安本豊360℃ 歌に憧れたサッカー少年 Vol.23「長崎」
第二次世界大戦が終わったのは、1945年のことだ。
豊たちが産まれた頃には、もうすっかり過去の話になっていて、周りには戦争の名残など何もなかった。
それでも、学校では「原爆」のことを習う。
この西日本ライブツァーの中でも、広島に寄った。
おまつりに出会ったのは偶然だったが、広島をライブのポイントに選んだ気持ちの中に、「原爆」がまるでなかったかと言えば、そんなことはない。
金座商店街をもう少し西に進めばすぐに原爆ドームがある。
比べることなど到底できないけれど、今、こうしてある平和な環境は、それしかしらない豊にとってもありがたいものに変わりはなく、そう思うとやはり「広島」に並ぶ「長崎」も、西日本ライブツァーのポイントからは外せなかった。
無計画で、行き当たりばったりの旅の中で、長崎には1週間、滞在することになる。
居心地がよかった…ただただ、それが理由だった。
商店街にいい場所を見つけて、そこで演奏を始めると、お客さんたちの反応がとてもよかった。
それで気をよくして、翌日も、同じ場所で演奏することにした。
3日目くらいになると、「常連」ができる。
彼は、ミュージシャンで、翌日、ライブがあると言った。
そんな話の流れから、一緒に出ないかとライブに誘ってもらった。
もちろん、喜んで出させてもらった。
彼女は、佐賀から長崎に来ている女子大生で、豊たちがテントで寝ていると話すと、「じゃぁ、うちに泊まったら?」という展開になり、彼女の友だちも呼んで、普通のワンルームマンションに何人もで雑魚寝したこともある。
歓楽街のホストクラブの前で歌ったこともあった。
夕方、閉まっている店の前で、演奏を始めたら、60代くらいのおじさんがやってきて
「わいらごたとば、おいはすかんばい。やぜか~!」
と、吐き捨てるように言われた。
正確な意味はわからなかったが、そのニュアンスから多分、「お前らみたいなやつは、嫌いだ」と言われているのだと、豊たちは理解して、とりあえず「すいません」と頭を下げた。
だが、方言というのは、どこか微笑ましい感じがある。
標準語で言われていたら、そんな風には反応できなかったかもしれないが、よくわからないことも手伝って、豊たちは「すいません」と言いながら、おじさんに向かって、歌を歌い続けた。
すると、おじさんは、千円札をだして、ギターケースに入れて行った。
最初に「嫌いだ」といった手前、笑顔は見せられないと思ったのか、黙ったままだったが、きっとそれは、「思ったよりいい連中だったかも」という気持ちの表現だったのだろう。
豊たち3人は、「嬉しいなぁ」と顔を見合わせて喜び、また歌い始めた。
と、その時、閉まっていると思っていた背後の店から、一目見てホストだとわかる派手なスーツの若者たちがゾロゾロ10数名、外に出てきた。
九州のホストは、元気がいい。
やばいんちゃうん…豊、ヨシヒロ、カズは、歌いながらお互い目くばせしたが、歌いだしてしまったので、途中で止められなかった。
恐る恐る歌いきると、なんとホストたちは拍手してくれたのだ。
どうやら、お店の開店時間になったので、お客さんを呼び込もうと出て来たら、店の前で知らない少年たちが歌っていた…という状況らしい。
拍手を聞いて、あれ、やってもええんちゃうん…と、豊たちはもう一曲、演奏を始めた。
ホストたちは、手拍子までして乗ってくれた。
え~!すごいやん!と思っているところに、曲が終わると、ホストたち全員が、それぞれの財布から5千円札、1万円札をギターケースに入れてくれたではないか!
これには、豊たちも本当に驚いた。
そら、ホスト、モテるわ…豊も、ホストが好きになった。
お店の邪魔をしているのがわかったので、豊たちはすぐに撤収した。
豊は、今でも、彼らの顔を覚えている。
街を歩けば、その場所もわかる。
機会があれば、そして、彼らがまだ営業をしていれば、会いたいものだと思う。
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