安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 vol.04 「空白」
西日本ツァーから戻った後、豊の両親は離婚した。
以前から、多分、離婚するんだろうなと思っていたので、そのことについて大きなショックはなかった。
豊が20歳の時だった。
豊は、リフォーム業の営業職に就いていた。
実直な性格の豊は、任された仕事を丁寧にこなしていた。
この頃はまだ、仕事終わりにギターを担いで、路上ライブに出かけたりもしていたのだが、数年すると、その実績にしたがって、責任も重くなった。
得意先もできて、商談の件数も増えていくようになると、取引先の都合に合わせて商談を進めるので、仕事が定時に終了することなど滅多になくなった。
営業から帰ってくると、その日の報告書の作成や発注の事務作業、翌日の資料準備が待っている。
路上でライブをしているミュージシャンを、仕事帰りにちらっと見るのが精一杯で、とても自分が音楽活動をする時間などとれなかった。
豊の歌を聞いていた人たちには、豊はもう音楽を止めたのだと思われていたが、豊を音楽シーンに誘う動きはなくなってはいなかった。
松田礼央は、神戸でパーカッションを叩いていた。
西日本ツァーに行く前に路上ライブで知り合い、時折 サポートに入っていたミュージシャンが、その後 メジャーデビューを果たした時、豊にライブのサポートを依頼して来た。
松田礼央も、彼にパーカッションのサポートを依頼され、豊と礼央は顔を合わせることが増えて行った。
楽屋で、出番を待つ間、彼らはよくギターとパーカッションで、遊んだ。
礼央は、豊のギターと歌を気に入っていたし、豊も、礼央のパーカッションが豊のギターに与えてくれる厚みをとても心地よく感じていた。
やがて、2人で何かやりたいよなぁ…という会話が出てくるのは、ごく自然なことだった。
礼央は、あの話を実現しようと何度も豊を誘ったが、仕事に忙殺される豊は、礼央の言葉に気持ちが揺らいでも、その時目の前にある現実を、どう片づけて時間を作ればいいのか考えつけずにいた。
もちろん、音楽はやりたい。
今週が終わったら、礼央に連絡を取って、また音楽を始めようと何度も思いながら、先延ばしている間に、2年が走り過ぎて行った。
それが、豊の空白の2年間だった。
どうやって、その2年を過ごしたのか、今でさえ、豊は思い出せないでいる。
それでも、終わりは来るもので、2年が過ぎようとする頃、礼央の熱心な誘いがとうとう豊の心に光を当てた。
豊は、もう少し時間の融通の利く仕事に転職しようと考えついた。
そんなこと、もっと早くに思いつきそうなものだが、人は困難が続くと、それを良しとはしていないのに、そこから出る選択を諦めてしまうもののようだ。
外の世界を自由に泳ぎ回る、そう、少なくとも自分より自由に思える存在に気づいた時、ひょっとして自分もそうなれるかもしれないという可能性を認識する。
そして、豊は、定時にあがれる工場勤務に移り、週末の音楽活動再開に踏み切ることになった。
あなたの親御さんの人生を雑誌にしませんか?

著者のKeiko Nishiumiさんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます