幸福な花嫁

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  彼は、きり子にできるだけきれいに死んで欲しいと思った。
 できれば、かつて目にしたことがある「世界でもっとも美しい死体」として知られる女性のように。
 眠るように静かに目を閉じ、手袋をはめた指を胸のあたりに休ませ、両石を踵のところで交差させた女性。一九四七年五月、アメリカのライフ誌に掲載された有名な写真だ。
 もっとも、摩天楼の頂上から飛び降りた彼女の肉体は、その下にあった黒塗りの車の屋根を押し潰し、その奇妙に捻れた車体は、めちゃくちゃになった彼女の人生そのものを表していたが。
 彼はきり子に、そのように死んで欲しかった。もとより、きり子がどのように死ぬかを決めるのは彼の仕事ではない。しかし彼はパートナーに、その最後の瞬間、そしてクライマックスにおいて美しくあって欲しかった。
 きり子は、ベッドの上に仰向けに倒れ、両手を天に向けて差し出し、そうして息絶えた。  
 彼女の魂と入れ違いに部屋に入った彼は、死体を見て嘆息し、傍らに置かれていた、彼女の手紙を取り上げて、声に出してそれを読んだ。

――愛する方へ。
 幸せには、ある種の旋律があるのだと、あなたが教えてくれたのは、いつのことでしたでしょうか。それは、春の光のように暖かく、風にそよぐレースのようにふんわりとして、聴く人の心を包み込んでくれるものだと。
 私はまだ幼過ぎて、あなたの言う事が半分もわかりませんでした。けれども、今になってみれば、その旋律は、片時も休むことなく、絶えず私の意識の底を流れていて、今も流れ続けているのだと確信できます。
 星の宴であなたと出逢ったときから、いや、それよりもずっと前に、あなたと私が、この地上での生命を越えた遥かな、非時間的な次元で宿命付けられたときから、ずっとそうだったのです。
 人は、過去という時間は、もう存在しないと言います。けれどもそれは正しくないことを、私は知っています。過去は、現在や未来と同じように、私たちの集合的な魂の物語の中に存在するのです。十年の時も、四十億年の時も、同じように。幸せの旋律は始源から鳴り続け、永遠に消えることはありません。
  愛しい方。お別れはひとつの幻想です。それは、私たちから幸せを奪うことはできないのです。私は、あなたとともに永遠に生きます。幸福の旋律に、耳を澄ましながら。

 彼は手紙を置き、空の彼方を見遣る。
 幸福の旋律――、まさに、そのメロディが、彼を取り巻いている。
 赤い砂漠を、三つの月が照らす。彼は、女の亡骸を抱く。甘い旋律が、やがて壮大な音楽となって空間を揺るがして響き、四方八方から眩い光が、抱き合った二人の若者の体を照らす。そして、すべては、青黒い闇の中へと消えていく。

  ◆◆◆◆◆◆
 
 ステージに明かりが戻り、空席の目立つ観客席から起こったパラパラという心細げな拍手に深々と頭を下げて応えたあと、再び暗転するのを待ち、「テムジン」こと玉垣秀雄は、他の役者たちと一緒に客を見送るために小屋の出入り口に向かった。きり子はベッドに倒れ込んだときに踝をテーブルにぶっつけたようで、歩く時、ああ痛っ、と言って舌打ちをした。
 冷え冷えとした空にひとつだけ月が浮かび、風は冷たかったが舞台で火照った体には心地よかった。
「二十五人か。まあ、悪い数やないな」
 悪の権化、スビドゥラ星人を演じたツーやんが隣でつぶやいた。
「半分は身内だけどね」
 テムジンが応じた。
 客は三々五々、芝居小屋を出てテムジンたちに会釈したあと、夜の街へ消えていく。
 三か月の稽古と二日間の本番を終えた楽日の最終公演。
 あとは打ち上げでひたすら飲むだけだ。
 そして、その後は、また数日間、途方もなく空虚な気分に包まれる。
 バイトをして、パチンコを打って、次の芝居の打ち合わせをして、バイトをして、パチンコを打って、そうして日々が過ぎ去っていくのだ。
 小劇場を活躍の場としているテムジンのようなアマチュア役者は多い。だが、彼と違って、多くが東京をねぐらとしている。そして、東京の役者とテムジンたち地方の役者の違いは、東京だと、万に一つ、あるいは百万に一つ、あるいは、米俵に火箸を突っ込んで、その中に一粒だけ入った黄金の米粒を射抜くぐらいの確率で、演劇を職業にできる可能性があるのに比べ、地方の役者には、そういった機会がゼロだということだ。
「商業演劇に出来んことを、好きなように演じてたらええんや」
 テムジンの先輩たちは、そんな風に言い、実際そんな風に生きている。そもそも、今回の芝居の配役名一覧を見ても、「テムジン」、「ツーやん」、「タンゴのきり子」、「ポイポイ」など、芸名の付け方からして、メジャーになろうなどとはハナから考えていないのがわかる。
 しかし、とテムジンは考える。
 それでいいのだろうか。こんな、糸の切れたタコのような人生で、本当にいいのだろうか。
「タマちゃあん」
 いきなり耳の傍で低く囁かれて、テムジンは反射的に飛び退いた。
 傍らに、いつの間に忍び寄ったのか、黒ずくめの格好をしてカウボーイハットを被った、背の高い男が立っていた。仏光寺山水という、初老の男だ。
「今回のお芝居も、とてもよかったわよ」
 テムジンは、「うス」と軽く頭を下げて謝意を表す素振りをした。いい齢をした男のオネエ言葉は、常に何か含みがあるようで苦手だ。
「で、公演の後お疲れでしょうけど、ちょっとした即興芝居、やってみない?」
「即興……、ですか?」
「そう。でも、ギャラが出るのよ。ほんのちょっとだけど」
 即興演劇と聞いて、テムジンは興味をそそられた。実験的なものは嫌いではない。
「何だか面白そうですね。じゃあ、山水さん。打ち上げで、じっくり聞かせてください」
「それがねえ」
 山水は密談をするかのように辺りを注意深く見回した。すぐ傍らに、スビドゥラ星人を演じたツーやんがいるが、彼は客と話し込んでいて、山水やテムジンにはまったく注意を払っていない。
「今すぐなのよ」
「今すぐ?」
 山水は、『先代萩』の奥女中が見得を切るようなポーズで顎を引き、二度頷いてみせた。この男は、たまに芝居の台本を書いたりもするが、演劇にどっぷり漬かっているわけでもなく、あちらこちらで何だかわからないような請負仕事をして回っているようだ。酔うと劇団の女優を片っ端から口説いたりするので、単にこういう喋り方をするだけのスケベ男なのかも知れない。
「今すぐは無理っすよ。だって、これから打ち上げですから」
 山水は顔をぐっと近づけ、これ以上ない程真剣な表情でテムジンを見据えた・
「人ひとりの生き死にがかかってるのよ。お願いだから、協力してちょうだい」
 山水の吐く息は屁のように臭かった。テムジンは時計を見た。これから反省会をやって、すぐに打ち上げだ。
「勘弁してくださいよ。ツーやんじゃ、だめなんですか?」
「だめ。だめだめだめだめ、だめ」
 オネエはピンと立てた人差し指を振り、それに合わせて首を横に振った。
「うまくいけば、十分か、十五分ぐらいで終わるわ。そしてギャラは」
 山水の掌がぱっと開く。
「五万円。十分で(ぱっ)五万円よ。一分(ぱっ)五千円。悪くないでしょ」
「まじすか?」
「まじす、まじす」 
 テムジンは再び時計を見た。十分で終わるなら、打ち上げにも十分間に合う。
「どういうプロジェクトなんです? 教えてもらえませんか」
「いいわよ、タマちゃん」
 山水は黄色い歯を見せて笑うと、テムジンの肩に腕を回し、<ある男がベッドに横たわっていて、死神が彼の上に覆いかぶさっている>という、謎々のような言葉を耳元に囁いた。
 ある男がベッドに横たわっていて、死神が彼の上に覆いかぶさっているの。
 石原八郎って名前。浅草かどっかの、売れない役者みたいでしょ。まだ七十そこそこなんだけど、心臓病で、もう、いつ逝ってもおかしくない状態ってわけ。
 で、この八郎さんには、一人娘がいてね。あずみちゃん、ていう子。大学で美学やってて、ドクターまで行ったけど、ホント、運のない子なのねえ、滋賀県の小さな美術館でキュレーターに採用されたのも束の間、予算不足で閉鎖されちゃって、今は本屋さんでバイトしてるわ。もう三十七、八になるんじゃないかしら。
 八郎さんにとって、あずみちゃんが唯一の心残りなのね。だって、アラフォーで、結婚もせず、定職にも就かずだからねえ。
 そこで、あずみちゃんは、せめて父親が亡くなる前に、自分が立派な男と婚約しているってところを見せて安心させてやりたいわけよ。
 とはいっても、実際には婚約なんてしていないわ。だから、ここは一つ、演技力があって、そこそこイケメンで、頼り甲斐のありそうな人物に一芝居打ってもらってさあ、この死にゆく八郎さんを大往生させてあげようって、そういう話なの。ね、ツーやんじゃあ、務まらないって、おわかりでしょ。花婿があんなカメみたいな顔じゃあ、八郎さん成仏できないわ。

「それって、詐欺になったりしませんか?」
 山水は、詐欺どころか、これ以上ない人助けだと力説した。うまくいけば、遺族に感謝されるだけじゃなくて、テレビの仰天ニュースに取り上げられるかも知れないとも言った。
「テレビなんて、出なくていいですけど。でも、人を騙すんでしょう」
 山水はため息を吐き、嘘も方便とは、こういうときにこそ使う言葉だとオネエ言葉を荒げた。
「四の五の言ってるうちに、八郎さん死んじゃうわよ。間に合わなくってもいいの? 死にゆく老人を落胆させて、あずみちゃんがこれから先の人生を、スティグマを抱えて生きていくことになってもいいの? あなたそれでも男? あなたそれでも役者? いや、役者である前に、あなた人間? ゴドーがどうとか、訳の分からない芝居ばっかり年中演ってて、世の中の役に立ってんのかしら。一度くらい、人の役に立つ芝居をしないさいよ。もしあなたが人間ならば、するかしないか選ぶ自由はないわ。来るのよ。この芝居をお演り!」
 何にせよ、断言する人間は強い、とテムジンは思った。それが宗教であれ政治であれ、断言ほど人を動かすものはない。芸術は、常にアンビバレントなものの上に成り立っている。そこには命令も断言もなく、果てしないクエスチョン・マークの連続があるだけだ。
「何をごちゃごちゃ考えているの。さあ、行くわよ」
 山水はテムジンの手首を掴み、いやがる驢馬を市場に曳いていくように、歩きだした。

 石原あずみは、病院の休憩室で待っていた。
 丸顔で色は白く、黒髪をおかっぱのように散切りにして、黒縁のメガネをかけていた。山水がテムジンを紹介すると、深々と頭を下げ、よろしくお願いいたします、と小さな声で言った。
 テムジンたちは、あずみに先導されて、ひと気のない病院の廊下を歩いた。古ぼけた、幽霊の出そうな個人経営の病院だった。廊下の突き当りの病室の扉が半分開いていて、明かりの下に何人かの人影が見えた。
 病室の中央には、いくつもの管でつながれて横たわる、痩せた男の姿があった。髭は伸び放題で、薄くなった頭髪は乱れている。目を閉じて、酸素吸入器の下で辛うじて息をしていた。周りにいるのは親族だろう。テムジンたちが入室すると、みな控えめに、というか、どこか気まずそうに目礼を投げて来た。山水は、いつの間にか姿をくらましている。
「お父さん」
 死にゆく男の耳元で娘が囁いた。
「お父さん、わかる? あずみです」
 男が目を開く。瞳は半分ボイルされた魚のそれのように、灰色に濁っている。
「あ、あずみ」
 親族たちの間からすすり泣きの声が漏れた。
「お父さん。会ってほしい人がいるの。この人」
 石原あずみは、黒メガネの下の二重まぶたの大きな目をテムジンに向けた。
「その……。シンイチさんよ。私たち、結婚しようと思って、お父さんの承諾を貰いにきたの」
 何で「シンイチ」なんだ、と思いながら、テムジンは、今、自分が、このベタなシチュエーションのもとで芝居をしなければならないということを思い出して息を飲んだ。
「結婚? あずみ……、け、結婚、す、するんか?」
 瀕死の男は、うつろな目をテムジンに向けた。
「玉……、玉木シンイチです。はじめまして」
 あずみの父、石原八郎は、無表情のままテムジンを見据えた。品定めをしているのだろうか。やがて、老人はベッドから体を起こし、酸素吸入器をむしり取ると、顔をテムジンの方に近づけようと動かした。傍らにいた看護師や親族たちが、あわてて八郎を支える。
「あ、あんたさん、あ・ず・みを、貰うて、く・れ・ますのンか?」
「お父さん……、と、お呼びしても、よろしいですか?」
 テムジンは、八郎老人のほうに屈みこんだ。老人はテムジンとあずみを見比べ、点滴のチューブの入った腕を動かして、細い節くれだった人差し指をテムジンに向けた。
「え、え・か、え・か、えか…」
「絵描きとは違うんよ、今度は」
 あずみが諭すように父に向かって囁いた。
「シンイチさんはねえ、IT企業の社長さんなんよ。すごいお金持ちで、六本木ヒルズに住んではるの。堀江さんとも、自治会でしょっちゅう会うてるんよ」
「だ…、誰・や・て」 
「お父さん!」
 テムジンが父娘の会話に割って入った。
「僕は、ぜったい、かずみさんを…」
「あずみです」
「あずみさんを…、何があっても幸せにします。きっと、世界で最も幸せな花嫁にしてみせます」
 石原八郎は、死にかけとは思えないぐらいの力強さで、いきなりベッドに半身を起こし、テムジンの手を両手で掴んだ。点滴のチューブが外れて、液体が飛び散った。
「あ、あ・ず・みを嫁がせるんやったら、あんたみたいな、人が、ええなと、いっつも、思ってましてん。絵描きは、あかん。役者は、もっとあかん。あんたさんみたいな、ま・と・も・な仕事をしてはる人に見初められて、この娘は、きっと、幸せになれます。イチローさん」
「シンイチです」
「もったいない、もったいない……。こんなごみ溜めの、カスみたいな家の娘を、嫁にしてくれるやなんて」
「やめて下さい。もったいないのは、こっちのほうです。きっと幸せにします。結婚式は、ホテル・オークラの、一番高い会場で挙げようと思っています」

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