの天井は屋根に30㎝四方くらいの穴がありました。隙間というレベルじゃなく本気で大穴。上を見上げれば空が見える開放的スペース!などとノンキな事言ってる場合じゃない!恐らく昔、石炭ストーブかなんか焚いていた時の煙突の穴だったんじゃないかと思うんですが、雨が降ると水が漏れる(当たり前)ので、発泡スチロールを切って穴を塞いでいました。


当時のローランド東京技術部、設計室(実は彼らの頭の上の天井には大穴が開いていたのだった):



 さらに1階のトイレ前の洗面所の下水は、なんと配管されていなくて隣の家の庭に水がダダ漏れ。ちょっと手を洗うくらいなら問題なかったのですが、恒温槽という機械の温度実験をするための装置を水道につなげ、その排水を一晩中シンクに流していたら、翌日、隣の家から苦情が来たので見に行ったら、ローランドから流した水が一昼夜流れ込んで、庭の片隅に池が出来ていました。


 とまあ、そういう凄まじいスペースながらも私はひたすら回路図を見てはテスト用の基板を作って音が出るかどうかチェックする、という一風変わったアルバイトを始めたわけです。


この当時、自分の不安症状は “低血糖症が原因で気が遠くなって不安になるんだ” と思い込んでいたので、不安感が来ると「それじゃ、昼食に行って来ます」とかなんとか言って会社を抜け出し、食事をしに行ってやり過ごしていました。基板を作るというアルバイトの特性上、時間に関してはかなりルーズでしたが、予定の期間内でテスト基板が完成すれば問題にはなりませんでした。昔からハンダ付けが得意だった私は、ちょっと慣れてくると、テスト基板作成の作業をローランドの開発スタッフよりも断然早く確実に行う事ができるようになった事もあり、ちょっと抜け出すくらいの自由が与えられた、というわけです。これは小学生からのマイキットや電子工作に凝っていた事の賜物でした。本当にラッキーな環境だったし「それを何とか自分のチャンスに活かそう」と自分でも必死に努力したのはあると思います。


上記のような状況がもし何人もの人たちと共同で作業をしなければならないような職場だったら、発作を起こしたが最後、収拾が付かなくなっていたでしょう。しかし、人数の少ない個人プレー中心の仕事をする場所だったため、不安な心が襲って来ても回路図と部品に集中して気を紛らわすようにし、じっと耐えるような事が可能でした。それでも不安が去った後は、前記のような筋肉痛が起こり、体中が痛くて苦労しました。


ローランドには毎日行かなかったのですが「安西君明日も来るの?じゃ明日頼む回路の図面書いとこ!」と言った感じで技術者の人たちにはすっかり信頼され、開発室の中で実験回路作りは私担当、というのが定番になっていました。


ローランドに行かない日には、当時見つけたヤマハ桜木町センターという所にある資料室に行って勉強していました。ここは潰れたボーリング場を改造したショップ&音楽センターで、2階がヤマハ家具(当時は結構ヤマハの家具ってのが売られていた)の展示場、3階がスタジオと音楽教室になっており、資料室は音楽教室の生徒のために作られたものでした。しかしいくらかの会費を払って会員になると生徒でなくてもここを利用できたのです。資料室には大量の音楽理論書や譜面、そして演奏や音楽理論の研究に役立つと思われるレコードが並び、カセットレコーダーが準備され、レコードが録音できるようになっていました。


著作権法がいまほどはっきりしていなかった1970年代にはこのように会員が研究目的でレコードを録音して行っても文句は言われなかったようです。というわけで私は母親にお弁当を作ってもらい朝から夕方までをこの教室で過ごしました。昼食は近くの喫茶店で取っても良かったのですが、前年にやっていた食事療法の影響で、喫茶店等で食べる食事に非常に神経質になっていた私には恐くて外食が出来なかったのです。なにせ食事療法では「漂白剤が入っているから白い色のウドンはやめた方がいい、食べるならソバにするべきだ!」というくらい細かい所まで制約があったのです。


資料室は音楽教室の生徒用と言っていたわりには生徒が利用している姿は全く見られず、ほとんど私の個人用勉強室と化していました。「こんなに資料があるのにみんな不勉強だなあ」などと思いながら勉強をしたものです。ここでもローランド同様パニック発作と広場恐怖にさいなまれる事があったのですが、幸いにも人がいないので、発作を起こして恐怖心の虜となってもじっと不安感が去るのを待つ事ができました。もちろん前記のごとくパニック発作ではなく低血糖症から来る不安感だと思っていたわけですが...


こうして私は資料室で参考書を読み、大量に置いてある譜面集を自分の五線紙に書き写す練習をし、レコードから録音したカセットは家に持ち帰ってソロをコピーして譜面を作ったりしていました。この頃作った譜面集は大量にあり、今でも倉庫に保管されています。


ヤマハの資料室は当時の私の「何もしなかったら自分には何も得る事ができない」という気持ちを解消する力強い味方でした。睡眠学習なんて言う言葉もあるわけで、学校にちゃんと行ってる人達は、たとえ学校で寝ていたとしても得られる結果は0ではないでしょう。だけど私が家にいて何もしなかったら本当に0なのです。たとえ学校で寝ているうちに聞かされた勉強の内容が0.001しかなかったとしても、家でなにもしない自分は0なのです。「0と0.001の倍率は無限大である!」。私はこれが非常に怖かったのです(パニック発作とか広場恐怖という意味ではない)。


「何もしなかったら私は0になってしまう。なのに学校に行ってれば多分得るものは0ではない!その比率は学校に行ってる方が無限大に大きい!」。この考えは私に色々な勉強を自主的にさせる原動力となっていたと思います。おかげで私は暇さえあれば音楽理論書を読み、ピアノのフレーズ練習をし、シンセサイザーの知識を広げるようにしていました。今にして思えばこれらの小さな努力の積み重ねが身を結び、高校中退の自分がそうそうたる音楽大学出身の音楽家達とに混じって仕事が出来る基礎を作っていたのだと思います。

続きのストーリーはこちら!

(11):コンテストで入賞した!/パニック障害の音楽家

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。