アメリカ渡航直後 ~9.11も何となく遠い国の話~

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アメリカに行ったのは73日で、独立記念日の1日前でした。DE ANZA COLLEGEはコミュニティカレッジなので寮はなく、自分で住むところを探さないといけません。取り急ぎは、短大が紹介してくれたホームスティサービスを利用することにしました。ホームスティというと、家族がいるイメージですが私の場合はそんなことはなく、ビクトリアさんという50代の女性で高校の先生を行っている人と2人暮らしをすることになりました。頑張って電話をして、つたない英語で空港での待ち合わせの連絡をしたのを覚えています。

 

関空をから、サンフランシスコ空港までの飛行機に乗りました。高校を出て1年を過ぎ、やっと新たなスタートという気分でした。アメリカに行くのは実はこの当時2回目で、半年前に姉とアメリカのロサンゼルスに行っていたので、ある程度慣れていました。特に大きなトラブルもなくサンフランシスコにつくと、ビクトリアさんが待っていました。最初に訊かれたのが「トイレ大丈夫?」だったのが何故か今でも覚えています。ビクトリアさんは恐らくホームスティ先でいうと「当たり」だったと思います。後にサンフランシスコ観光にも連れて行ってくれましたし、アメリカ人にしては英語がまだつたない私に気を使ってくれました。(英語ができない人に、ゆっくり話そうというようなアメリカ人は少ない)その当時メジャー一年目のイチローの記事も取っておいてくれました。

 

授業の開始は9月終わりだったので、それまでは色々と授業開始の準備をしていました。学校まではバスで行くことになっていましたが、そのルートやバスパス(定期券)の買い方などはビクトリアさんが見つけてくれていました。今の時代のように、インターネットもなかったので色々調べるのに苦労しました。ネットに関しては、学校にあるパソコンセンターのようなところを利用したり、図書館にノートパソコンを持ち込んで利用したりしました。

 

8月に留学生向けのオリエンテーションがあり、それに行きました。その時いた留学生の数は大体50名ほどでしょうか。ほとんどはアジア人で香港人が少し多かったような気がします。日本人もちらほらいました。席に座ったときに何かを紙に書かないといけなかったのですが、なぜか私のペンが誰かに使われていて、隣の人にペンを借りました。それがのちに友達になる香港人のジェイソンでした。なぜか三国志で一番好きなキャラは誰という話をしたことだけは覚えています。靴工場の会社の息子で将来社長になりたいと言っていたのに、20年たった今、社長になったのは私というのは皮肉な結果です。(当時、社長になりたいなんてちっとも思ってなかった)

 

驚いたのは他の留学生の英語力の高さでした。少なくともスピーキングに関してはわたしよりも断然上のように感じました。ネイティブと変わらないんじゃないかと思う人もいましたし、自分が劣等生のように感じました。後に「こんなにいい成績で卒業した留学生はいない」と留学センターの人に言われた私ですが、正直最初はこんなもんでした。

 

ジェイソンのホームスティ先はあまりよくなかったらしく、すぐ引っ越すことになりました。新しい住処は短大のとなりでした。そこは台湾人の人が家を借りていて、そこに中国系の留学生がハウスシェアをしていました。引っ越しに伴ってパーティも開いてくれました。

 

そんな平和な時間を過ごしていたのですが、2011911日にあの事件が起こりました。アメリカ同時多発テロ事件です。ニューヨークでの出来事でしたが、テロがあった日の午後に臨時休業する店も結構ありました。よくよく考えるとアメリカ本土があの規模で攻撃されることは今までなかったので、騒然となって当たり前だと思いますが、私は正直なんか他人ごとのように感じていましたが、ビクトリアさんはやはり大騒ぎしていました。

 

さて、そんなのほほんとした夏も終わり、ついに波乱な一学期が始まることになります。

 

 

 

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