看取りのプロが伝える 「生きる」とは?  ~私に最も「生きる」を教えてくれた末期癌の女子高生の話~前編

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 人は、病気になった時に初めて「自分の人生を生きること」と真剣に向き合うのかもしれない。

 このお話しは、千人近くの患者さんを看取り、千人近くの患者さんから直接「生きること」を教わった看護師が、最も「生きること」を教えられた末期癌の女子高生との関わりを綴った物語である。


 

「自分の人生」「自分を生きること」

に優しく寄り添いながら、この物語を読んでもらえたら嬉しい。

 

プロローグ

私が癌看護に携わって20年以上が経過した。新卒で勤務した大学病院では、癌治療、緩和ケア、看取りに明け暮れた12年間だった。23歳時には母が胃癌を患い、患者家族にもなった。「家で最期を迎えたい」と望む母の願いを叶えるべく奔走した1年半に及ぶ闘病生活の経験から「住み慣れた我が家で最期を迎えたい」と望む人の助けになるという夢が出来、訪問診療に携わった。


そして最後の6年半は、末期癌専門の訪問看護師として自宅に訪問し、「住み慣れた我が家で最期を迎えたいと望む方」へのケアを提供し、自分自身の夢を実現した。


癌患者さんの残された人生を輝けるものにすること、夢を叶えること、家族が一つになることを大切にしながら、多くの患者さんの「人生を生ききること」と向き合ってきた。

 

今まで出会った癌患者さんは数千人。看取ってきた患者さんは千人近くにのぼる。


沢山の患者さんを看取ってきた中で、最も印象深く、最も私に影響を与えた患者さんがいる。もう20年近く前のこと、私が26歳の時に出会った末期癌の女子高生、美咲ちゃん(仮名)

私は当時、「役に立ちたい思い」が先行し、やる気が空回りしては気負いすぎていた。毎日悩み、涙を流し苦しんだ。そんな時、当時の看護師長に言われた言葉がある。


「美咲ちゃんが自分の生まれた意味自分の人生について考える必要がある。美咲ちゃんの生きる意味とは?」 


大きくて深い問いだった。

 

まだ26歳の私自身が自分の生まれた意味、自分の人生について模索していた頃。自分自身もわからないのに、残された短い時間の中で、美咲ちゃんが考えられるようサポートすることが出来るのだろうかと思いながらも、ひたすらに向き合った日々。


出会いから約1年後、美咲ちゃんは旅立った。それでも尚、私は看護師長からの問いに答えを出すことが出来なかった。だけど、ずっと心の奥に引っかかっていた。20年近く経過した今でも。


あれから私も成長し、沢山の患者さんの人生の最期をサポートしてきた。そんな今だからこそ、美咲ちゃんの生きる意味とは何だったのかを紐解いてみることにした。

 

 看護師5年目になりたての5月。4月に異動したばかりの私は、業務に慣れずに毎日がアップアップだった。


 勤めていた大学病院の病棟に、高校2年生の可愛い女の子が入院してきた。患者層は60代以上が大多数の病棟に、高校生が入院してきたので看護師も先生たちも緊張した。


 色白でとっても可愛い美咲ちゃんは、性格も素直で明るい女の子だったのだけど、腫瘍がいつ破裂してもおかしくない危険な状態だった。だから、全身の検査と手術が急がれた。


 私は、ひょんな流れから途中から担当看護師になったのだけど、まだ若い美咲ちゃんの人生が良いものになるように関われるのだろうか?と大きな不安とプレッシャーに襲われながらも、「やるしかない!!」と腹を括った。

 

美咲ちゃん「大丈夫です。ありがとう。」


苦痛を伴う検査や術後の痛みで辛くても、弱音一つ吐かずに笑顔で話す美咲ちゃん。


病棟スタッフは美咲ちゃんのファンになった反面、こんなに素敵な子が末期癌になるなんてと心を痛めていた。

 

美咲ちゃんの夢

 そんな美咲ちゃんは、入院生活を経験したのもあって

 

美咲ちゃん「将来は、看護師さんか、病院関係の仕事に就きたいな

 と言っていた。

しかし、美咲ちゃんの病状は芳しくなく、手術をして破裂しそうだった腫瘍は取り除けたものの、肝転移と腹膜播種(お腹の中に癌細胞が散らばっている状態)もあって、長く生きることは難しい状態だった。

 美咲ちゃんには癌告知がされておらず、相変わらず笑顔で前向きに入院生活を送っていた。

 

看護師になる夢を実現させたい!!

 看護師になるには高校卒業後、看護学校に行って国家試験を受けてと何年もかかる。しかし、美咲ちゃんにそんな時間は残されてはいなかった。


だけど、看護師になりたい美咲ちゃんの夢を実現させたい!!


 私はどうやったら看護師の資格を得ずにして看護師になれるか毎日考え続けた。

 

資格がなくても看護師は出来る

「美咲ちゃん。将来看護師になるなら今から練習しない?血圧を測る練習しよう 」

美咲ちゃん「いいねやってみたい

 

 その当時の血圧計と言えば、電子血圧計ではなくて水銀を使った手動のものだった。看護学校に入ったら、最初に練習するのが血圧測定だった。


 美咲ちゃんは、恐る恐るながらも聴診器を使って、上手に血圧を測ることが出来るようになった。


看護師に一歩前進!! やった!!!

 

看護師になるには外見から

「ねえ美咲ちゃん、今度さあ、お母さんにサプライズしない?」

美咲ちゃん「え~?何~?」

 

「あのさ、夕方お母さんが面会に来た時にさ、白衣を来た美咲ちゃんがナースステーションにいたら、びっくりすると思わない?」

美咲ちゃん「お、いいねー やってみたい

 

私は、美咲ちゃんが勘繰らないかドキドキしながらサプライズの提案をした。「それって、私は看護師になるまで生きてないってこと?」なんて思われたら大変。だけど、勘繰っている様子は全くなかったのでホッとした。

 

お母さんは仕事が終わってから面会に来るので、だいたい来る時間が決まっている。

 

ある日の夕方、白衣とナースキャップと作業用エプロンをつけて、聴診器を首からぶら下げて完全に看護師さんになった美咲ちゃん。

 

ナースステーション内で作業をする他の看護師さんに違和感なく混じっていた。

 

お母さんがやってきて、ナースステーションにいる白衣を着た美咲ちゃんの姿を発見した。あの時の驚きっぷりったら、今でも思い出すだけで鳥肌がたつ。

 

廊下にしばし立ちすくむお母さん。そして、その姿を見て楽しそうに笑う美咲ちゃん。

 

白衣の美咲ちゃんを見たお母さんは泣いてしまい、周りにいたスタッフも貰い泣き。涙と笑いでナースステーションは花が咲いたような雰囲気になった。

 

そして最後に美咲ちゃんとお母さんとのツーショット写真を撮ってサプライズ終了。

 

お母さんへのサプライズという名目で、本当は美咲ちゃんへのサプライズだったということは内緒のお話し。

 

そして、まだ作戦は続く。

 

看護師体験

私が勤めていた病院では「高校生看護師1日体験」を毎年夏に開催していて、地域の高校生が看護体験をするイベントを行っていた。

 

美咲ちゃんに「そのイベントに参加してみては?」と誘ってみた。美咲ちゃんは退院後、イベントに参加して白衣の姿でシーツ交換や寝衣交換、身体拭きなど実際の看護の仕事を体験した。

 

それはそれは可愛い看護師さんだったに違いない。

 

本当に看護師になった美咲ちゃん

  後日、お母さんから聞いた話。

 

美咲ちゃんが自宅療養中、遠くに住んでいるおばあちゃんの具合が悪くなってお見舞いに行った。その時に、看護師体験で習った身体拭きや寝衣交換を実際におばあちゃんに行ったそうで、大好きなおばあちゃんが、とても喜んでくれた。

 

実際におばあちゃんの役に立てて、美咲ちゃん自身も喜んでいたのだそう。そして、ご家族も大変助かったという話を聞いた。

美咲ちゃんは格好だけでなく、本当の看護師になって活躍していた。

そう。

美咲ちゃんの夢はちゃんと実現したのだった

 

治療するのか、しないのか?

手術が終わり、美咲ちゃんが看護師になる為に私が画策していた間にも、今後の方針を決めなければならなかった。要するに、抗がん剤治療をするのか、しないのか。


この当時はまだ、みんなに告知する時代ではなく美咲ちゃん自身に癌告知はされていなかった。まずは、ご両親との相談が始まった。

 

医師「腹膜播種では抗がん剤が効いたという話は出てこなかったが、やってみないとわからない所はある。やらなければならない、という状況ではない。予後はわからないが、来年の夏は難しい。何ヶ月はあるが、何年はないだろう。半年かもしれない。どうするかは我々も悩んでいる。」

母親「先生が親だったら、どうしますか?」

医師「自分が親だったら・・・・・。子供に治療はしないと思う・・・・・。2人でよく話し合うことが大切です。本人にとって何が一番いいかです。」

 

治療をする=入院する ということ。


治療のたびに学校を休むことになる。副作用でどれだけ日常生活に支障を来すかわからない。だけど、命を伸ばすことが出来るかもしれない。

 

 治療をしない=美咲ちゃんが待ち望んでいた学校生活を送ることが出来る。だけど、命は治療をするより短くなるかもしれない。


 どちらにしても、残された時間が短いことは確実で、どちらが美咲ちゃんにとって良いのか。それは、本人と家族が決めることだけれど、後悔なく決断できるよう医師も看護師もスタッフ全員が本当に真剣に悩み、考えた。


 どちらの決断をするにしても、今のこの時間を大切に生きて欲しかった私は、お母さんに伝えた。

 

「今が何も症状が出ておらず元気な時なので、この時間を大切にして欲しいです。」

母親「だけど、何をやったらいいのか・・・・・。」

 

「何もしなくてもいいし、普段どおりの生活でもいいと思います。 美咲ちゃんにとって、ご両親にとって良いことを考えていきましょう。」

 

当時の記録物に、私の気持ちが書かれていた。

『私が今日の話し合いに入ったことで、両親にとって何か良かったことがあるのだろうか?ただ、自分が状況を知りたい、両親の反応を見たいというだけで、自己満足で終わったのではないだろうか?』


担当看護師である私に頼って欲しいという気持ちが強かった。気負いすぎだと今はわかる。面談に寄り添い参加したこと、言葉をかけたことだけで十分役に立てていると今なら言えるのだけど、この頃は何かをしたくて仕方がなかった。若かったな、私(笑)。


そんな気負いすぎで空回りする私のフォローの為に、看護師長が定期的に私との面談をしてくれていた。

 

看護師長「美咲ちゃんが自分の生まれた意味自分の人生について考える必要がある。 美咲ちゃんの生きる意味とは?」

 

深くて難しい問いだった。私は20代前半のころ、自分の存在価値を見出すことができず、生きることが嫌になった時期があった。この時も、自分はどうしてこの世にいるのか、何の為に生きているのかわからないままだった。


私は、美咲ちゃんとの関わりを通して、その問いに向き合ってみようと思った。

 

高校生活を思いきり楽しむ

美咲ちゃんは順調に術後の回復を見せ、退院した。抗がん剤治療については、今は体力回復と学校を楽しむことを大事にして、外来で相談していくことになった。

何よりも、美咲ちゃんが高校3年間で最も楽しみにしていた期間に入るのだ。


高校2年生の夏 

 

ダンス部に入っている美咲ちゃんは、最終学年として夏の合宿、文化祭でのダンス発表を迎え、修学旅行もあり、一生の思い出となるイベントが目白押しだった。

 

「高校生活を全力で楽しんでもらいたい」


 というのがご両親も、医師も看護師も一致していたので全面的に応援した。そして、辛い症状が出ることなく夏合宿に参加することも出来た。


秋の文化祭には、美咲ちゃんが出演するダンス部の発表を外来の担当看護師と一緒に見に行った。 


さすがに全曲は踊れなかったけれど、他の部員と同じくらい華麗なダンスを披露している姿、笑顔で心の底から楽しそうな美咲ちゃんの姿は、最高に輝いていた。

ダンスの曲ごとに衣装チェンジがあったのだけど、美咲ちゃんが躍る曲だけお腹が見えない長めの丈になっていた。美咲ちゃんの手術の傷が見えないようにとの仲間たちの優しさも感じて、美咲ちゃんの頑張りと仲間との絆に感動と嬉しさで涙が溢れた。

 

美咲ちゃんとは、外来通院の時に病棟に寄ってくれた時に話したり、メールでやりとりをしていた。


修学旅行や家族旅行、祖父母の家への帰省など、その度に楽しかったことをメールで報告してくれていた。

 

中編 に続く

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