安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 vol.05 「祈り」

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そんなある日、豊はマサシに呼び出された。


工場での勤務を終えて、マサシの家を訪れた豊は、彼が豊を招き入れる前の数秒、空を見上げた。


西の空は強いオレンジ色に染まり、豊の頭上でオレンジ色は濃い紫へと繋がっていった。


夕暮れ独特の匂いが、豊を取り巻き、どこか懐かしい、センチメンタルな気分にさせた。


それまでの数年の間、豊が忘れていた気分だった。


マサシに促され、豊がマサシの部屋に入ると、マサシはいつになく神妙な顔で話を切り出した。


「これ、俺のギブソンやけどな、俺、これ、お前に持っててほしいねん。」


「え?」


豊は、マサシの言っていることの意味が理解できなかった。


マサシが指さす先で、ギタースタンドに立てかけられたギブソンのボディが、ついさっき豊が見上げた空のようなグラデーションで艶めいていた。


マサシは、豊と、駅で路上ライブを始めた頃からずっと、音楽を続けてきていた。


豊は、その当時から、マサシの音楽性には一目置いていて、歌もギターもマサシの方が自分よりずっと優れていると思っている。


いつかまた、マサシとユニットを組んで、音楽をやりたいと思ってもいた。


どういうことなんだ、と思っている豊の気持ちを察したマサシが、話を続けた。


「俺なぁ、音楽やる器とちゃうって思うねん。


絶対、お前の方が音楽続けていくべきやって。


調子に乗ってギブソン買うたけど、俺が持ってるより、お前が使た方がええ。


これ持って、また、歌てくれや。」


「いやいやいやこんな高級ギター、そんなん言われてすぐに持って帰れるわけないやん。」


確かにそのギブソンは、マサシが持っている中で一番いいギターだった。


豊は、その言葉をマサシに対して言っているのか、独り言なのか、自分でもわからなかった。


ただ、あまりに驚いて、思ったことがそのまま、言葉に出てしまった。


そのやり取りの後、マサシは、自分の思いを豊に説明しようと努力した。

 

マサシは口に出しては言わなかったが、彼にとって、18歳の夜、他に誰もいない海辺で聞いた豊の歌声が、どうにも超えられないハードルだったのだろう、と ギブソンは僕に語った。


ライバルなどという気持ちはない。


ただ、あの夜、聞いてしまった豊の歌声が、いつもマサシの基準となって、自分で自分の採点をするようになったのだと思う。


あの夜からもう8年が過ぎていた。


ギブソンは、マサシのもとに行ってからずっと「やっぱ、あかんなぁ」というマサシのつぶやきを何度も聞いてきた。


おそらく、マサシが歌を歌う度に聞こえた言葉だったろう。


豊が音楽に携われなかった間は、特に多かったように思う。


その言葉が、その時々で、違う対象に向けられていたことをギブソンは気づいていた。


ある時は、マサシ自身の歌やギターテクニックに、そして、ある時は、音楽から離れている豊の状況に、向けられていたと思う。


マサシには、豊の歌が憧れであり、歌っている豊が「豊」だった。


ギブソンは、マサシの気持ちを抱いたまま、豊の元へ行こうと思った、という。


自分の存在が、マサシの思いのすべてを豊に伝えられるタイミングがきっと来るそれは、少しずつかもしれないし、ある瞬間に降ってくるのかもしれないが、自分が豊と一緒に居る限り、きっと豊はマサシの「祈り」を受け取ってくれるギブソンは、ケースの中で、豊の歩調に合せて揺れながら、決心とも言える凛とした気分が充満するのを感じていた。


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