私の物語の下書き3



祖母の記憶

そういうこともあってか祖母は自分で畑を耕し育てた野菜を軒先に並べ売り、家計を支える為に商売を始めたのが店舗を始める切っ掛けだったらしい。
詳しい時期はわからないが、大正半ば生まれの祖母の年齢等からしておそらく私の父が生まれた後くらいなのではないかと思う。大日本帝国がポツダム宣言を受諾し敗戦した後くらいだろうが、明確な時期がわからないくらいに良く知らない。

祖母は第一次世界大戦中生まれですから、二次大戦中とは違い国内は概ね平和な大正から昭和初期時代に育ったことになります。その時代は物の種類などは現代と比べて少なくとも一次大戦特需なども影響してある意味では違う意味合いで豊かな時代だったらしい。祖母は近所の牛乳屋の家で生まれ育ち、家で飼っている牛の眼を怖がっていたらしい話を叔母か誰かに聞いた。

成人直後頃から第二次大戦へのギャップを経験したであろう祖母は、概ね独力で熟せる程度の畑を耕し野菜を育てるのが好きだったようで、晩年でも身体が動く限りは習慣的に野菜作りにせっせと出掛けて畑仕事を好んでいたような人でした。

地元生まれ地元育ちでずっとその町に根を張っていた事もあり、町内や近隣の同世代のお婆ちゃんらとは密な交流が常で、私が幼い頃はよく何人もの年配の方が寄り集まって祖母ととりとめのないおしゃべりを展開していました。それらも年を経るにつれ1人2人と身体を悪くしたり入院したり急逝したりで、そのような機会もだんだん少なくなっていったようです。

   ※画像はイメージ演出です

祖母は戦中か或いは戦後直後くらいの時代に自身で商売を始め家を支えたくらいであるから、言葉遣いは悪くは無いけどもかなりハッキリした忌憚のない物言いをする人だった。ほかの人からみれば性格はややキツイ側面もあったようですが、幼少期の私にとっては母と遜色無い程度には、或いは場面や時期によってはそれ以上には世話を焼いてもらったように思います。

兄弟の内では私が一番おとなしく幼児子供によくある気を引くための悪戯等も他の兄弟に比べてほとんどしないこともあってか一番目を掛けてもらっていたかもしれません。私の兄である長男は祖母と大変折り合いが悪く、祖母も幼い頃から躾がちゃんとされなかった長男に非常に厳しい態度でした。そしてその長男に対して躾をちゃんとせずに家庭内において傍若無人とも言える人間にさせたままにしてしまった父と母に対してもその点については大変辛辣であったと思います。幼いころから飛び抜けて口の達者でおそらく家庭内で一番弁が立ち機転の利く次男も、祖母を嫌ってはいませんでしたが畏怖の対象として見ていたようです。

夢見がちでどこか足の着いていない感じの私の母とはそれほど水が合わず親密というワケではなかったようで、時折キリキリとした空気が2人の間で散見されたりもしたが、地元の祭事には一緒に押し寿司を作るなどをして協力する事もあったのは見た記憶がある。お互いに妥協してなんとか大きな軋轢を産まないように励んでいたか、或いはそうするほかなくお互いに耐えていたのかもしれない。そうした関係は祖母が亡くなるまで左程変わらなかったように見受けられる。


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