私の物語の下書き4


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父と叔母

父方の祖父と祖母の間には3人の子が居ました。

第一子は長男である私の父。
第二子は長女、私の叔母。
第三子は次男、叔父。


第二子の叔母は早い時期に首都圏に勤めはじめ保険会社の男性と知り合い結婚し、そのまま首都圏に根を張った。
私が物心つくかつかないかくらいの時分は、いとこにあたる数歳年上の少年を1人連れて定期的に実家に帰省しておりました。

叔母はいわゆる才女めいた方で
いろんな事が出来たり知っていたり交友も広く同窓会にも頻繁に通っている社交的都会的な華やかな人でした。
手芸も得意で、帰省する度に私や妹に軍手生地を使った動物を模した自作のぬいぐるみを複数作ってくれて、幼少時の私と妹はそれらが大層お気に入りでした。後年、その事について実は母が快く思っていなかった風な話を次男が私にコッソリ耳打ちをしたが、真実かは定かではないです。

当時流行り始めたサプリメント偽薬と人脈を使った連鎖販売取引(マルチ商法)にも一時期熱心に嵌って彼女の母(私の祖母)にも高価なサプリメントを薦めていた時期もありました。



祖母の長男であるの小さい頃の話はほとんど聞いた事がない。
小さい頃に近所の山の中腹にある堤池に落ちて溺れたところを近所の親戚のお兄さんに助けてもらったとか、そのお兄さんを敬い非常に慕っていたとかいう話は聞いたような気がする。
そのお兄さんは非常にコミュニケーション能力に長けた学業も優秀な方で、戦中の東京帝国大学で学び他の大学で教授を経て首都圏のとある大学の名誉教授などの立派な肩書がつくまでになった方でした。

寡黙で比較的おとなしい性分の父は、その親戚のお兄さんの影響かはわからないけども戦後の復興まっただ中に勉学に励み、彼もまた関東の国立大学で講師や助教授を務めたのち地元近くの国立大学の教授職に就きました。

祖母が存命だった頃に父がなぜそんなにも勉学に励んでいたのかを訊ねたが、祖母自身もそれほどよくわかっていないようでした。祖母自身は道義については別として子の学業教育についてはそれほど熱心ではなかったのかもしれません。父方の曽祖父だったかは隣町の小学校の校長をやっていたような話も聞きましたが、時代的に尋常小学校だったのか国民学校だったのかすらかなりあやふやです。



父のひととなりなどについての記憶。

彼はたいへん読書や本が好きな人物で、夫婦部屋の脇の廊下のスペースを使った書斎の周りは書棚を埋める本で常にいっぱいでした。工学博士でもあったので、好んだ本は主に科学や工学やそれに近しいものが多かったように記憶していますが、教育に関する方面にも取り組んでいましたので人文・歴史・宗教などの本もそれなりにあったように思えます。文藝春秋やNewtonなども定期便のように近所の書店から届けてもらっていました。

漫画等に関してはそれほど興味が無かったように思えますが、手塚治虫のブッダなどは揃えていました。週刊少年ジャンプがぐんぐんと発行部数を伸ばし新聞等で話題の遡上に載った際、子供らだけでまわし読みしていたジャンプに少しだけ興味を示した事はありました。基本的には世代相応な堅物といった面持でしたが、割と新しいモノ好きな側面もあり私がPCエンジンDuoを購入した際にはおそらく工学的な観点からCD-ROMに興味があってでしょうが父自ら「見せてほしい」と言ってきた事がありました。このような事は大変に珍しいことです。※PCエンジン CD-ROM2は発売当時に家庭用ゲーム機として世界初のCD-ROM搭載機で、Duoはその数年後発売された統合廉価機

私が伺う機会はありませんでしたが彼の研究室とその席のまわりも同様に本まみれであったと想像できます。教授になるような方は程度の差はあれど大概そのようなものかとは思いますが、人そのものよりも本を通じて人と接するような方だったと言えるでしょう。常日頃から「人」について思い悩んでいるような方でした。

   ※画像はイメージ演出です

一方でストレスを無理して溜め込む性向もあり、短気に見える部分もありました。寡黙なほうではありますが穏やかとは言い難い側面があり、荒々しい性向を内に溜め込んでいる。そのような印象でしょうか。話をする際も「話をする」というよりも短くボソボソっと言い放ったり、長くてもせいぜい1センテンス程度の発語しかしない感じで、長く語る事や対話運動するという姿はまずまず見掛けたことはありません。

中肉中背で世代的にはやや身長は高いほうだったと思います。猫背ぎみで黒縁の眼鏡をかけており、若い頃は登山アウトドア系の趣味もそれなりにしていたような写真が残っていました。何かしらの運動を積極的にする習慣は無く、全体としては太ってはいませんでしたが年齢相応の中年太りなお腹だったような気がします。アルコール耐性はそれほどなく反応してすぐに赤くなる体質でしたが、嗜み程度に夕食後にビールを飲む習慣を続けていたのは見掛けていました。茶の間のいつもの席で食事を摂る際、肩をいからせて両肘を左右に広げて椀と箸を扱う癖があり、それは父としての威厳を誇張しようと自覚的にやっていたのかどうかは定かではありません。友人付き合いは私の視点からは全く窺い知れず、勤務先などに知己などが居たのかもよく知りません。

夕方遅めの時間に最寄りの駅から車で家に帰り、勝手口の脇に鞄を置きそれを母が出迎える。という姿を良く見た記憶があります。家の前に帰宅した車が乗り付けるとエンジン音で家の中に居ても大体察しがつくので、気が付けば車を入れる為に家の前のカーテンとガラス戸の片面を解放し、スムーズに駐車できるように手伝うという事もしばしばあったと思います。車が出る時も同じように逆にカーテンとガラス戸の解放と閉じ戻しを誰かしらが手伝うと出発がスムーズになりました。それを担当するルールがあったかは昔の事すぎて判然と思い出せませんが、母が居れば母が率先したり、母の手が離せなければ茶の間の居る誰か兄弟に開けるように言ったり、誰も居なければドライバー自らという感じだったかと思います。

彼の行動は全般的にテキパキとしており、帰宅してすぐに仏壇に参ったあと二階の自室でスーツから部屋着に着替え、あっという間に一階に下りてくるような習慣を持っていました。戦中末期生まれで、戦後直後の貧しい時代に育ったせいもあってか節制に小煩い面もあり、使わない電気照明はすぐ消すよう普段無暗に口を開かない割にそのような小言を言うのが常でした。茶化すようにふざるように言葉を発する時はフニャリとした猫なで声になる癖も持っていました。

休日は昭和のお父さんらしく白いステテコでテレビの前に涅槃のように横たわり、好きなNHKを眺めている事もありました。茶の間の家具調テレビのチャンネルは、父が居座る時は基本的にNHKに切り替わりました。民放局の少ない地域でもありましたので選択肢は大して無いのですが、子が品性に欠けるようなバラエティ番組などを見ていると「くだらん」と一蹴し侮蔑の言葉をつぶやく事も稀にありました。何かを話たくてだけどもうまく言葉にできずに、わざと憎まれ口を叩いてるようにも見受けられました。勤勉で真面目で堅物のような面もありつつ、子供に対しては狭量で気の小さな側面も散見されました。お腹にガスが溜まりやすい体質なのか家庭内ではよく気兼ねなくオナラをしていました。

   ※画像はイメージ演出です


彼の就職の進路については当時の電電公社への薦めか誘いもあったそうですが、彼は工学研究者とそして教育者としての道を選びました。そして一宗教者でもありました。彼の性分から云って適切で賢明な判断であったと私は思います。


父が教授になった頃、今とは違い大学の数もまだ少なく大学設置規制緩和(1990年代)以前の時代ですから、国立私立の区別なく純粋に教授のポストは非常に狭き門だったと思われます。
※注:教授のポスト数は別として、国立大学の数は戦後からほとんど変化は無いようです。

父はとある関東地方の大学に勤めながら、なにかの切っ掛けで地元に住むとある女性とお見合いをした。


父は母を選び、また、母は父を選び、結婚しました。


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