安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 vol.03 「歌う」
その後、豊は、高校へは進学せず、スペインとパラグアイへサッカー留学する。
帰国後、しばらくしたある日、同級生のマサシが、駅でライブをやっている友人を見に行こうと豊を誘った。
いわゆる路上ライブである。
豊の住む町の駅舎は、線路をまたぐ形で陸橋となり、駅の南北を繋いでいた。
2階部分にある改札口へと昇るためのエレベーターホールは、南側にある商業施設側を向いて、2,3人が立って歌うには、おあつらえ向きにくぼんでいた。
そのおかげで、歌声にはリバーヴがかかり、音響機器などなくても、いい効果がだせていたので、路上ライブには最適だった。
もちろん、違法だったが、若い路上ミュージシャンたちには、そんなことより、その場所を誰が先に行って取るかの方が最優先事項だった。
マサシの友人は、その場所でギターを弾きながら歌っていた。
豊は、これにまた衝撃を受けた。
この頃、豊の周りには「ギターを弾くやつ」の存在は、もう珍しくなくなっていた。
しかしながら、弾き語りはいなかったのだ。
弾きながら歌う…それは、とても斬新で面白く思えた。
それから、豊は路上ライブを見に行くことが習慣のようになった。
ライブを見た後は、気分が高揚する。
豊は、ライブの後、家に帰ると、自分のギターを引っ張り出して、誰にも聞かれないように海辺へいき、今しがた見たライブの真似をするように歌い始めた。
ある夜、いつものように、ライブを見に行った流れで、豊はマサシと一緒に、海辺でギターを弾きながら歌ってみた。
もう、真夜中のことである。
豊の声が届く範囲には、マサシ以外に誰もいない。
歌い終わると同時に、マサシが呟いた。
「お前、ええ声しとうな」
豊は、その呟きを今も忘れてはいない。
それが、豊が歌を歌い始める岐路だったからだ。
豊は、マサシのその呟きが驚きであるとともに、とても嬉しかった。
ずっと音痴だから歌など歌えないと思ってきたが、その声をほめてくれる人がいる…歌っていいと、赦された気がした。
豊は、その時を振り返っていう…俺は、きっと歌いたかったんだろう。
豊は、そういってくれる人がいるなら、もう一人別の人に聞かせてみたい、と思うようになった。
嬉しくなりたかったからなのか、歌いたいという気持ちが先だったのか、わからないが、豊が真似ていた路上ミュージシャンのように、駅でライブをすることが、その時から豊の目標となった。
豊が、マサシを誘って、駅のライブを始めたのは、それから1年が過ぎたころだった。
豊が歌ってマサシが伴奏をしたり、マサシが歌って豊が伴奏したり、2人で歌ったりした。
ただ歌えることが楽しかった。
当時、駅での路上ライブは、場所を取り合うほど頻繁に行われており、行けば必ず誰かが歌っていたので、そうしたことが評判になり、通りすがりに立ち止まる人や、わざわざ聞きにくる人も多かった。
豊たちが歌っている時に、誰もいないということは一度もなく、やがては、リピーターも増えていった。
運がよかった…といえば、そうだろう。
週に2,3度、20時頃から深夜まで歌っているうち、知り合いは爆発的に増えていった。
半年もすると、同じ場所でライブをするミュージシャン仲間もできて、彼らと隣町のライブハウスをレンタルして、ライブを企画する話が持ち上がった。
豊が18歳の時だった。
ライブハウスのレンタル料は10万円、帰国後、すぐに働き始めた少年の給料からすると、途方もない額だった。
もちろんチケットを販売して、レンタル料に充てるのだが、回収できるとも思えなかったので、豊はミュージシャン仲間と費用を割って負担するものだと覚悟したが、話が決まってからは、一応の努力として、豊も仕事を終えると隣町へ行って、ライブに出演するミュージシャンたちと、毎日、ストリートライブを繰り返し、広報しつづけた。
その努力もあり、当日、ふたを開けてみると、130人もの来場者があり、ライブは大盛況。
ライブハウスのレンタル料を支払った上に、少年たちの手元に3万円が残った。
その日、出演した3組の「ギャラ」である。
これは、持ち出しを覚悟していた駆け出しのミュージシャンたちにとっては、大変な出来事だった。
確かに、路上ライブをしていると、酔っぱらった通行人が足を止め、「兄ちゃんら、がんばっとんなぁ。これでうまいもんでも食ぅて 元気だせや~!」と、1万円札をくれることもあったが、それは、豊たちの歌や音楽に対して支払われた対価ではないことを、若い彼らもよくわかっていた。
豊は、その3万円の重みを、この時、強く感じた。
「ギャラ」…自らの歌がお金という形になった。
ミュージシャンである自覚を、もっと明確にもたなければ…と豊は思った。
他のミュージシャンのやり方やライブの進め方、活動の仕方などまるで知らなかったが、ミュージシャン仲間に誘われるまま、神戸や姫路のライブを聞きに行ったり、出たりしているうちに、1年ほどすると、自分なりに歌える自信がついてきた。
豊が聞きに行っていた路上ライブのミュージシャンが、豊に、ギターとコーラスのサポートを頼むことも増えていた。
波に乗った勢いで、2006年、19歳の夏、豊は、路上ライブ仲間2人を伴って 約1か月の「西日本路上ライブツァー」に出かけた。
いっぱしに「ライブツァー」などという名前をつけたが、実際は何の計画もなく、ただ3人で、その日行き当たりばったりの街でストリートライブをするという旅だった。
2000円でテントを買って、高速道路のパーキングエリアや公園の駐車場で野営した。
それでも、路上ライブの定番である「投げ銭」で、男3人が、ごはんを食べて、お風呂に入り、洗濯をして、ガソリンを入れるだけは、稼げた。
これも、運がよかった…としか言えない。
この旅で出会ったエピソードは、また別の機会に聞くこととなる。
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