【21歳 閉鎖病棟】
その年の12月。
今度は別の病院に入院することになった。
そこは閉鎖病棟だった。
女子だけの病棟で基本的に鍵がかかっている。
外出はできない。
私は2・3人と同部屋だった。
摂食障害患者は看護室でごはんを食べ、毎食どのくらい食べたかをチェックされる。
そこは一度入ったら3か月間は出ることができなかった。
入院して数週間は環境の変化もあり何とか過ごすことができた。
ごはんはあまり食べることができない。
それが心地よくもある。
過食しない日が続くと、このまま治るのではないか。
もしかしたら一生過食しないでいられるのではないか。
もう自分は治ったのではないか。と思ったり、期待する自分がいる。
病院のごはんは必要な栄養と、必要なカロリーを計算されているというが完食するのは怖い。
とにかくお米の量が大量なのだ。
徐々に過食衝動がでてくる。
でも、食べるものは病院のごはんと少しのお菓子しかない。
過食衝動が起きても思いっきり食べることはできない。
できることといえば、病院食を一気にかきこむだけ。
看護室の中でごはんをかきこむ。
あきらかにいつもと違う自分。
獣みたい。
必要なカロリーと言われても完食してしまった恐怖が襲ってくる。
体内に全ての食べ物が吸収されていくような感覚。
すぐにトイレへ行き、水をできるだけ飲んでは左手を喉に突っ込んだ。
でもうまく吐けない。
怖い・・・。
自由に過食することも自由に吐くこともできない。
食べた恐怖と自由にならないイラつきを抑えることができない。
この感情を自分ではおさえることができず、看護師さんにぶつける。
病院で暴れると肩に筋肉注射を打たれ、ベッドに手足を拘束された。
身動きがとれない。
「しん」とした部屋。
ベッドに両手足を縛らている私だけがいる。
体は元気なのにただ一日中天井を見つめている毎日。
たまに様子を見に来る主治医。
いったい何日たったんだろう。
徐々に冷静さを取り戻していく。
孤独。
私は何のために生きているのか・・・。
じんわりとした涙が出てくる。
数日後、主治医の許可がおりると拘束から解放された。
また、入院生活の日常が繰り返される。
入院生活の朝はラジオ体操から始まる。
音楽に合わせてラジオ体操第一と第二を完璧にこなす。
入院生活での唯一の楽しみは朝に届く広告を見ることだった。
みんなでスイーツの広告を見て、どれが一番食べたいか「せーの」で指をさす。
食べられないけど、なぜかそれだけでワクワクした。
私はこの病院で3か月間の入院生活を3回繰り返した。
オリンピックで北島康介が連覇を達成したとき私は2回目の入院をしていた。
テレビを見ながら身震いをしたのを覚えている。
その間には本当にいろんなことがあり、たくさんの人と出会った。
Hopeを吸ってる病院のドンみたいな女性
未成年の金髪の女の子
とても整った顔の人
見た目が男の子の女の子
なぜここにいるのかわからないような人
みんながみんな何かを抱え、一定の距離を保ちながら生活している。
一定の距離が保たれなくなると何かしらのトラブルが起こる。
みんな自分のことで必死だ。
私はここで一人の人に不思議な感情を抱いた。
とてもキレイでかっこいい人。
だけど、ここは女性病棟。
私が感じた感情が何なのかよくわからず、不安でたまらなくなった。
主治医の先生にそのことを話すと思いもよらない言葉が返ってきた。
「あなたレズなの?」
私はキレた・・・。
たぶん一番言われたくない部分をつつかれたから。
当時の私は男性と付き合ったこともなく、自分の気持ちが何なのかも、自分が何なのかもわからなかった。
わからないから不安だった。
もしかしたら私は女の人が好きなの?
男の人を好きにはなれないの?
という不安が少なからずあったのは確かだ。
だから一番痛いところをストレートについてきた医者にキレた。
それ以来その人が嫌いだ。
医者が嫌いになった。
もしかしたらその人のことを男の人として気になっていたのかもしれない。
未だによくわからないし、今となっては曖昧でもいいかなと思う。
ただ、当時の私は何かを感じていたのは間違いない。
入院生活の中で、人間関係を築きたくて私はタバコを吸い始めた。
喫煙室はコミュニケーションの場。
タバコを吸う人たちは仲良くなれて、喫煙室に入れない人は蚊帳の外みたいなそんな感じだった。
タバコを吸えば仲間に入れる。
タバコを吸えば過食衝動がまぎれる。
そんな気持ちもあり私はタバコを吸い始めた。
まさか自分がタバコを吸うとは思ってもみなかった。
それからしばらくは吸い続けたが今は禁煙に成功している。
母親との関係は相変わらずだった。
母親がお見舞いに来ると嬉しいのに最後にはイライラした。
母親の声が聞きたくて公衆電話から自宅に電話をする。
何を話してもだいたい電話の途中でイライラしてガチャ切りしてしまう。
気持ちが揺さぶられる。
母親は誰よりも何よりも私の心を揺さぶる。
母親の言動は私を嬉しくも悲しくもさせる。
悲しみはすぐに怒りに変わるんだ。
当時の私はそれがとてもつらかった。
この病院では本当にいろんなこがあり、たくさんのことを経験した・・・。
今となっては良かったと思えることもあった。
それは入院中いつも迷惑をかけていた看護師さんの一人の言葉だ。
相変わらず自分の気持ちをコントロールできず、看護師さんに死にたいと言っていた時、相談にのってくれた看護師さんは、
「死んだら楽になるって誰が言ってたの?」
といった。
「え、、、」
何てことないと思う人が大多数かもしれないが、私にはかなり衝撃的な言葉だった。
「確かに・・・」
私は、今がつらいから死にたいと思っていた。
このしんどい世界から逃げたい。ついらいことから逃げたいと思っていた。
【死=楽】と思っていた。
だけど、その看護師さんに、
「死んで戻ってきた人はいないでしょう?だったら死んでも楽になれるかはわからないよ?」と言われた。
当時の私には衝撃的だった。
【死=楽】と思い込んでいた私は、その看護師さんの言葉に妙に納得してしまったのだ。
それから死ぬことへの考えが少し変わった。
つらいことから逃げるために、ストレス発散のために自分を傷つけることはあったけど、その行為は【=死にたい】ではなかった。
私はただこの現実から逃げたかっただけ。別に死にたいわけじゃない。
それからの私は“死にたい”と思うことは少なくなった。
それでも不安定な状態は続いた。
3回目の入院のとき、私はとうとう保護室に入ることになった。
理由は同じ部屋の子の洗顔フォームを私が飲んだからだ。
同部屋の子は何も関係ない。
ただ、私の気持ちがおさえられなくなった時、目の前にそれがあっただけ。
相手がどう思うかなんて何も考えていない。考えられない。
案の定、友達には嫌われ、話をしてくれなくなった。
友達を一人失った。
保護室は独房のようなところだ。
監視カメラがあり24時間監視されている。
自殺防止のために窓やフック、布類なども一切ない。
あるのはトイレと布団だけ。
私はそこでたんたんと生活した。
たまにイライラしすぎて過呼吸になったが誰も助けにきてはくれない。
たぶん私の過呼吸が「本気」ではないことがバレていたんだろう。
22歳。クリスマスとお正月をそこで迎えた。
私は真剣に神様に祈った。
サンタさんにもお願いした。
この頃の私は成人した子どもだ。


