【完全版】母が亡くなって、アイドルになった時のハナシ。

こんにちは、喜屋武ちあきです。






私は今回、16年間一度も公表したことがない、芸能界に入った本当の理由について書こうと思います。

なぜ書こうと思ったのかっていうと、まずは自分の中でずっと整理がついていなかった母親との関係に決着をつけるため。

それから、自分が本当にやりたいことはなんなのかなってずっと悩んでいて、自分を振り返ることで、そういった気持ちにも気づけるんじゃないかな、と思ったからです。



長くはなりますが、よかったらぜひ読んでください。



2018年末、一つやり残したことがあり、実家のある埼玉に行ってきました。

目的は、母親のお墓参りに行くこと。


母が亡くなってから丸16年。

墓参りはおろか、法事にも一度も参加してきませんでした。20代のころは仕事も忙しくて時間が取れなかったし、東京から1時間程度とはいえ実家に行くこと自体が年に1、2回だったから。


……というのは言い訳で、本当は母親の話題に触れたくなかったんだと思うんです。



昨年、16年の芸能活動の中でもかなり状況的に辛かった一年の中で、今までのことを思い返す時間がたくさんあり、ふと、母との決着をつけなきゃならない時がきたと思いました。


私は母を恨んでいるのだろうか、そして、母は私を恨んでいたのだろうか。真剣にそのことを考える必要があったし、その決着がつかないと、次の人生に進めないと思いました。



今まで、一度も皆さんに言わなかったことがあります。

これを言うことはとても勇気のいることですが、きっと誰かにとっては意味のあることかもしれません。

マネージャーにはそのことを公表することについて反対されているので、勝手に書いてどうなるかもわかりませんが、


私の母親は、うつ病の末に自殺しました。



これは、母の人生においての事実で、その前と後に何が起きたのか。

これから、私の家庭と、過程について、少しずつ書いていきたいと思います。






--------------その2「曖昧な、幼い頃の記憶」----------------




まずは私の幼い頃の話からしていこうと思います。




(写真:私と、2つ下の妹)



とはいえ幼少期の記憶ってあまりなくて(みんなはあるの?)断片的な記憶と周りから聞いた話を組み合わせる形になります。


1984年3月13日、私は東京都杉並区の病院で生まれました。


私の母は、"幸せな家庭"に憧れていました。


なぜなら、母が幼い頃、母の母親(私の祖母なので、以降祖母と書きますね。)は美容院を経営していたため、家庭にあまりコミットしませんでした。美容院のスタッフが面倒をみてくれることが多かったといいます。

母は祖母から愛情を受けて育ったという記憶があまりなかったそうです。


そういう境遇もあり、母はちゃんとした母親になることに関して、非常に強い憧れを持っていたんです。



私の父は北九州生まれ、大阪育ち出版社で。編集者として働いていました。そんな父と結婚した母は埼玉に家を買い、生活を始め、数年後、私が生まれました。



私の母子手帳には、A型の父と母らしい細かな文字で、産後の経過が綴られています。

満一歳の欄には「もう夜中に起きません。親孝行な娘です。素直な、人の気持ちがわかる子になってね。何より、人に好かれる子に育って欲しいと思います」との母の願いが書かれていました。



幼い頃、私は体が小さく身軽な子供で、跳び箱から一回転して降りるなどというちょっと今からは想像のつかないスーパー運動神経を発揮する一方、幼稚園という集団生活の中では内向的でどんくさい子供でした。


幼稚園帰りに体操着から園服に着替えるお着替え競争ではいつもビリ。誰もいない教室で一人モタモタノロノロやっていたそうです。


おゆうぎ会でかぐや姫を演じることになった時も、3人もいるかぐや姫の端っこに座った私はずっと、手に持った扇で顔を隠してそっぽを向いていたそうです。そもそもかぐや姫はまさかの立候補制だったそうですが、一体何を考えて手をあげたのですか?当時の私よ。



この頃の我が家は、父、母、私、2才下の妹という、小さく一般的な核家族として、当たり前のような幸せを保っていたのです。


そして、いよいよ小学生、私の人生の長い暗黒期へと進んでいきます。






---------------その3「暗黒期のはじまり」----------------






 今のわたしを知る人は、このようなわたしの過去の話をにわかには信じられないといいます。

そうなるように私自身も、とあるポイントから努力をしてきたので、結果そう見られていないというのは大成功ではあるかもしれませんが。

本当にね、今あの頃の自分を客観的に思い出しても、ヤバすぎて仲良くしたくないです。


 


きっかけは小学校二年生の時でした。

なぜそうなったのか、自分ではもう原因はわかりません。はじめから周りと馴染まない雰囲気があったのか、早生まれで少食の私は周りに比べ体も小さく成長が遅かったからなのか、甘えん坊な性格だったからか、その他に理由があるのか。

担任のTという女性教師から強く当たられていたことを覚えていいます。

T先生は授業中、問題に答えられない私の膝を教師用の大きな三角定規で叩いたり、強い言葉で叱責することがあり、その度に私は泣いて、授業を中断させていました。

だんだん、他にも些細なきっかけで泣くようになると、毎日泣き続ける私をみてクラスメイトも私のことを敬遠し始めました。


そして気付いた時には完全に孤立し、気味が悪い奴、というイメージが学年中に広がっていました。


私としては、一人は寂しいし友達が欲しい。周りの人に認められたいという気持ちはあるのに、何が正解かわからなくて。とる行動の全てが見事に裏目に出て、変わり者というレッテルが強固になる。

そんな抜け出せない負のスパイラルの中で情緒が不安定になった私は、腹痛に悩まされ、爪を噛むのが癖になり、授業中も机の下に潜って出てこなかったり、教室を出て行くなどの奇行に走るようになっていきます。


そうなると、いよいよクラスメイトは私に近寄らず、私はいつもひとりぼっち。高学年になるとバイ菌扱いをされたりしていました。

よくあるいじめというような形ではなかったかもしれません。でも、人から否定される、いないものとして、汚いものとして扱われるというのは、とても辛いものでした。

当時の私にとって「自由に二人組を作ってね」なんていう言葉は最大の凶悪呪文だったし、そんな時はとにかく机に伏せて寝たふりなどをしてやりすごしていました。

ただ、それでもわたしは学校に行くことをやめはしませんでした。

親の、人気者として学校で楽しく過ごしてほしいという望みはわかっていましたから、学校でのそんな姿を親に話すのは嫌だというプライドがあったのかもしれません。

それから、私は結局さいごまで希望を失いませんでした。

この極限の状況の中で、とある処世術を身につけ、それを頼りに学校へと通ったのです。








--------その4「私の処世術」----------





わたしの父は編集者、母は本の虫だったので、幼い頃から自宅の本棚には小説や漫画がぎゅうぎゅうに詰まっていました。


毎晩寝かしつけに絵本の読み聞かせをしてもらっていたおかげもあり、わりと早いうちから一人でも本を読む習慣が身につきました。

日曜には家族で図書館に出かけるのが習慣になり、学校でも友達のいない私はひたすら本を読み続け、一人の時間を過ごしていました。



中でも特に、ファンタジー作品が大好きでした。児童文学の「ナルニア国物語」や「クレヨン王国」シリーズ「果てしない物語」など、海外の作品から、日本のジュブナイル小説まで。

これらの共通点は、いずれも現実から異世界に飛ばされるというストーリーで、現実世界に馴染まない私はいずれ今の嫌な現実から離れて異世界に行くことで今の生活から救われる、と思いこむようになっていました。




学校では常に孤独でした。

一人で行動することが辛すぎて、私は妄想の世界に友達を作り、授業中は当時母とハマっていたドラゴンクエスト5やファイナルファンタジー5の世界に入り込むという妄想ばかり。


窓から外を眺めながら、今とつぜん暗雲が立ち込めて、魔王が現れて異世界に飛ばされる。目がさめると森の中にいて、あたりを探し回ると当時片思いをしていた男子生徒を発見、適当なクラスメイト2.3人と旅をすることになる、というような内容。



陳腐なものですが、当時の自分にとっては確実な救いでした。

そして、そういった異世界妄想以外にも、色々なシリーズの妄想があったんです。



動物や子供はクラスメイトのようにわたしを気持ち悪がったりしないから好きでした。飼いたくて仕方がなかったけど、親から反対されていたので、毎日ひとりの帰宅路では、家に帰ると子犬が待っているという妄想をしていました。



いつかクラスメイトを見返したい……というか、人気者になりたい。

そんな理由でテレビの中の華やかな世界への憧れなどもこの頃すでにあったように思います。妄想の話ですが、テレビに出るようになった私は、なんと今までのことが嘘のようにクラスの人気者になるんです!!!




……今こうして書いていて、とても切なくて、当時の自分がかわいそうになってきました。


こうして私は小二から現実と妄想を混合するタイプの厨二病を発症し、妄想の中のキャラクターとお話したりしていたので、さらにクラスメイトから気持ち悪がられたりしていました。



ただ、こういった妄想のお陰で、どんな辛い状況も耐えることができたし、思わぬ副産物も生まれたんだと思います。



私は小学校3年生の時の夏休みの自由研究で「消えた夏休み」という小説を書きました。それまでも本もどきは何度も作ってきましたが、きちんと自分で表紙もつくり、閉じて、一冊の本という形にしたのはおそらくこれが初めてです。

5年生では小説コンクールに作品を応募して、特選をいただきました。「魔女のほうき」というタイトルで、魔女と天使のちょっとした抗争を描いた作品です。




私はいつしか、小説を描く人になりたい。という将来の夢を抱いていきました。


とずっと思っていたのですが。


先日、実家で見つけた卒業アルバムの「将来の夢」欄には「犬のトレーナーになる」と書いてありました。


小説家じゃないんかい。









小〜中学校で奇行にはしり気持ち悪がられていた頃の、私のアブない奴エピソードは沢山あって、全部書いていくとキリがありません。


初恋ドラクエ事件、プールの壁に頭打ち事件、ハムスター事件、大根事件、たまごっち事件、卒業遠足ディズニーぼっち事件……自分がヤバすぎて、思い出したくもない記憶も多く。



こういった事件のおかげで学校の9割の人間からは気持ち悪がられていたし、男子からは心無い言葉を言われたり、近づくと避けられたり、ブスって言われたり、何か良くないことが起きると私のせいにされていたり。


中学生の頃は、とある男子集団からずっと絡まれていて、通っていた塾の男子からライターを使い顔に炎を吹き付けられたりしていました。

あ、泣き寝入りするだけでなく、何かされた時はやり返していて、塾帰りにとある男子と乱闘になったこともありますが。


ほぼ味方はいなかったという状況ででしたから、よく不登校にならずに頑張ったと褒めてあげたいと思います。

いや、こういった場合、悪い環境から逃げるというのも一つの正当防衛法なので、不登校だって全然正しいと思いますけどね。




前述の通り、苦しい環境の中で生んだ処世術として、私は希望を持ち続けました。


明日になれば友達ができるかもしれない、犬が我が家に来て友達になってくれるかもしれない、急にクラスの人気者になっているかもしれない。


結局中学校を卒業するまで、そんな願いが叶うことはなかったけれど。

(ただ、一応ちゃんと話しておくと、少しは友達もいました。当時の私と仲良くしてくれた貴重な友人達には感謝しかない。)



今なら、辛い場所から逃げることもできますし、嫌な人とは付き合わなければいいし、他に居場所を作ることもできます。

でも、当時の自分にとっては学校と家庭という二カ所だけが、人生の居場所でした。



今、学校生活が辛いという人には、全く別の居場所を作ることをオススメしたいと思います。習い事、趣味、なんでもいいので、別の、自分を認めてくれるコミュニティに参加してほしい。私も、学生時代そうすることができればよかったと思っています。






さて。モノゴトの始まりというのはニワトリが先か卵が先なのか、というようにわからないものです。

学校が先か家庭が先かわからないけど、家でも少しずつ家族との関係性がおかしくなっていき、私はどちらの居場所でも辛い思いをするようになっていきました。







-------------その5「期待に添えない子供」-------------





SNSのフォロワーさんには、10代の、まだ親と暮らしているような人もいるようで、たまに親とうまくコミュニケーションを取れない、好きじゃない、ということを伝えてくれる人がいるんです。

親孝行できるうちにしたほうがいい、とは思うけれど、実際に自分の経験を踏まえるとそう簡単なことも言えなくて。



私も、母とは仲が悪い時期が長かったんですよね。



15年前に亡くなった母親のことを思い出そうとすると、まずは小さな頭、華奢な肩が浮かんできます。

アゴも小さくて、私とよく似ていたと思います。


性格は反面教師もあって、どちらかというと母よりは父に似ていると思っているけれど。ただ、オタクなのは完全に母方の気質ですね。


母は若い頃は大変モテたといいます。本人曰く「アッシーがいた」とか。ほんとかはわかりませんが、父と結婚するまでは広告代理店で働いていたそうですし、写真を見る限り、華奢で柔らかい雰囲気の母はきっとそれなりにモテていたんでしょう。

父と母の出会いは友人の結婚式の二次会だそうです。

世の中のどんなカップルにもきっとストーリーがあるように、彼らにも紆余曲折があり、結婚。その後は所沢に一軒家を買い、父は東京の出版社に勤め、母は専業主婦として家庭を切り盛り。


一番はじめに書いたけど、母は自分の家庭に強いコンプレックスを抱いていたので、幸せな家庭を作りたかったのです。

ですが。私は変な子供で、母の願うような娘ではなかったんだと思います。



ひたすら不注意で色々と失敗をやらかしたり、まだ善悪の区別がつかず奇怪な行動をとる私について、母はおそらくとても悩んでいました。


どんな人間にも良い部分はあります。そういった部分を認めて、肯定して伸ばして欲しかった!と、今は思っているのですが、友達も少なく、頼れる人もいない上に生真面目な母でした。




「あなたはおばあちゃんに似てる」

眉間にしわを寄せ、こう言われることがよくありました。

私の髪の色は日に当たると金色に透けるくらい茶色くて、それは祖母の隔世遺伝だったし、もしかすると、性格も似ていたのかもしれません。

もちろん、褒め言葉でないことは理解していました。



だんだんと、母はヒステリーを起こし私にあたることが増えていきました。

しつけの範囲内として家から締め出す、というくらいなら皆さんも経験があるかもしれませんが、小学校の名札の安全ピンで刺そうとしたり、寝ているときに苦しくて目が覚めると首を閉められていたこともありました。「お前なんて産まなければよかった」「しね」と言われたことも。




私が中学生になる頃には、母はかなり感情の振り幅が大きく、居間で横になっている時間も増えていました。


台所にはプラスチック製の大きくて安い焼酎のボトルが常備されていて、母は昼間からマグカップに氷と一緒にそのお酒を入れ飲み、タバコもヘビースモーカーと言えるくらいよく吸っていました。

その頃、母が精神科に通っていることは知っていましたが、病名についてなどは聞いていませんでした。 




私が中学一年生の頃、母は1度目の自殺未遂騒ぎを起こしました。


私が学校でとある事件を起こした日の夜。

その件について母と話していると、母が精神科からもらっている安定剤の瓶を取り出し、静かに「この薬を飲もう」と言いました。

どうなるかはわかりません。でも嫌な予感はありました。


母は「死ななくてはいけない」と言いました。

私は「嫌だ」とその場を離れましたが、間も無くガタン!!と大きな音が聞こえ、駆けつけると母がほとんど残りの入っていない薬瓶と共に倒れていました。

パニックを起こしながらも救急車を呼びました。母は救急車で運ばれ、一時昏睡状態に陥りましたが、胃洗浄で一命を取り止めました。

台所のテーブルの上には「私は疲れました。子供のことをよろしくお願いします」などと書かれた遺書がありました。




私は、母と普段どのように接し、向き合っていたのでしょうか。あまりよく覚えていなくて。

母がうつ病を患っているということは睡眠薬騒動の後に父から聞いた気がします。もちろん家族として穏やかに接している瞬間もあったけど、少しずつヒステリーを起こしたり、キッチンドリンカーでヘビースモーカーな彼女を尊敬できず、少しずつ嫌悪感を抱くようになっていきました。


そして、私は私で、自分自身の人生をどうにかしなくてはなりませんでした。小2から中3の8年間という暗黒時代を経て、いよいよターニングポイントとなった高校生活に入っていきます。

ここで一体何が起きたのか。


そう。私はここで高校デビューを迎えます。






------------その6「高校デビュー」---------------








小二からの暗黒時代。本当は一刻も早く抜け出したかったけど、それはとても難しいことでした。

一度定着したイメージはそうそう覆ることはなく、中学は2つの小学校から生徒が合わさって通っている形でしたが、入ってすぐに「あの子はヤバイから近づかないほうがいい」という噂が広まり方向転換に失敗。

ただ、バスケ部のAちゃん。彼女の言葉は今でも心に残っています。中学二年生の頃、今までに比べクラスの環境も良く、私はだいぶ落ち着いて生活をしていました。

同じクラスのAちゃんとは特に仲が良かったのですが、ある日の放課後、教室に入ろうとすると、中でBちゃんがAちゃんに「あの子と付き合わないほうがいいよ、変な噂をよく聞くし気持ち悪い」と言っているのが聞こえました。私はグッと気配を押し殺し、Aちゃんが言葉を発するのを待ちました。

「そういう事いうのやめたら?」Aちゃんはしれっと言いました。

「私は彼女と遊んでいて嫌な思いをしていないよ。人の噂だけでその人を判断するのはよくないと思う。」

神!!!!Aちゃんはその時から私の中での神となりました。笑 

そして、この言葉は人からもらった大切な言葉として胸に刻まれていますし、私もそうありたいといつも感じていることです。

そんなAちゃんともだんだんと疎遠になっていまい長いこと連絡を取っていなかったのですが、最近、偶然共通の知り合いを通じてLINE友達に。ちゃんと感謝を伝えられていないので、会いにいきたいと思っています。



人が、すでにあるスクールカーストの中で階級を変えることはとても難しいことだと思います。

なので、私にとって大きなチャンスがやってきたのは、小学校二年生で人生に失敗し始めてから8年後でした。



高校は、地元の公立校に通うことにした私。

いよいよ全てやり直す時だ!と思った私は、入試の時からちょっと普段と違う自分を装いました。具体的にいうと、おどおどするなど自信のなさを出さない、人と目があったらそらさず軽く微笑むようにする、など。理想の自分を演じる、という形です。


高校はいくつかの科に別れていて、同じ科に中学からの同級生がいなかったこと、学年を通じても3人しかいなかった事が追い風でした。

私は周りの子の事を知らないけれど、向こうも私を知らない。

当時の私は対人関係への恐怖が強く、話しかけても「気持ち悪い」と思われるんじゃないかと怯えていましたが、"普通"を意識して人と接する事で、自然と席順の近い子達と仲良くなっていきました。仲良くなった子と一緒に演劇部に入部して、舞台に立ったり、遊んだり、当たり前のような喧嘩をしたり。

そしてまた、この頃から男子から普通に話しかけられるようになり、今までの人生でブスとか気持ち悪いとか言われたことしかなかった私は戸惑いましたが、そうか、私は人として普通に生きて良いんだ、と思えるようになりました。

この頃、人生で一度だけ髪を茶色く染めていました。メイクにも興味を持ち、人から好かれるために努力をしました。そして努力によって人は変われるんだ、と確信しました。



以前からもともと母の影響で漫画やアニメ、ゲームが好きでしたが、高校一年生でインターネットとアニメ専門チャンネルを導入したことにより、オタクとしても本格デビューしていくことになります。長期休暇は朝から晩までテレビでアニメを流し、パソコンに向かい魔法のiランドでファイナルファンタジーのなりきりチャットをし、ホームページを自作して二次創作小説を載せたり。この頃そういったスキルを身につけたことも、その後の人生にとってとてもプラスになったな〜と思いますが、これは母のことを記すという今回の趣旨から外れてしまうのでまたいつか。



家庭では、高校入学と同時期に反抗期を迎えた私は、家に帰らず友達と遊びに出かけたりして大変心配をかけることになります。バイクに憧れていた私は16歳になったのと同時に原付の免許をとり、その足で中古の原付を買って帰って怒られたり。私が親ならそりゃ怒るわ。

不良ではありませんでしたが、性質的に、思いたったら即行動!ということで勝手で突拍子もないことをする娘でした。


夕食の時間に戻らない私を母は叱り、それが嫌でさらに家に寄り付かず、今は仲良しの父とも、当時は大げんかをして心無い言葉を言ってしまうこともありました。

それまでであれば叱られてただ泣くだけで終わっていたのが、少しずつ大人に近づいたことで反発し、自分なりの意思表示ができるようになったことも要因だと思います。すぐに反抗期は落ち着きましたが、母はそのくらいからまた体調を崩しがちになりました。

うつと更年期障害に加え、アル中でヘビースモーカーで、食事もほぼ取らずにどんどん痩せ、ヒステリーを起こし、寝込みがちな母。私はこの頃母とほぼ同じ背丈になり、口喧嘩でも、取っ組み合いでも、負けなくなりました。ずっと、母のことを情けなく、歯がゆく感じていました。



高校3年生の頃から、私は近所の保育園にボランティアで通うようになりました。

もともと子供や動物が好きだった私は保育士になるという夢を持ち、進路を幼児教育科に定めます。

夜間の短期大学に3年間通うことになり、昼間はアルバイト、夕方から学校へ。私の生活は安定していましたが、母は相変わらず体調の良い時、悪い時を繰り返していました。そしてそんな母に私はやっぱり優しくすることができませんでした。

喧嘩になって母が「死にたい」と口にすれば「じゃあ死ねば」と言ってしまったこともあります。


ほぼ疎遠の祖母が事業で借金を作り、勝手に連帯保証人を我が家に設定したことで借金返済の通知や電話が来たりもしました。ある朝、父の怒号で目がさめると父が祖母を追い出すところでした。この時、祖母は母が結婚前に貯めていた結婚資金の200万も使い込んでしまっていたということも知りました。私にとっては優しい祖母でしたが、母が祖母を許せなかった理由もよく理解できます。



また、プライバシーに関することですし、詳しくは知りませんが、やはり父と母の関係性も常に良好とはいえないようでした。

私は、父はあの状態の母に対し根気強く接しているように見えていたし、そもそも夫婦の関係性に子が口を挟むことではないと思っていましたが。

というか、世の中のどんな家族や夫婦にも言えることだけど、結局本人たちにしか本当のことはわからないものです。(昨今は人の生き方にとやかく口を出したり、意見をする人が多い気がしていますが、自分が迷惑を被ったり、自分の周りの大切な人の話でない限り、割とどうでもいいというスタンスを持つべきだと思うんですけどね。)




母は真面目な人だったので、鬱になってから長いこと、孤独、不安、たくさんの辛さを抱えながら、生きていたんだと思います。


高校を卒業して短大に入るまでの春休み、私は母と一緒にソルトレイクオリンピックを観戦していて、ロシアのアレクセイ・ヤグディン選手に夢中になりました。フィギュアスケートにハマり毎日雑誌を読んだり、ビデオを見たり。

母もこの頃はヒステリーを起こすことも少なかった(というか、そういった元気もなかった)ので、フィギュアスケートを通して今までに比べてだいぶ穏やかな交流をするようになりました。専門誌を通じて友達を作り、持っていないビデオの交換をしたり、一緒にショーを見に行ったり。母も私もオタク気質なところは共通していたので、秋には京都にNHK杯(フィギュアスケートの協議会)を観にいきました。これが母と初めてで最後の、二人きりの旅行でした。


駅直結のちょっと良いホテルに泊まって一緒に清水寺を観光したりもしましたが、あまり体力のない母を置いて友達と遊びに行ってしまったこともあり、もっと一緒に時間を過ごしてあげたらよかったのかな、と当時はほんの少しの罪悪感を持っていましたが、後悔をどんなに後悔しても取り返せないものがあることを、この数ヶ月後私は思い知ることになります。



---------その7「19歳前日」---------



2003年3月。

短大の春休み中だったため、アルバイト以外は自宅にいて、年明けからまた伏せている時間が多かった母の代わりに家事をして過ごしていました。

11日の夜、私が夕食を作り妹と食事をしていると、その頃はもう少量のおかゆしか口にしなくなっていた母が珍しく一緒に食べるといい、食卓に着きました。会話もだいぶ少なくなっていましたが、少し濃いという感想をいうと「おやすみ」と2階にある寝室へ戻って行きました。これが、最後の会話でした。


12日も、昼からアルバイトだった為、母と顔を合わせることなく家を出ました。

当時は家電量販店のゲーム売り場でアルバイトをしていました。

12時すぎ、エプロンに忍ばせた携帯に母から着信がありましたが、私はアルバイト中だった為、出ませんでした。そして、アルバイト先の仲間に、母の愚痴を漏らしていました。寝込んでいる為、家事をやらなければならなくて苦労をしていること、自分なりに頑張っているつもりなのに母の口出しが煩わしいと感じている、ということ。


30分ほどいつもより遅れた16時半、アルバイトを終えた私は夕食の材料を買うと自宅に戻りました。当時高校2年生だった妹は帰宅して台所でテレビを見ていて、彼女と雑談をしながら夕食の支度を進めました。

夕方17時過ぎ、父から「頭痛がするので早退しました、帰宅します」と連絡が入りました。間も無く帰ってきた父は着替えのために2階に上がって行きましたが、すぐに叫び声が聞こえてきました。驚き階段の下に駆けつけると、父が母の名前を呼んでいる声が聞こえてきました。

「お母さんが、首を吊っている!!」

私は頭が真っ白になりましたが、どこか冷静に「またやったのか」と考えてもいました。父に言われ、近所でよくお世話になっていたSさんを連れてきて、救急車を呼ぼうとしましたが2階から降りてきたSさんの言葉は「ちあきちゃん、警察に電話して」でした。救急車ではなく、警察。

つまりそういうことなのかと思いながら、110番に連絡をし、パニックになっている妹を抱きかかえ落ち着かせながら警察の到着を待ちました。


まもなく警察と救急が駆けつけましたが、母を見に行くことができず、私と妹は1階にある居間でただ座り込んでいるだけでした。「時間が経っているので蘇生はできません」という声が2階から聞こえてきました。

結局、事件性のない自殺ということで警察は帰っていき、あっという間に話は葬儀の準備へと移っていました。父は心臓が痛いと寝込んでしまったので、私は妹と近所の方が作ってくれたおにぎりを食べ、まんじりともしない夜を過ごしていました。

そしてその日の0時を超えると、私は19歳の誕生日を迎えました。おめでとうという言葉は誰からもありませんでした。当日の日中は父と、母の死亡届を出しに行きました。


家に棺が到着し、母が収められるまで、私は母の顔を見ることができませんでした。

母が死んだことを実感するのも、苦しさに歪んでいるかもしれない顔を見ることも怖かったのです。きっと私のことを恨んで、苦しんで死んでいったんだろうと。でも、実際に棺に収まった母の顔はまるで眠っているように穏やかででした。

それでも最後まで触れることはできませんでしたが、身内だけの葬儀を終え、母は骨と灰になりました。




-------------その8「生きる理由」--------------


母がいない生活。はじめは思ったより大したことがないな、と思っていたのですが、日を追うごとに胸にぽっかりと空いた穴は広がっていきました。

数ヶ月経った頃、毎朝、起きて母がいないということを思い出し気が滅入り、何をするでもなく時間が経ち、学校に行く気も起きず、行ったら行ったで突然悲しくなって涙が止まらなくなり、家に戻ればまたため息。とてつもない後悔と罪悪感に苛まれました。


死亡推定時刻が16時と聞いて、あの日すぐに家に戻っていれば、すぐに2階に上がっていれば、昼間の電話に出ていれば。そもそもきちんと話を聞いてあげていたら、彼女の病気を理解して優しくしてあげていれば。どんな思いで母は死んだのだろう。

私はこう思いました。


私が母を殺したんだ。



母はなんのために生きたんだろう。

もっと人に感謝されたり、認められたり、生きていることを肯定されたかったはずなのに。幸せを感じたかったはずなのに。私は母への親孝行もできず、それどころか苦しめて、彼女を死に追いやってしまった。

私は生きていていいんだろうか、とさえ感じました。



そんな時、事務所のマネージャーから電話がかかってきました。

その年の2月にスカウトを受け、連絡先を交換していた芸能事務所。幼い頃からの漠然とした憧れもあり、所属を迷っていたところでしたが、母の一件を話すと事務所に呼ばれ、社長と面接をすることになりました。

芸能という仕事。それは、保育士を目指していた私にとって、突然の別の道でした。でも、私が人の役に立つことをしたり、人を元気にすることができれば、母が生きた証をこの世に残せるかもしれない。そして、母のように人生に絶望して命を絶ってしまう人々を救うことができるかもしれない。

そして、日本の年間の自殺者は3万人もいる。


自分がこれから何のために生きていきたいのか、そう考えたとき私は、もっと人に元気を与えられる存在になりたいと思いました。これまでの人生、長いこと嫌われ者だった私が、生きることで、頑張ることで人に元気を与えられるなら、生きてもいいんじゃないか。



社長は、うちはグラビアの事務所だからグラビアでデビューすることになる。最初は学校に通いながらアルバイト感覚で始めてみるのもいいんじゃないか。色々と大変なことがあったと思うけど、一緒にタレント、つまり人気者の道を作っていこう、と言ってくれたのを覚えています。


父とも話し、学校に通いながら事務所に所属することにしましたが、私はアルバイト感覚なんていう生半可な気持ちではダメだと、母のためにも、この道で行けるところまで行くんだ。そう心に誓っていました。




-------------その9「アイドル」--------------



グラビアアイドルとしてデビューしたのが2003年の夏。

それから3年目の2006年に中野腐女子シスターズに出会い、腐男塾としてCDデビュー。同時に元々持っていたアニメやゲームといったオタク属性を生かした仕事をすることで、あっという間に年月は過ぎていきました。

風男塾として掲げる"人を元気にする"というスローガンは、私が心から望んでいることで、そのマッチングのおかげでたくさんの人が風男塾を通じ元気をもらったと言ってくれましたし、特に「同じ時代に生まれた若者たち」という曲を歌うたびに、自分の苦しかった人生、そして今苦しんでいる人たちへのエール。そんな想いに、毎回グッとこみ上げる気持ちをこらえていました。

気づけば、あっという間に8年が経とうとしていました。

自分としては、当時リーダーを勤めていた風男塾をとにかくもっと売りたい!という気持ちで突っ走っていましたが、一人でやっていることではないだけに、他のメンバーやスタッフ、考え方の違いはそれなりにあったと思います。

私はとことん話し合いをして、考えぬいた末、自分と、グループのこれからを考えて卒業することを決めました。

10代に全くアツくなるような青春を過ごすことがなかった私にとって、風男塾として過ごした時間とたくさんの人に愛された桃太郎くんは一生の宝物です。



-----------その10「自分をやり直す」----------


卒業から4年。

この間、なかなか思うように行かないことが多くて辛かったです。



周りには、結婚という道を選ぶ人、違う仕事の道を選ぶ人もいて、事務所のスタッフさんにもも、結婚した方が仕事仕事!ってならなくていいんじゃないの?と言われたこともありました。

私も、一時期はその方がいいのかなって思って婚活したりもしたけれど、全然うまくいきませんでした。

本当に自分が望んでいることじゃないんだから、当たり前ですよね。



母の死をきっかけに、人を元気にしたいと思って入った芸能界。運よく風男塾に出会うことができて、自分がやりたいことだったから必死にやってきたけれど。

今の自分は、人が元気になれるような何かができているのかな。

自分が存在することで、人が明日も頑張ろうって思えるような存在になりたかったのに。

仕事に関する周りとの関係性も、決して良いとは言えなくなっていて、ひたすら悩みました。

自分がダメだから、こんなに思うように行かないのか。

やっぱり私なんて、ダメな人間なんじゃないか。

今日も、何もやる気が起きない。

人と会っている時だけ、明るい自分でいられる。

それ以外は屍のように、気力のない状態が続きました。

私が本当にやりたいことはなんだろう、そう考える時間もたくさんありました。


なかなか疲れる日々でした。


ただ、どん底まで落ちて、悩んで、考えて。


ある日、何かがふっきれた気がしました。



私は、幼い頃に素直な自分でいることを否定されて以来、嫌われることが怖くて、本当の自分を隠して生きてきたけれど、それによってすごく不自然な人間になっているのかもしれないです。


今までは外側だけ、それなりに上手にいいように見せていたかもしれないけど、ダメなところやだらしないところ、情けないところもたくさんあって、それが本来の、ナチュラルな私なんだと思います。



一旦ニュートラルな自分に戻って、もう一回一から私をやり直そう。

そう思って、私は周りに自分という人間をさらけ出す努力をするようになりました。


ただ、今までそんな風に生きてきたことがないので、なかなかうまくいかなくて、空回りしちゃったりして。


自分の原点に立ち返ることが必要だと思った私は、母と向き合うことを決め、この自叙伝を書くことにしました。


私の育った環境や母のことをさらけ出すことで変な風に感じる人もいるかもしれません。でも、私は本当に不器用で、こういうやり方になってしまって、それもまた、私なんです。




母の死からちょうど16年が経って、やっと本当の意味で母との関係に決着がつけられた気がします。



私は35歳になってまだ人間が未完成で、きっと色々なことが下手くそです。

でも、自分も、自分の人生も再構築してく中で、やれること、やりたいことを見つけて「我が人生に一片の悔いなし」と言える一生を送ってみたいと思っています。



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2019年3月13日 喜屋武ちあき


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