幸福な花嫁

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「の、の・り、の・り…」 
「そう、ノリカが挙げた大ホールです。あの後、すぐ別れましたが」
「い、いつでっか? け・結婚式は、い・つ……」
「来月の二〇日です」
 我ながら、よくこんな出まかせを言えるなと思いつつ、テムジンは、デタラメな話を次から次へと展開した。
「新婚旅行は、ハワイで一番のホテルに泊まります。そして、新居は、今度新しく建つ、六本木ヒルズよりも大きい、八本木ヒルズの最上階を予約しています。ねえ、お父さん。どうか元気になって、僕たちの結婚式に出席してくださいね」
 親族の間から、再び嗚咽が漏れた。
「じゅうぶん、ですわ……」
 八郎はテムジンの手の甲をカサカサの手でさすって言う。
「もう、これで、なんにも、思い残すこと……、おまへん。ワシの人生……、辛いことばっかりで……、ええことなかった。そやけど……、最後の最後に娘が幸せになってくれた。これで……、死ねます。安心して……、あの世に行けますわ。おおきに、おおきに……」
 テムジンは老人の手を強く握り返しながら、壁の時計に素早く目を遣ったあとで、老人の耳元に囁いた。
「お父さん。僕は、物心ついた頃から、親がいませんでした。ですから、やっとお父さんと呼べる人が現れて、これから親孝行がしたいんです。何か食べたいものはありませんか? どこか、行きたいところはありませんか? 有馬温泉に行きましょう。神戸肉のステーキも食べましょう。幸せに、幸せに、暮らしましょうね。約束です、約束ですよ!」
 テムジンの目から大粒の涙が、ベッドにこぼれた。
 医師が呼ばれ、全員が固唾を飲んで見守る中、老人は幸福そうに目を閉じた。時計の秒針が、静まり返った部屋の中で時を刻んでいく。あとは、医師の最後の一言で締めくくられるという、芝居によくある展開だった。しかし、これは現実だ。テムジンは、これまで舞台以外で人の死に立ち合うという経験をしたことがなかった。さっきまで話をしていた、この老人の中から、何かが失われるというのか。死は、厳かなものだ。
 十分が経過した。老人の呼吸は不規則だったが、まだ続いている。
 医師は、少し様子を見ましょうといい、親族たちは休憩室へと去った。あずみとテムジンだけが、老人のそばに付き添っていた。二人とも無言で、顔を合わせることもなかった。
 入室してから一時間程経ったとき、ようやく、あずみがテムジンに目配せし、二人は部屋を出た。
「ありがとうございました。もう、大丈夫です」
 メガネの下の目を伏せたまま、あずみは言って、ハンドバッグから封筒を取り出した。テムジンは、どうも、とだけ呟いて封筒を受け取り、気恥ずかしく、後ろめたい思いを抱えたまま病院を出た。
 その夜、彼は打ち上げで、つとめて陽気に振る舞い、きり子を相手にどうでもいいことを延々としゃべり続けて、意識がなくなるまで飲んだ。

  ◆◆◆◆◆◆

 一週間後、夜勤のバイトが終わり、間借りしている木造の古い民家の一階で熊のように眠ったあと、起き抜けのコーヒーを飲んでいるところに電話が鳴った。
「タマちゃん。今、いいかしら」
 目覚めてすぐに聞きたい種類の声ではない。
「あの芝居さあ、続編があるのよ」
「何の芝居っすか?」
「石原八郎さんよ」
 テムジンは少し考えて、ようやく臨終の老人を思い出した。
「まだ生きてんのよ」
「まじすか?」
「あれからどういうわけか元気になっちゃって、ピンピンしてんのよ」
「それは……、よかったですね」
「そうかしら。あのまま逝ってくれてれば、あずみちゃんも今頃、自由に暮らせたのにねえ」
「彼女は?」
「お父さんの看病に付きっきりよ。退院して自宅療養になっちゃったから。おかげで、仕事もできないって、嘆いてるわ」
「それで、続編っていうのは?」
「あなた、婚約者でしょ。親孝行するって、約束したんでしょ」
「じょ、冗談言っちゃ……」
「神戸肉のステーキが食べたいんだって」
 テムジンの脳裏に、ピンク色をした霜降り肉の断面の映像が浮かんだ。
「六時に、『煉瓦館』に予約を入れてあるわ」
「ちょっと待って下さい。勘定は誰が払うんですか?」
「そりゃあ、タマちゃん、あなたよ。お金持ちの社長さんなんでしょ……、と言いたいところだけど、大丈夫。先方が、ちゃんと払ってくれるわ。あんたは、ただ婚約者の芝居をしながら、ご馳走になればいいのよ。悪くないでしょ」
 たしかに悪くない。と、いうか、条件としては最高だ。この一週間、松屋のカレーしか口にしていない。先方というのは、親戚一同ということだろうか」
「それからさあ、ハイヤーを借り切って、迎えに行ってあげなさいよ。服装も、それらしくしてね」
 それは困る、とテムジンは抗議の声を上げた。綻びのない服も、穴の空いていない靴も、この家にはない。いくらIT企業の社長がカジュアルな服装をしているといっても、さすがにこんな古着屋のキズ物みたいな服ばかりだとアウトだろう。
 そんな彼の困惑をよそに、山水は電話を切り、静寂に閉ざされた部屋の中でテムジンは時計を見た。もう午後四時を過ぎている。タクシー会社に電話をすると、ハイヤーは事前予約が必要とのことだったので、とりあえず普通のタクシーを使うことにした。料金は先方に払ってもらおう。それからテムジンは、劇場に衣装を借りるために出かけた。
 
  ◆◆◆◆◆◆
 
 石原八郎の住居は、国道四十三号線の南、海のすぐ間際にある震災復興住宅だった。
 公道でタクシーを待たせて、八郎の住む棟の九階へエレベータで上がった。ドアのブザーを鳴らすと、あずみが戸口に現れた。少し化粧をしていて、明るいブルーの服に、ネックレスを付けていた。やはり目は伏せがちで、テムジンの顔をまっすぐに見ようとしない。
 家の奥から、外出用のコートを着込んだ石原八郎が、廊下の手すりにつかまりながら、笑顔でゆっくりと歩いて来た。
「お婿さん、ご苦労さんです。忙しいのに、えら、すンまへんなあ」
 老人の回復ぶりは驚くべきものだった。髭も剃り、髪もきちんと撫でつけているため、一旦は死の淵まで行った人間とは思えないぐらい元気そうだった。
 タクシーの中でも老人はよくしゃべり、あずみが生まれてから、成長していった過程を事細かく描写し、時折あずみが恥ずかしがって止めさせようとしたが、聞かなかった。
 
 「煉瓦館」は、創業70年の老舗で、元町駅から南へ下がったところの、アジア的混沌とも言うべき雑居ビルの五階に店を構えていた。
 テムジンたちが着くと、街を見下ろす窓際の席に通され、ウエイターが肉の部位と焼き加減についてオーダーを聞きにやってきた。テムジンは、牛と魚の違いぐらいは判ったが、牛肉の部位となるとさっぱりだった。
「この店で一番人気のあるものを」
 鷹揚に構えて、彼はメニューを開きもせずにウエイターに渡した。あずみも、黙って頷いた。
「ちょっと待ってや」
 八郎老人は、ウエイターの手からメニューをひったくり、指の先を唾で濡らしてページを開き
「イチボ肉二〇〇グラム、ミデアムレアで。それから、ワサビ菜とルッコラのサラダ、トリュフ添え。
ほんで、ワインはやねえ」
 老人の手がワインリストをめくる。テムジンとあずみは、怯えたような表情でその様子を見つめた。
「ああ、これしょ。ええと、ボルドー、グラン・クリュ、シャトー……」
「お父さん、お酒は駄目でしょ」
 あずみがワインリストを父の手から取り上げようとするが、父は抵抗した。テムジンが、そっと娘を制して、「好きな物を飲ませてあげれば」と口添えした。
 一瞬、あずみが、今までに見せたことのないような形相でテムジンを睨み付けた。
 料理が運ばれてくると、八郎は旺盛な食欲を見せた。テムジンも、これほど旨い食べ物は今まで口に入れたことがなかったので、二〇〇グラムの肉を、ほぼ一瞬で平らげてしまった。あずみだけが、ゆっくりと、一口ずつ味わいながら悲しい顔で食べていた。ワインが男たちを饒舌にした。八郎はテムジンの背中を愉快そうにぽんぽん叩いて、さいしょは「婿はん、婿はん」、次に、「婿よ、婿よ」と呼び、さらには「おい倅」と話しかけ、テムジンも赤い顔をして、「お父さん、お父さん」と応えていた。
 食事が済み、タクシーに乗り込むと、八郎は急に結婚式場が見たいと言い出した。
「車の中から見えるわ」
 あずみは、まだ暗い表情をしていた。
「いや、違うねん。中に入って見たいと、こない言うとうねん。なあ、婿はん、あんた、相当金払うたンやろ。中ぐらい、見せてもろてもホテルは文句言わんのとちゃうか。減るもんやなし」
 テムジンは、一旦お茶でも飲んで酔いを覚ましましょうと、タクシーを道路沿いの喫茶店の前に着けて二人を下ろし、席に着かせておいて、山水に電話をかけた。なかなかつながらなかったが、やっと電話口に出た山水に、事のいきさつを説明すると、山水は、一時間程度時間をかせぐことができたら、誰かを支配人に仕立て上げて、ホテルのロビーで待たせる手筈を取ると約束してくれた。
 喫茶店で談笑したあと、待たせておいたタクシーに乗り込み、三人はホテルへ向かった。
 ロビーに入ると、鼈甲のメガネをかけて口髭を生やした、森繁久彌のような人物が、立派な黒服を着てにこやかに彼らを出迎えた。テムジンは、それがツーやんであることに、しばらく時間が経ってから気付いた。
「これはこれは、社長、もう少し早くお知らせいただければ、えー、ご休憩できる部屋をご用意いたしましたのに」
「いいんだよ、支配人。こちら、僕のフィアンセのお父さん。式場を下見したいんだって」
 ツーやんは一行を先導し、堂々たる歩きぶりでロビーを横切り、すれ違ったコンシェルジェの女性に何かすばやく耳打ちするような小ネタまで披露しつつ、エレベータに乗り込み、屋上に上がった。
 チャペル、宴会場、日本庭園と、ツアーは、かなり時間がかかったが、八郎は疲れた様子も見せず、偽支配人の嘘八百の説明に、いちいち頷いていた。
 一通りホテルを見終わったあと、テムジンたちはツーやんに礼を言って再びタクシーに乗り込み、八郎の住む公団住宅に着いたときには、もう夜の十時を回っていた。
 きょうの勘定は、すべてあずみがこっそりカードで払っていたのを、テムジンは知っていた。団地の方へ八郎の手を取って歩かせながら、テムジンは、タクシーのルーム・ライトの下で、あずみがクレジット・カードを出すのをちらっと見た。本当に、親戚一同で分け合って払うのだろうかと、しなくてもいい心配をついしてしまう。
 自宅に着くと、さすがに老人も疲れたように腰を屈めて玄関の手すりにつかまっていたが、それでもテムジンの手を握って、「おおきに、おおきに」と何度も礼を言った。父を奥の間に連れて行ったあと、あずみが戻ってきて、目を伏せながらテムジンに封筒を渡し、お礼もそこそこに戸を閉めた。
 前と同じぐらいの厚みがあった。階段の踊り場に隠れて、素早く封筒を開けると、中には千円札が五枚入っているだけだった。前と比べると十分の一だ。しかし、滅多に味わえない神戸ステーキをお腹一杯食べて、ワインまで飲ましてもらったことを思うと、少ないとは言えなかった。
 ふと、彼は自分の両親のことを思い出した。弁護士になりたいと言った彼の希望を叶えるために教育を授けてくれた両親の期待を裏切って、アングラ役者などという外道の人生を歩んでいる自分は、何たる親不孝者だろうと考えると、なぜか赤面した。こんな暮らしにケリをつけて、ITの勉強でもするべきだろうか。
 そう思いながらも、足は無意識に酒場のほうに向いていた。

  ◆◆◆◆◆◆

 さらに一週間ほどたったとき、山水からラインが入った。
「八郎さんが、また何かしたいことがあるみたいよ。付き合ってあげてね」
 そして
「今後は、あずみちゃんと、直接やりとりして頂戴。半月ほどパリに行くから、よろしく・ネ 山水」
 しばらくすると、あずみからメールが来た。初めてだった。
「今週の週末に有馬温泉に行くことにしました。玉垣さんのご予定はいかがでしょうか?」
 テムジンは、スケジュールを見て、バイトが入っていないことを確認したあと、「了解です」と返事をした。すると、その後、続けてメールが入った。
「車、あります? 父は、お婿さんの運転する高級車で有馬に行きたいと言っています。正直、殺してやろうかと思います」
 テムジンは、八郎がワインを注文するのを彼が許したときの、あずみの、あの恐ろしい形相を思い出した。
「車か……」
 スマホで、「高級車レンタカー」と検索してみた。安いものならキャンペーン料金で、二四時間二万円弱で借りられることがわかったが、問題は運転免許だった。テムジンは免許を持っていない。運転免許を持たないIT企業の社長なんているのだろうか。
 けっきょく、またもや、ツーやんの手助けに頼ることにした。

「あのなあ、この間、お前ら帰ってから、俺、ホテルの警備員に捕まったんやぞ。挙動不審やちゅうて。そりゃそうやろ、黒服来て、胸に「支配人」ってバッジ付けてるねんから。『どこの支配人やねん』と思うわな。『三宮のキャバクラの支配人じゃ』、って言うてやったけどな」
「頼むよ、ツーやん」
 ツーやんは十歳ほど年上だが、テムジンはいつの頃からかタメ口で話している。
「太閤の湯の入湯券あげるからさあ。親孝行のお手伝いじゃん。人助けだってば、人助け」
「助けてほしいのは、こっちじゃ」

  ◆◆◆◆◆◆

 愚痴りながらも、当日ツーやんは、それらしい帽子を被り、手に白い手袋までして、黒澤の『天国と地獄』に出て来た忠実な運転手に成りきり、借りて来たレクサスで山道を運転してくれた。
 八郎は、ますます元気で、車中でもうすでに缶ビールを口飲みしていた。
「遠足みたいでんな」
 あずみがメガネの奥で暗い目をしているのを、彼は視界の端に感じていた。
 着いたのは高級旅館だった。廊下はヒノキの匂いがし、歩けば絨毯に足音が吸い込まれて行くようだ。壁一面の窓からは、紅葉した木々の間をせせらぎが流れるのが見えた。
 上品な着物を着た仲居さんに案内されて入った部屋は眺望もよく、部屋代は間違いなく高額だと思われた。

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