私の物語の下書き7

叔父の記憶
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父が地元近くの国立大学へ赴任するその春。

次男の出産予定を控えた夫婦はまだ幼い長男を連れて実家に居を移します。
そこには私の祖父と商店を営む祖母(母にとっての姑)と父の弟(私にとっての叔父)の3名が住んでいたと思われます。そこに夫婦2名と一児が加わり、すぐに次男が誕生します。


当初 父は実家ではなく勤務先の大学の傍に新たに居を構えることを希望していたらしき話を母から少し聞きました。実家から大学へはそれほど近いというほどではなく車で直で向かって一時間弱。家と駅・駅と通勤先までを含めて特急電車を使った場合では一時間強~二時間以内かかる位置でした。地元の県内の片隅の温泉地とは違い、大学のあるほうは地方都市として断然豊かな土地です。実家が抱える事情と通勤の距離を考えれば、至極当然の希望のように思えました。

それでも結果的には父は実家に家庭を移すことを選びました。
どのようなプロセスを経て決断したのか私にはまったくわかりませんが、病気の叔父を抱える祖母か祖父の強い要望があったのではないかと推測したりはしました。


実は父の弟である叔父は、母が父とお見合いをする前に一度お見合いをしていた相手でした。

しかし母は彼を選びませんでした。叔父は選ばれませんでした。
そして叔父は10代の頃から〇〇〇〇〇〇〇という病気に罹っていました。
指定難病です。

叔父は偶にちょっとした仕事を見つけて勤めていたりもしましたがいずれも長続きせず、基本的には無職のまま実家で治療経過をみながら入退院をしつつ過ごしていた…というのが私の印象で、病気の影響であろう片足を常に重そうにひきずって歩いていました。サナトリウムに通っていたり入院していた時期があったのもうっすらと憶えがあります。なので他の病気も複数併発していたのでしょうが、詳しい事は聞かされていませんし本人も周囲の大人も誰も子供の前では彼の疾病について話題にしませんでした。

その病気を発症したのは叔父が高校生の頃だったとかすかに聞いた気がします。
叔父は当時野球少年だったそうですが、とても辛い思いした事は想像に難くありません。若い頃はそれでも俳優になる夢をみて首都圏に一時的に移り住んでいた事もあったらしいですが詳しい事は聞けず仕舞いでした。子供時代は父とは対照的にひょうきんで明るい性格だったらしく歌う事も好きだったそうです。娯楽方面も父があまり好まない雑誌や漫画本や歌謡やパチンコも楽しんでいたようです。のらくろやドカベンなどを揃えていたと思います。

私にとっては物心つく前から遊んでもらうこともよくあった、父とは違う身体の大きなやさしい人という印象でした。稀に機嫌が悪い時期があり近寄り難くなる事もありましたが幼少時の私を含めた兄弟は皆、彼からかわいがってもらっていたと思います。そして家庭内で唯一喫煙習慣を持っており、相当のヘビースモーカーでした。わかばという銘柄をよく吸っていた時期があった記憶があります。

其々の兄弟が思春期に差し掛かって以降、上の兄弟の長男や次男は次第に叔父の事を嫌悪するようになりました。機嫌が悪いのか茶の間で目いっぱい煙草をふかす叔父に対して、次男はあからさまな嫌悪の態度を示していた記憶があります。その当時は次男も自身の立場状況が良くなく不安定だったせいもあるかとは思います。煙草をそれほどまでに嫌っていた次男は成人した後に彼自身もヘビースモーカーになっており、おもしろいものだなと思います。

私自身は叔父に対しては嫌悪というよりかは、家族の誰も叔父の状態を始め色々な点について話さない説明しない事などを始めとした家全体の在り方について疑問や疑念のようなものを強く抱いていたと思います。煙草の煙自体は好きでは無かったですが叔父自体についてはそうでもなかったと思いますし、当時の私自身にとっては些事のひとつにしか過ぎませんでした。むしろ上の兄弟の叔父に対する態度の変化に対する疑問や疑念のほうが強かったと思います。叔父は近所の小規模な百貨店のようなスーパーの警備員などをしていた事が一時期あり、叔父が勤めている最中に上の階のゲームコーナーに遊びに行った事が一度だけありました。ある時期には絵を描く趣味に急に目覚めて、兄弟妹の似顔絵を描いて見せてくれたこともありました。残念ながら思春期の上の兄弟の態度は冷淡でした。私と妹も素直に喜びはしなかったとおもいますが、むしろ困惑した感じだったように思います。もう5年早ければまた違った態度をとれたのかもしれませんが。似顔絵自体は割と上手かったと思います。


そのような叔父が同居している事は、その家で最初から育った私にとってはデフォルトで自然な事で特に良いとも悪いとも思っていませんでしたし、ある程度の歳になるまでは母の宗教狂いも含め他の家とは違い異質であるとはそれほど意識をしていませんでした。宗教狂いという呼び方は祖母が稀に口にしてたワードだったと思います。


   ※画像はイメージ演出です

おそらく…ではありますが、母は叔父を内心嫌悪していた面がかなりあったように思えます。

子らの前であからさまに不公平に彼を扱うような振舞は無かったと思いますし、幾度か喧嘩とは呼びづらい強い反目反発を互いがしている事はあったものの、全般的に見れば家族の一員として過剰に親切でも過剰に冷淡でもなく表面上は普通に接していたようには記憶しています。しかし私が実家を離れ叔父が床に伏せ世を去り、その後の様子を見ている限りでは彼女は彼の存在に対してはひどく冷淡なようにも見受けられました。そのような沈黙的暗黙的な態度が思春期以降の長男や次男にも伝染伝播した可能性もあるような気はします。

祖母は息子の一人である叔父に対して、冷たくも温かくも無く淡々とした態度であったように思います。昔はどうだったのかはわかりませんが、叔父の病気や状態についてただただ「やるせない」「致し方なし」というような雰囲気だったと思います。もちろん身体が動く頃は叔父の病院に付き添ったりはよくしていました。私には正直想像がつかない関係ですので、例え身近に居たとはいえ「このように思っていたに違いない」と断じることはとてもではありませんが出来ませんし、なにかを推測する断片的情報さえ身近で育ちながらも知る機会はありませんでした。そして今となっては「どうだったのだろう」と疑問が湧いていても、当時の私は自身の事等でいっぱいいっぱいで取り立てて気に掛けるという意識をもたげる事は無かったです。父もまた弟の叔父に対して祖母と似たような態度であったと思います。

叔父は私が実家を離れて数年経った頃、サナトリウムの病室で亡くなったと事後に聞きました。
祖母が叔父を看取れたのかは聞いていません。
葬儀はしなかったと思います。


母は姑の祖母とも折り合いはそれほど良く無く、父と宗教にすがって生きる出口の見えない新たな生活がその私の実家からはじまったと言えるでしょう。彼女は就職しているかそれ以上かの如くその宗教活動・布教活動に邁進しのめり込み、朝に出掛け夕に帰り、家事をする傍らにも電話で宗教活動に類する長時間通話をするのが常でした。感情の起伏の激しい母は、通話口でも快活であったり時には誰かの話に触発されボロボロと涙を流すこともしばしば見掛けました。小さな私はそのような様子を見て、ある種の異常さや不可解さを微かにではありますが感じ取っていたように思います。そのように彼女は曜日を問わず昼間に家に居ることは稀でした。

彼女は晩年にそれらの実家の事情について「騙された」とポロリと私に溢したことがありました。
「あんな家だったとは…」と。私にしてみれば彼女自体も「あんな家」の立派な成員だったのですけども、母にしてみれば納得のいかない状況に置かれてしまったという意識はずっとあったのかもしれません。しかし母だけでなく他の家の者も同じように感じていた所は大いにあったでしょう。家の中で明快な「楽しさ」の感情を表意する人間は唯一母のみでした。基本的には神経が休まらない抑圧された空気が家全体に重く長くのしかかっていたようにしか私は回想できません。


次男が産まれてすぐ非常に手のかかる切迫した状態であったところ、彼女はまたすぐに妊娠をしました。周囲の眼が一層厳しくなります。「こんな時にまた産むのか」と。
親類の中には直接的にか間接的にか、孕んだその胎児を「オロセ」と放言する者もあったそうです。


それでも彼女は産みました。第三子の三男。私です。



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