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年上の妹

Image by Olia Gozha


「お姉ちゃん、行っちゃヤダ!」

 耳をつんざくような大声が、後ろから飛びかかってきた。

 他の生徒はぎょっと振り向いたが、私には分かっていた。

 マツウメさんだ――。


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 十五年以上前、中学二年生の夏のこと。

「あっちぃい~」

 クソとつく程に輝かしい日射を浴びながら、コンクリートの道を歩いていた。

「俺さー、パン屋希望したんだけど? 何で介護なんだよ、ざけんな」

「私カフェ」

「ウチ幼稚園」

 私が通っていた中学校では、『職業体験』が通過儀礼のように用意されている。華々しい飲食店や子どもと触れ合える私立の保育園、書店の販売員などといった現場があり、どこの職業を体験したいかを第三希望まで書ける。そして同じ職場に行くことになったメンツで班を組み、集団行動を取るというシステムになっている。とはいえ、

「介護希望に入れるヤツとかいんの?」

 コイツの発言から分かる通り、人気職と不人気職が存在する。

 人気職は当時、パティシエと保育士が同率、次点で花屋、それから飼育員だった。

 だが不人気職は今も昔もぶっちぎりで介護職。理由はいわずもがな、キツい、地味、楽しくない――。

 当然、人気職が希望欄に書かれる。選考となり、外れた者は、人の集まらない不人気職、即ち介護へ強制的に回される。

「介護希望ね。私だけど何か?」

 そう冗談めかして言うと、メンバーが一様に引いたような表情を浮かべた。

「えー!? お前、介護書いたの」

「江中さん、変わってるぅ」

「流石香奈恵氏、目の付け所がストロング(意味不明)」

「クラスで一番体力無い癖に」

 班員から猛攻を喰らってしまった。

 この介護班、私以外は全員選考落ちしたのである。

「何で介護? あ、もしかして」

 班員の一人がクスクス笑っていた。

「お兄さんが介護行ったからでしょ」

 それは事実だ。兄も選考落ちし、介護にぶち込まれたのである。だが、

「全く関係無いわ」

 兄は完全に不幸だったが、私は違った。下手に人気職を書いて変なところに回されるくらいなら、兄の体験談を聞いて少しは知れている分野に行くべきだと思ったのである。

「つーか何処で知ったのさ、兄貴が介護に回されてたって」

「先輩から。行く前、めっちゃ文句言ってたらしいよ」

「あの馬鹿兄貴」

 ついでに言っておくと、この選考、抽選ではなく綿密に行われる。希望理由を書く欄があり、何故その職業を体験したいのか・どう成長したいかなど、履歴書ばりの綺麗事&大嘘を書き連ねる必要があるのだ。

 つまり私以外の班員は、教員を騙せるような大仰な嘘を書けなかったピュアなメンツである。


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 到着したピュアな一行を、職業体験先の職員はべらぼうに歓迎してくれた。

「まーこんなにしっかりしてそうな子達が来るなんて……ありがとうね」

 道中ほざいていたことを思い返して、我々は互いをちらりと見合った。

「聞いたよ、他には動物園とかがあったんでしょ? そういう中から選んでくれるなんて、介護の未来は安泰だね」

 いいえ、私以外は選考落ちです。そして私もやりたくて来た人ではありません。

 そんなガキ共の脳内を知るはずもなく、職員は我々を待機室へ案内し、仕事の説明をしてくれた。


 まず、この施設は完全入所のみである。入居者はレベル1から5までの五段階で分類され(※「要介護1~5」のことだろう)、部屋が割り振られる。自力で動けないし判断もできないレベル5の方は一階に、判断はつくし杖をつけば動ける方は五階にといった具合だ。フロア毎にレベルは決まっており、レベルの違う入居者が同じフロアに入り交じることは無い。

 これを班員は「RPGのダンジョン」と言った。不謹慎だが的を射ている。


 次に、仕事内容であるが、我々ガキ共に触らせることなどたかが知れている。入所者への挨拶、レベル1と2の方に対しての軽い補助、食事の配膳といった程度だ。

 初日のハイライトは、レベル5の方への挨拶だった。

「ミヨさーん、今日から一週間、ここに来てくれる中学生の皆さんですよー」

 職員の声に、ミヨさんはまるで反応していないように見える。しかし職員は慣れているので、

「今まぶたが動いた。起きてるよ、挨拶して」

 わずかな動きも見逃さない。流石である。

「よ、宜しくお願いします」

「もっとはっきりと伝えて。聞こえてるから」

「○○中学校から来ました。宜しくお願いします」

「そう、それで良い。ほら、笑った」

 全然分からない。棒立ちの我々に構わず、職員はミヨさんに溌剌と声をかけた。

「ミヨさん嬉しいね! お孫さんと同じくらいの子だもんねー」

 この人達はプロだ。

 我々は、不人気職などと騒いでいたことを、酷く恥じた。


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 二日目、三日目、どうにか迷惑をかけない程度にサカサカ動けた、と思う。働いた感を味わわせるために、職員の皆さんが滞りなく動いてくれていたのだろう。とはいえ、介護の現場というのは、思っていたよりはキツくなく、寧ろレベルの高い入所者への対応を見せて欲しいとさえ考え始めていた。

 今思えば、クソ生意気な発想である。


 四日目に、ある職員に呼ばれた。

「君ら、もう折り返しだろ。ちょっと見せておきたいものがある」

 有無を言わせぬ語調に、我々は返事もできずに付き従った。

 この職員、本当に介護士かと疑ってしまうくらい、顔が厳ついのだ。柔和で笑い皺の沢山ついた職員ばかりの職場において、異彩を、否、違和感を放っていた。当時抱いた印象は『組の幹部』。普段は無言ながら、我々の作業が少しでももたつくと、

「動け」

 と一言キメてきた。叱られているわけではないのに、顔貌とやたら渋い声のせいでとても怖い。

 そんな『幹部』に連れられてやってきたのは、レベル4の方がいるフロアの一室だった。この日まで朝と昼の挨拶にしか来たことがない場所だ。もうその日の挨拶は終わっているのに、と戸惑う我々に、『幹部』は静かに言った。

「この部屋にいるのがどんな人か。君ら、知ってるか」

 黙っているのは良くないと思い、私が勝手に代表して答えた。

「マツウメさんです。挨拶の時は、お休みですよね」

 『幹部』は黙って首を横に振った。

「模範解答だ。だが、そんなことは聞いていない。もう一度言うぞ、『この部屋にいるのはどんな人だ』?」

「どんな人って……」

 何せお休み中に挨拶を済ませてしまうから、起きている時のことを知らない。食事の配膳で関わるのも、レベル1と2の方のみだ。3以上は部屋に直接運ばれ、担当の方が食べさせる。

「その……分かりません」

「見ていないだろう?」

「はい……」

 消えそうな声で返事をする私に、初めて『幹部』は笑いかけた。

「気にするな。あいつらがわざと見せなかったんだ。面倒だからな」

 その笑顔は、しかし満面の笑みではなかった。目尻に寄った皺、口角の上がり具合、白い歯、そのどれを取っても素敵なのに、目そのものが泣いている。

「けどな」

 深呼吸をする『幹部』。

「何のための職業体験だ? 表の仲良しこよし、楽しい部分、まだ楽なところだけ見せて、『これからの人生設計に役立てて下さいね~』とでも? ……そんなことだから、この業界の離職率が高いんだ。覚悟無しに入ってきてしまう。で、辞める。一旦就職した場所を三年以内に辞めてしまったら、次の就職が不利になるってのにな。そこまで耐えられない、そんな環境なんだ」

 最初こそ淡々と語っていたが、段々と独り言のようになっていく。

「あいつらはそこんとこ分かってないよな。無責任にも程がある」

 そこまで話したところで、『幹部』は我々に向き直った。

「いいか。この部屋にいるのは、『介護の現実の一つ』だ。この人に君らを会わせる。ここまでやって来た仕事は、本当に、ほんの一部でしかないと身をもって理解してくれ」

 そして、扉を開けた。


 床にぺたりと座り込んでいる、小さな背中が見えた。マっちゃん、と『幹部』が呼びかけると、彼女はくるりと振り向いた。

「おじちゃん」

 その声はお婆さんなのに、言葉が幼子だった。

 マツウメさんはすっくと立ち上がり、『幹部』にかけより抱きついた。誰が、どう見ても、子どもだ。

「おじちゃん、今日のお話はー?」

「今日はね、マンボウの子どもが、海に落ちてきた流れ星さんとお友達になるお話だよ」

 でもそれは夜のお楽しみねー、と『幹部』が優しく言った。

 あの『幹部』が、こんな良い表情をするなんて。先程から見せられる新しい側面を見て驚く我々に、マツウメさんが目をきょろりと向けて見つめてきた。

「おじちゃん、このお兄ちゃん達、誰ぇ?」

「んー、この子達はね……」

 そう『幹部』が説明しようとした瞬間だった。


「お姉ちゃん」


 マツウメさんの目が私を捉えた。

 あ、と『幹部』がやや苦い表情になった。マツウメさんがこちらに歩いてくる。

「お帰り」

 どうやら私を実姉と思っているらしい。ここは合わせた方が良さそうだ。

「ただいま」

 小さなお婆さんだ。中腰でマツウメさんを見つめる。

「今日ね、学校で『ソカイします』って言われたの」

「そう……行き先は?」

「トチギ」

「遠いね」

「うん」

 『幹部』が間に割って入ってきた。我々に、目で「外へ出ろ」と伝えてくる。

「マっちゃん、お姉ちゃん、そろそろお店のお手伝いに戻らないといけないみたいだよ」

「そっか。お姉ちゃん、またね。おじちゃんも行くの?」

「うん、お姉ちゃんを送ってくるよ。マっちゃん、ここで待っててくれる?」

「分かった」

 ソロソロと、部屋を後にした。


「肝が据わってるね」

 『幹部』が少し呆れたように言った。

「アドリブ凄かった」

 これは班員の談。だが『幹部』はまたも首を振った。

「一人を短時間だけ相手取ったから出来たことだ。あれを全員にやるとなると、話は別だ」

 サービス業の辛いところだな、と溜息一つの『幹部』。

「一人にやったら、皆へ。皆にやれないなら、一人にやらないこと。あれを全員にやったら、恐らく君は、持って五日だ。」

 一ヶ月ですらない。でも、と私は小生意気にも食い下がった。

「宮野さん(『幹部』の名前)は、『おじちゃん』って」

「俺はただの『おじちゃん』だ。近所に住んでるというだけのな。君が今やったのは『家族』だ。それに死ぬまで付き合うのは、俺は御免だね」

 介護職をやる上で、一番やってはいけないことがあるという。それが、『家族という思い込みに付き合うこと』だそうだ。

「俺は、『やだなあ、忘れちゃったの? お姉ちゃんの同級生だよ。お姉ちゃんは今どこ?』とか言って避ける。どこかで『設定』が崩壊するからな。家族が赤の他人にされるのと、赤の他人が家族にされるのとじゃあ、俺は前者の方がマシだと思ってるよ」

 そういうものなのか……と班員同士で、分かったような分からないような頭で頷き合った。


 待機室にぞろぞろ戻っていくと、初日で案内してくれた職員がいた。どうやら我々を呼びに来たらしいが、いなかったから待っていたらしい。驚いたように立ち上がり、

「宮野さん? 一緒だったんですか。どこ行ってたんです」

 と追及した。『幹部』・宮野さんは、全く悪びれずに言い放った。

「マツウメさんのところ」

「え……会わせたんですか?」

「当たり前だ。しかるべき教育だろ」

「やめて下さい。このくらいの子達と見るや、すぐ兄姉に結びつけるって、分かってるでしょう」

 ああ、面倒ってこういうことか。それとさっきから呼んでる『あいつら』というのは、職員のことだったのね。

 そんなことをガキが考えている前で、宮野さんと初日案内職員とで口論が行われていた。

「そうやって隠すから、いざそういう入所者に当たった時に対処が分からなくてストレスになるんだろうが。十代から教えとけば、心構えもできるってもんだ」

「私達は預かってるだけですよ、何が教育ですか」

「何のために多感な子どもに現場を見せている。綺麗事じゃ済まないのは、我々が一番分かってるだろ」

「だからって学校行事の一環で来てる子に、そんなシビアな部分を見せなくても」

「なら何を見せるんだ? レベル3以上の食事担当の側にも置かない癖に、他にどんな『綺麗な』ヨゴレ部分があるのか教えてくれ」

 横で聞きながら、我々ガキ共は戦々恐々としていた。

 『幹部』は、その心意気も幹部だった。折角来たならと、本当にキツい部分まで見せようとしてくれる。実際我々としても『別にキツくないからもっと見せてくれ』などと思っていたところだったし、ありがたいことだ。教育者である。

 しかし他の職員は、まだ子どもの我々にいきなり現実を見せつけるのはどうなんだという考えのようだ。確かにこのやり方では、最初から志望すらしない人が増えてもおかしくない。ただでさえ介護職は、半端ない売り手市場状態だというのに。

「俺は残りの数日、この子達にもっとえげつないものを見せるぞ」

「学校から文句が来ますよ」

「聞くに値しない、流しておけ」

 後で分かったことだが、この『幹部』、勤続30年で施設長の補佐も務める、現場のトップだった。……30年で、どれだけの人を迎え、どれだけの人を見送ったのか。どれだけ労苦を味わい、それでもやめなかった理由は何か。当時の我々に、それは分からなかった。

 『幹部』がふと、こちらを見やった。

「で、この子達に用があるんじゃないのか」

 そして、一方的に口論を終わらせる。職員はまだ何か言いたそうだったが、諦めた様子でこう続けた。

「今日は施設長がこの子達と直接話したいらしいから、呼びに来たの。お茶とお菓子あるからね」

 我々は特に何も発言しないまま、職員に連れられてお茶を頂きに行くことになった。そっと振り向くと、『幹部』は黙って佇んでいた。

 結局、この日は『幹部』とこれ以上話せなかった。


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 五日目、朝の挨拶を終えて昼食配膳まで少し手空きになった我々に、『幹部』がこっそりと会いに来た。職員が誰もついていない隙を狙ったと言っていた(他の職員に何を言われたんだ)。そしてマツウメさんについて教えてくれた。


 御年七十歳。学童疎開を小学校に入ったばかりの年齢で経験した。八歳年上の姉と七歳年上の兄がいて、姉は近所のお針子さんを、兄は家業を手伝っていた。

 奇跡的に家族全員が戦争を生き抜き、時代は流れ流れて平成となった。

 最初に彼女の異変に気がついたのは、姉だった。久しぶりに会いに来たところ、既に亡くなっているはずの両親を求めて泣いたのだ。当時まだ五十代である。姉は彼女の夫と相談し、病院に連れて行くことにした。

 診断は、若年性アルツハイマー。

「まだ初期なので、進行を遅らせる方法を実践しましょう」

 医師の言葉は残酷だった。

 抵抗虚しく、症状はどんどん進行した。ここに入所した五年前の段階で、夫を『気の良い親方』、姉を『お隣のお婆さん』、兄を『お巡りさん』と認識していた。そして自分は『六歳の子ども』だというのだ。

 自分が六歳なのだから、お父さんもお母さんもいるし、姉は十四歳、兄は十三歳のはずだ――。


「だから、君達を見るとマツウメさんは思い込むんだ。『お姉ちゃん達だ』と」

 介護どころか認知症にも面したことのないガキ共にとって、衝撃だった。自分の年齢を忘れ、子ども返りし、目に映るモノをその解釈だけで思い込む。

 申し訳ないが、それを聞く前に感じたのは、『こんな高齢者が子どもの振る舞いをしていて怖い、気持ち悪い』だった。そして聞いた後は、『どうしてそんなことになってしまうのか』だった。

「知らないからね、不気味にそう思うのは当然だ。だが、もう今からはそんな失礼なことは言えないだろう?」

 『幹部』は粛々と述べた。

「アルツハイマー、認知症、痴呆。いろいろ言い方はあるが、原因もあまりはっきりしていない。年食うと可能性は高まるが、だからって皆確実になるわけでもない。脳みその隙間が増えてることは事実だそうだが、俺は医学のことは分からん」

 君らも無関係じゃないんだよ、と『幹部』は続ける。

「爺さん婆さんの病気ではない。四十代で発症することもある。君らの親御さんが、明日発症する可能性もあるんだ。その時に、どう付き合っていくか。それを知って欲しかった。ある日、『うちの子がこんなデカいわけないだろ、まだ生後半年だ』とか言ってきたら、君らはどうする?」

 ――未だに私は、答えを上手く言葉にできない。


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 四日目に引き合わされてからというもの、挨拶の時間になると、マツウメさんは起きているようになった。

「お姉ちゃん、おはよう」

 その都度、そう言ってきた。『幹部』曰く、設定に一度付き合ったから、その路線が固まってしまったのだろうとのこと。そのため、

「この子はお姉ちゃんの同級生だよ?」

 と『幹部』がゆるやかに修正を入れようとしても、

「違うよ、おじちゃん。お姉ちゃんだもん」

 真っ向から否定されてしまう。

 廊下を歩きながら、『幹部』は呟いた。

「……さて、最終日をどうやって切り抜けるかな……」


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 七日目、つまり最終日になった。

 職員の皆さん及びレベル1と2の方がお別れ会を開いてくれた。

「孫は遠くに住んでるから、盆と正月くらいしか会えないんだ。君達が来てくれて、この一週間、楽しかったよ」

 そんな温まるスピーチをしてくれたレベル1の方がいた。

「またおいでや。高橋さんとお喋りしたいって言えば、ワシんとこに通して貰えるから」

「何言ってるんだ、お前。将棋は」

「ジジイと将棋指すのと、子どもと喋るのじゃあ、どっちがいい」

「わたしゃ子ども」

「ワシも子ども」

「やっぱりお前とは気が合うな」

「後で指すか」

「結局将棋かよ」

 気の抜ける漫才も行われた。


 レベル3以上の方へは、一部屋一部屋訪問し、別れの挨拶を述べた。勿論、マツウメさんにも。

「マっちゃん、この子達もね、疎開するって。福島の方に」

「へ」

 設定に合わせた『幹部』の言葉に、マツウメさんは空気の抜けたような声を出して、その場に立っていた。

 何か言われる前に、我々は部屋を出た。


「ありがとうね、一週間も」

 職員の方が、こちらが恐縮するくらい深々とお辞儀をした。

「いえ、勉強させて頂きました。大変お世話になりました」

 我々も慌てて頭を下げた。

 設定を持つ人や全く動けない人のケアに追われる中、ガキ共を迎え入れた。その手を煩わせた部分が圧倒的に多いだろうに、丁寧に教えてくれた。誰もが向き合うことになるだろう介護、それを一年三百六十五日ずっと代行してくれている職員に、尊敬と感謝が募る。

 一週間前、「介護とかだりー」などとほざいていたのを平手打ちしたい。

「これを模造紙にまとめて、学校で発表するんです。完成したらお見せします」

「それは楽しみ! 掲示板、空けとくね」

 お礼を懇ろに述べ、

「それでは、失礼致します」

 帰宅しようと背を向けた、その瞬間だった。


「お姉ちゃん、行っちゃヤダ!」


 耳をつんざくような大声が、後ろから飛びかかってきた。

 他の生徒はぎょっと振り向いたが、私には分かっていた。

 マツウメさんだ――。


「ヤダよう、トチギ一緒に行くの。何でフクシマなの。お姉ちゃん、行かないでよ!」

 その言葉は、私一人に向けられていた。

 振り向こうとした私を、班員の男子が押さえた。

「このまま無視して帰った方が良いんじゃないか? 設定に付き合うのかよ」

 それもそうだ。だが、

「もうここでお別れなら、それこそ『個人に短時間だけ』付き合う」

 班員の心配を退けて、私は振り向いた。


 マツウメさんは、『幹部』に辛うじて押さえられて、泣いている。

 私は荷物を班員に預かってもらい、彼女に歩み寄った。『幹部』は黙って成り行きを見守っている。

 マツウメさんの目を、中腰になって覗き込む。本当に、純粋に、子どもの目だった。自分を六歳と信じている目だ。真っ直ぐな目線。

「マっちゃん」

 『幹部』に倣って呼びかける。

「私も貴方のことが心配。一緒に行ってあげたいよ。でも、お母さんと話し合って決まったの」

「そーなの?」

「そうだよ。皆でひとかたまりになって同じ場所に行っちゃったら、そこが危なくなった時に家族皆倒れちゃう。だから、私とお兄ちゃんは福島、貴方は栃木、お母さんはおうちに残る。お父さんが帰ってきた時に、誰もいないのは困るからね。これで、どこかが大変なことになっても、他のところにいる人が助けに行かれる。だからね」

 マツウメさんに笑いかけた。

「マっちゃん、お姉ちゃん達が『助けて』って言ったら、お手伝いに来てくれる?」

「うん。分かった」

 涙を拭うマツウメさん。

「言われるまで、待ってる」

 それを聞いて、私は『幹部』・宮野さんを見上げた。

 やはり呆れたような顔だったが、しんみりと頷いてくれた。もう充分だと言うように。

「じゃあね、マっちゃん」

「うん、またね」

 マツウメさんは最後に、私の手を握ってきた。強く一度だけ握り返すと、その手を解いて、私は施設を後にした。


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「江中、お前すげえな」

 帰り道、午後五時過ぎ。班員から賞賛を受けた。

「疎開の事情とかよく知ってんな」

「あれね、全部聞きかじり」

「マジ?」

「それであんなアドリブとか、やべぇ」

「あの人も言ってたけど、江中さんの肝の据わりようが半端ない」

 実に暑い。太陽は傾き始めているのに、コンクリートが昼間に溜めた熱を憂さ晴らしのように放っている。

「ねえ、何書くか決めた? 明日から三日で作るんでしょ」

 班員の一人が早速切り出した。男子が、そりゃもう、と真顔で答える。

「江中とマツウメさんのエピソードがメインだろ」

「どうするのさ」

「思い込みの症状を書くんだよ。こういうことが起きますよって。んで、模範解答として宮野さんのコメント、不適切な対応として江中のアドリブを載せる」

「私のこと、不正解扱いか」

「だってそう言ってたじゃん」

「ちくしょーめ」

 だらだらと歩く。

「じゃあ各自、日誌まとめて持ってくるってことで」

「はいよー」

 そうしてそれぞれの家路に就いた。


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 発表は上手くいった。案の定、「認知症なんて施設の話だろ」と高をくくっている生徒が大半を占めており、そのためマツウメさんのエピソードは強烈だったようだ。

 一番印象に残った発表について感想文を書くという課題で、こんな言葉が寄せられた。

「認知症って、忘れるんじゃなくて『精神だけが若かりし頃へタイムスリップする』って感じなのかなと思いました」

 後日、この感想文と模造紙のコピーを施設に持っていくと、職員がその場で読んで感心してくれた。特に『幹部』は、感想文にしきりに頷いていた。

「タイムスリップか。良いこと言うね」

 それから模範解答・不正解の部分を読むと、

「何だ、俺のことが書いてあるじゃないか」

 と照れていた。

 その日、マツウメさんが現れるかと思ったが、体調が悪くて寝込んでいるそうで、会えなかった。

「会えたら会えたでまずいぞ。疎開して数日で戻ってくるのを、どうやって説明しろと」

 それもそうである。


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 二十歳を過ぎた頃、ライター業に興味を持ち始めたこともあって、取材と称しその施設に行った。施設長に昇進した『幹部』が覚えていた。

「疎開が終わったな」

 流石である。

 介護業の今と人材についてインタビューさせてもらい、それを終えると職業体験の時の思い出話に花を咲かせた。当然、その話になる。

「今日、マツウメさんは」

 そう何気なく聞いた。


 ――『幹部』が、目を伏せた。


「いい子で、待ってましたか」

「ああ」




(終わり)

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