毎年5月31日、私は決まっておすしを食べている。

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20歳まで生きれないと言われた兄にまつわる数々のストーリ。これは幼少期から順に連載した小説を全編+あとがきまでまとめたものです。

Vol.1 おすし

兄の好物だった、おすし 。毎年5月31日、わたしは決まっておすしを食べている。

           *


発作が治まり、また束の間の穏やかな時間が流れ始めた。母は一息ついてソファに横になった。わたしはパイプ椅子に腰掛け、ぼんやりと兄を眺めている。いくら危篤と言われてもまるで実感がない。悲しくてその現実を受け入れられないのではない。きっとこの一時も笑い話のひとつになる日が来ると信じて疑わなかった。なまぬるい病院の個室に注ぐ柔らかな初夏の日差しが、平和な日常を思い出させてくれる。外はこんなに爽やかなのに...。

ベッドに仰向けで寝ているはずの兄は、目を瞑ったまま徐に天井に手を伸ばし、空気を摘もうとしている。そうかと思うと、その手を口に運んでもぐもぐと口を動かした。ひとつ、またひとつ。

「お母さん、見て!何か食べているみたい...。ほら、また!」

「ほんとだわ。お寿司...? お兄ちゃん大好きだからね。」

彼は幻のお寿司を満足そうに味わっている。好物の帆立に、次はいくらの軍艦巻きだろうか。幸せな幻覚。母とわたしは顔を見合わせてくすくすと笑った。

泊まり込みの看病が始まってから一週間、疲れと緊張が高まっていた私たちを、兄はいつもと変わらず笑顔にしてくれた。

            
彼は3歳の時に病に侵された。1年後に茨城でわたしが生まれた時には、祖母が付き添って東京の病院で暮らし始めていた。それから24年間、何度入退院を繰り返してきたのだろう。人懐こい笑顔とお茶目なキャラクターで院内の人気者でもあった彼は、入院というより「病院で暮らす」という言葉の方が合っている。新入りの患者が困っていれば代わりにナースコールを押し、仕事に慣れない新米ナースを励ますのも彼の役目だ。

「お兄は何の病気なの?」何度も繰り返してきた問い。幼い頃は、原因不明の病としか聞かされていなかった。これまで3つの病院を渡り歩き、数えきれない医師達が関わってきた。これだけ医療が進んだ今でさえ、誰も彼を助けられないことを悔しくも受け入れるしかなかった。

しかし、大人になって改めて母に聞いた事実は少し違うものだった。
「赤ちゃんの時は健康そのものだったの。ある時、麻疹が流行ってね、お兄ちゃんも近くの小児科で受診したの。その時の処置がまずかったのかな...。強い薬で発疹を止めてしまって。それから口内炎で口の中も食道もひどく荒れちゃって。その後も外に出れなかったウイルスがずっと身体の中で悪さを続けているみたい。癌と言われたこともあったけれど、結局本当の病名は分からない。」

“それって医療ミスじゃないか!”と見たこともない医者へ怒りを募らせることもあったが、20年も前の出来事であっては暖簾に腕押し。「近くの小児科」と言うだけで、実際にその名前を聞くこともなかった。家の近くには人気の小児科はあったけれど、そこのことだったのか、母の実家近くの小児科だったのか、特定するのは少し怖いようにも感じられた。両親がその小児科を訴えることはなかった。裁判云々にパワーを割くよりも、兄を救うことに必死だったのだろう。無論、討論さえ嫌いな平和主義の父が、医者を訴えることなどしなかったのかもしれない。

それから母の人生は兄一色に変わった。わたしの家族は兄中心にまわっている。


3歳で発病後、毎年彼の身体には解明できない症状が次々に現れた。それでも5歳くらいまでは、ハラハラする母を尻目に一緒に走ってはしゃいでいた記憶がある。それから思うように歩けなくなり、車椅子になり、しまいには股関節が変形してしまった。ひとつ、またひとつと身体中本来の機能に代わる人工物が彼の一部となっていく。胸には毎日点滴を刺すポートが埋め込まれていて、ほんの一部だけターミネーターみたいだ。おへそから出た太い管は緑色の胃液を外のパックに排出している。いつかの手術で喉に穴をあけ、ゼコゼコ音が聞こえれば痰を吸引する。

次々に現れる症状に立ち向かう本人と病院の先生達。それは終わりの無いいたちごっこにも思えた。頭、目、耳が唯一手を施していないパーツかもしれない。そんな連続は完成系とは言えないが、彼の肉体は数えきれない医療技術の賜物だ。

そして、彼の心はいつでも生きることに前向きだった。痛みに耐えて顔をしかめる姿は幾度となく見てきた。けれど、彼のトレードマークは口を大きく開けたくしゃくしゃの笑顔だ。「つらい」という言葉も彼の口から聞いたことは一度もない。


体調が良く家で生活している時は、彼の全てのパーツを毎日母がメンテナンスしていた。分解し、綺麗にして、付け替える。時には血が滲み出ても、母にしてみればお手の物。ベテラン看護師顔負けの冷静さだ。わたしも小学生になると、新米ナース並に点滴の交換や痰の吸引など、少しずつ手伝えることが増えてきた。

そんな環境で育ったせいで、血を出してわんわん泣いている子どもを見ても、多少通院が必要な友人がいても「大丈夫?」と心配しつつ、心のどこかで “死にはしない” と冷めた自分がいる。

兄にとって一番の脅威は、痰が固まって喉の呼吸口を塞いでしまうこと。少しでも乾燥すれば、加湿器を喉に当て痰を吸引する。痰が固まってくると喉からはピューピュー音が聞こえる。スポッと大きな塊が取れると、彼は満足そうに親指を立ててサインを出した。どんなに気をつけていても、酸素が届かず青ざめた経験は幾度となく襲ってきた。母が長時間外出する時は、わたしや姉が代わりに吸引係を引き受ける。塊が取れた時は「こんなに大きかったよ!」とわたしでも出来ると言わんばかりに自慢するのだけれど、どうしてもの時は仕方なく母にSOSを出すのだった。

「(深呼吸して一気に吐き出す)フンっ!!...ダメだ。詰まってる...。」

加湿器と吸引器のダブル攻撃で塊と奮闘する。兄と集中して呼吸を合わせ、何度も勢い良く息を吐く。ついさっきまで一緒にテレビを見て笑っていたのに、彼はいつも生と死が隣り合わせだ。

「お母さん、あとどのくらいで帰ってこれる?お兄が詰まった。どうしても取れないの。」
わたしがやっても母がやっても変わりないはずなのに、兄もわたしも母が帰ってきただけで全てが解決したような気になった。


「ただいまー!なーに弱気になってるの?! 大丈夫だから、ほら、ゆっくり息を吸って、吐いて。もう一回。」

たとえ外出中でも病院内でも、少しでも呼吸口が詰まったとなれば一大事。医療技術の傑作が鼻くそみたいな塊で命を落としてしまってはいたたまれない。

栄養は口から摂取できず、人生のほとんどを点滴のみで生き続けている。点滴をしていない時間以外、彼は常に点滴の管と繋がっていた。歩ける時でも、管によって守備範囲が限られていることで「あれ取ってみて、これ取ってみて」と用事を頼まれた。彼なりに気を遣って「取って」と言い切れなかったようだが、「取って"みて"」という言い方がわたしをイライラさせることも度々あった。

点滴は幼いわたしには、人間が一生液体だけで生きる実験の様にも見えた。もちろん、彼はもう20年以上もそれを証明し続けている。小学校低学年頃までは、赤ん坊のミルクを作るように、毎日決められた時間に栄養の粉と人肌程に温めたお湯を混ぜ、専用の点滴パックに流し込んでいた。作った液体は白濁色で、茹でたじゃがいもみたいな香りがしてまずくはなさそうだった。小学校中学年頃になると、製薬会社が変わったのか、点滴はだいぶスタイリッシュになった。無色透明、無味かどうかはわからないが無臭の液体。点滴パックの封を開け、注射器で少しだけ液体を取り出す。ガラスの小瓶に入った白い薬をその液体で溶かし、注射器で全てパックに戻し、彼の食事が完成する。

必要な栄養は点滴で補えたが、彼の「食欲」は舌でしか満たせなかった。
「ねぇお兄、そのまま間違ったフリして飲み込んで見たら?」
「そしたら喉の穴から出てくるかも笑」
どんなに茶化してみても唾さえ飲み込まず、一口ひとくち味わって楽しんでは、専用のポットへ器用に吐き出す。こんな方法で一緒に食事を楽しむことができた。家族の誰よりも食いしん坊な彼は、祖母の好物である海老天を中身だけ食べてしまうことも度々あった。


Vol.2 デュアルライフ

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わたしが生まれた後も、兄はしばらく東京の病院と茨城の自宅で入退院を繰り返していた。当時はそんな言葉もなかったが、今思えばデュアルライフの先駆けだ。誕生日、クリスマス、お正月、七五三など、家族写真はどれも幸せに溢れた様子に変わりないのだけれど、兄が写っていたりいなかったりする。

兄が病院にいる間は、母と石塚に住む母方の祖母が交代で付き添った。3歳になったわたしは、ひとつ上の姉と二人で父方のダンプじいちゃん家に預けられるか、家族ぐるみで仲の良い友人宅にお世話になることもあった。石塚のおばあちゃんかダンプばあちゃんが、母の抜けた我が家に泊まりに来てくれることもあった。

父方の祖父母は、農家で大きなダンプを持っていた。四人いる従兄弟がみんなダンプじいちゃん、ダンプばあちゃんと呼ぶので、わたしも姉もそう呼んでいた。ダンプじいちゃんは、父の頭をツルツルにした感じで「はー、よう来たねー。」と父と同じくいつも笑顔でマイペースな人。ダンプばあちゃんは今でこそ歳をとって丸くなったけれど、元教師で当時は少し気難しい人だった。いつも温厚な石塚のおばあちゃんは母と一緒にいる時くらいの安心感があったけれど、どんなに優しくされてもダンプばあちゃんと一緒にいるのは少し落ち着かなかった。ダンプばあちゃんと母との確執がそう感じさせていたのかもしれない。「今度はともちゃん家に泊まりたい!」近所でわたしが一番仲の良かった友人宅への宿泊は、大人の事情で叶わなかった。

いつでも第二、第三の母とも言える大人達に囲まれていたのは幸せなことだ。それでも、まだ幼かったわたしは、姉と大きな夕日に母の顔を浮かべた日もあった。ダンプばあちゃんが誤ってわたしの足に漬物石を落とすというまさかのハプニングも起こった。熱があるのに姉とはしゃぎすぎて第二の母から本気で怒られたあの日のことも、今では良い想い出。どこでも寝れる、どこでも生きていけるわたしの特性は、この時期に形成されたのだと思う。

父は当時30代でバリバリの仕事人間。わたし達もまだ未就学児で、平日はなかなか面倒を見る余裕はなかっただろう。ただ、わたしは覚えていないけれど、父が一度わたしの散髪をしてひどいことになったのだと、姉が昔を思い出して笑ったことがある。きっと慣れないなりに、父も精一杯わたし達の面倒をみてくれていたのだと思う。確かに、わたしの髪を結んでくれた父の姿はおぼろげに覚えているし、沢山の愛は感じていた。幼馴染みたちに言わせれば、父は昔からわたしにデレデレなのだ。わたしもそんなデレデレの愛情はまんざらでもなかった。父は深刻な話ができるとは思えない程いつもふざけていて、わたし達家族を笑わそうとする。

週末の楽しみは、父が運転する車で兄と母のいる病院に行くことだった。父は車が大好きで、愛車の塗装や修理まで自分でこなすし、長時間のドライブも気にしない。毎年夏と冬に仲の良い三家族で旅行する時も、父はどこまででも運転手を買って出る。

週末東京に向かう道中、父は決まって「寝てて良いよ。」と言うのだけれど、疲れた父がいつか居眠り運転をしないかと、子どもながらに心配していた。

「お父は眠くない?」

首都高のオレンジライトに照らされた父の横顔を、後部座席からじっと監視した。少しでも疲れセンサーが察知すると、運転席の後ろから手を回して肩を揉んであげることもあった。父にしてみれば、大人しく寝ていてくれた方が楽だったかもしれない。今も夜の首都高を通る度、あの空気が蘇る。

時には、父と姉とわたしの3人で東京のホテルに泊まることもあった。ユニットバスの使い方を知らずにカーペットをびしょびしょにした事も、ふかふかのベッドで姉と飛び跳ねた記憶も鮮明に覚えている。ただ、近くにジェットコースターが見えたあのホテルがどこだったのかは思い出せない。

週末病院で母と再会すると、後部座席をフラットにした車内でひとときの家族団欒を楽しんだ。「お利口さんにしてた?」父がヘンチクリンに結んだわたしの髪を母が結い直している間、茨城で起こった他愛も無いことを報告する。兄は面会NGになっていることも度々あったが、院内の友達も沢山出来ていた。わたしは決まって母の肩揉みをした。当時のわたしが父と母に出来ることといえば、元気に肩を揉むことくらいなのだ。

東京と茨城のデュアルライフは、わたしが幼稚園に入る頃まで続いた。


Vol.3 わたしの分身

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わたしが幼稚園に入って半年が過ぎた頃、自宅近くのこども病院に兄が転院できることになった。我が家の生活が大きく変わるビッグイベントだ。入院中も家から20~30分程でいつでも兄に会うことができる。ただ、規則は厳重で、親でさえ面会時間が限られているし、両親以外は兄弟でさえ病室に入ることは許されない。

病室は二階の階段を上がり、横に伸びた廊下越しの正面に入り口がある。こども病院らしく、入り口のガラス戸にはいつも丸々としたゾウや太陽みたいなライオンの絵が描かれていた。右と左にひとつずつユニットがあり、兄がいるのはほとんど右側だった。面会時は、入り口の隣にある更衣室で手を洗い、専用のガウンに着替え、靴もスリッパに履き替える。ガウン姿になった母がドア1枚を挟んだ入り口に現れ、外から覗くわたし達に軽く手を振り、また1枚ドアを開けてユニットの中へと入っていく。ドアを2枚挟んだ奥では、点滴台を押しながら歩く子や母親に車椅子を押してもらっている子、感じの良い看護師さん達が足早に歩くユニット内の様子が見えた。

母は毎日、父もできる限り面会時間内に兄との時間を過ごした。時折彼を連れてドア越しに出て来ることもあった。わたしと姉はドアの外から彼をひと目見て、廊下のベンチで何時間も暇を持て余していた。塗り絵にも絵本にも飽きていた。左右のユニットをつなぐ長い廊下には二本の真っ直ぐな線が引かれていて、それを平均台に見立てて歩いたり、「グリコ」「チヨコレイト」「パイナツプル」と何度も往復してみたりした。

転院後、更にビッグイベントは続き、兄が骨髄移植をすることになった。ウィキペディアによると、骨髄移植は「白血病や再生不良性貧血などの血液難病の患者に、提供者(ドナー)の正常な骨髄細胞を静脈内に注入して移植する治療」だ。骨を削るわけではなく、腰骨の中にある骨髄を注射器で吸い取って患者に注入する。説明を聞く度に、テールスープに入っているあの固い骨と中のゼラチンを想像してしまう。子ども病院ではちょうど移植手術の成功が認められたところで、兄も試してみてはどうかと白羽の矢が立ったのだ。当時はまだ事例も少なく、上手くいけば長く生きられるが、移植したところで身体が拒否反応を起こす可能性も大いにあった。病院の研究の為ではなく、兄の命の為の移植なのか。信用、信頼。ぐるぐるぐるぐる。「骨髄移植」という希望の光にも複雑な問題が絡み合った。

それをやるかやらないかの判断も難しいが、まず大切なのは白血球の型がピッタリ合うドナーを見つけること。白血球の型は数百から数万通りもあると言われているらしい。日本には当時まだ骨髄バンクがなく、わたし達家族に加え、有難いことに親戚や多くの友人達も集まって採血検査に協力してくれた。


数日後、数十人のドナー候補者の中から、わたしの白血球がピッタリ合うという驚きの結果となった。骨髄移植のコの字もよくわからない幼稚園児のわたしが、いきなり「救世主」として矢面に立たされたのだ。先生は、成人であれば脊髄側の手術で足りるけれど、わたしは身体が小さすぎて腰回り一周から針を入れる必要があり、傷の跡も将来は消えてなくなる等、母とわたしに詳しく説明してくれた。難しいことは良くわからないが、兄を助けられる役目を得たことは何だか誇らしかった。母からドナーになるかと聞かれて、断る理由など1ミリもなかった。今思えば、幼かったが故に余計な恐怖を感じなかったのかもしれない。もしかしたら、「大したことない」と無意識に自分自身に思い込ませていたのかもしれない。今も昔も健康優良児のわたしは、人生でこの時が唯一の入院経験となっている。

入院初日、看護師さんに連れられて初めて兄のいる病室に入った。待合室や廊下とは違う初めての匂い。温度も生暖かかった。外から想像するしかなかった病室の中を、遠慮しがちにまじまじと見回した。こども病院の中には、同じくらいの年齢で様々な治療を受けている人たちがいる。薬で髪が抜けている子、頭が大きく膨らんだ子、見た目では何の病気かわからない子達もいた。兄には当たり前でもわたしには新しい世界。彼が生きてきた世界を覗けた気がして嬉しかった。

兄と二人きりで話すのはなんだかとても照れくさい。部屋の外に出た看護師さんと母が話す声が漏れてくる。
「兄弟で会うのは久しぶりですよね?」
「そうですね。下の子と話したのは3ヶ月ぶりですかね。」

ガラス越しに自分達のことを話題にされて、どこを見ていて良いのか分からなかった。「久しぶり!」と言ったあと、恥ずかしさで兄との会話も続かなかった。けれど、彼はわたしが来るのを心待ちにしてくれていて、色画用紙に折り紙を貼った手紙を用意してくれていた。「ありがとう。一緒にがんばろうね!」というメッセージに更に照れくささが増したけれど、入院生活の大先輩からの言葉はとても心強かった。

それから数日間は検査や手術の準備が続き、採血の注射にもだいぶ慣れた。子ども病院だけあって、看護師さんは近所の優しいお姉さんのようだった。いつも人気キャラクターのペンを身につけていて、子ども達の気を惹くのも上手かった。

毎日夕方に母が面会に来ると、広いプレイルームでテニスのテレビゲームをするのが楽しみだった。新入りのわたしは、誰かがゲームを使っていると「貸して」とは言えずに遠くからずっと見ているだけだった。夜は例のごとく面会時間が決められていて、母は後ろ髪を引かれるように帰るのだけれど、「帰らないで」と泣いたのは一回だけだった。兄もそうして泣いたことはあったのだろうか。

病院ではたったひとりだけ友達ができた。プレイルームでわたしより先にテニスゲームをしていた男の子だ。病院の中では引っ込み思案だったわたしに「仲良くしてね。」と母が代わって声をかけたのが始まりで、それから何度かお互いのベッドを行き来した。車椅子でもない、点滴もない彼が何の病気で入院していたのかはわからない。バイバイを言われることもなく、数日後に彼は病棟からいなくなってしまった。院内の友達関係はなんともセンシティブなものだった。退院したのか、転院したのか、はたまた...彼のその後を聞いてはいけない気がした。

手術当日。渡された服に着替え、手術室近くでストレッチャーに横になる。
「行ってきます。」
心配そうに見送る父と母。わたしに向けられたふたりの強い眼差しと緊張感を躱し、いたって冷静を装って事を進めた。わたしの顔は明らかに強張っていた。

しかしいざ手術室の入り口に差し掛かると、怖いというより、なかなか入ることのできない場所に入る好奇心の方が優っていた。手術室の中には何があるのだろう...。隈なく眺めたい期待とは裏腹に、白いライトが眩し過ぎて何も見えない。看護師さんに「どの味がいい?」と聞かれてリクエストしておいたチョコレート風味の麻酔をされ、教えられた通り羊の数を3つくらい数えたところから記憶がない。ちなみに、麻酔はチョコレートの他に、イチゴとバナナの香りが選べた。実際にチョコレートの香りがしたのかさえ分からない。ただ、手術は上手くいった。

麻酔が切れて目が覚めたわたしの第一声は「103」だった。目を開けるとベッドの横には安堵した母の笑顔があった。
「よく頑張ったねー。いきなり数を言うもんだから、まだ羊を数えているのかと思ったよ。」

今でも鮮明に覚えている目覚める直前の映像。一匹ずつ漫画チックな羊が現れては、軽いおもちゃみたいに遠くへポーンと飛んでいく。そしてまた次の羊が現れてはそれを繰り返す。わたしの頭の中は素直に羊を数え続けていた。

幸運にも、その後兄への移植も全て成功した。ひとつ問題があったとすれば、術後からしばらくわたしの腰が90度折れ曲がったことくらいだ。元に戻るまでの1ヶ月は歩くのに苦労したけれど、その格好で元気に走り回るわたしを見て看護師さんが笑ってくれるのをわたしも面白がった。老人のような格好でも中身は元気いっぱいの幼稚園児。退院まで毎日院内をあちこち歩き回き、ビニール越しにしか会えない兄の無菌室にも度々お邪魔した。兄は横になりながらパックマンやマリオのファミコンで遊んでいて少し羨ましかった。

           *

退院して数週間の自宅療養を終え、久しぶりに幼稚園に登園した初日。楽しみにしていた縄跳び大会が催された。園長先生も担任の先生も心配して見学するように勧めたけれど、わたしは有り余るエネルギーで優勝した。わたしの健康体は以前と何も変わらなかった。

かなり健康な骨髄を移植したことで、兄の調子は安定した。わたしの一部が今や兄の一部になった。家族、兄妹以上、一心同体未満の感覚。それからは不思議なことに、たまにわたしが風邪を引くと兄も決まって熱を出した。わたしが遠くに出かけると、絶好調だったはずの兄が病院に引き戻されてしまうことが度々起こった。わたしと兄は見えない何かで繋がった。


Vol.4 優しさと偏見

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家で過ごす間、兄は養護学校ではなく、一年遅れで市立の幼稚園、隣接する市立小学校、そして市立中学校に通った。この幼稚園で仲良し三家族、わたしにとっては第二第三の母達に出会えたことを思うと、入園を許してくれた当時の園長には感謝しかない。兄は知的障害がなかったことで、いずれも特別学級ではなく普通学級に通っていた。園や学校側に「YES」と言ってもらえるまで母が奮闘したのは言うまでもない。

幼稚園は1年のみの付き合いで、先生達以外は子ども達同士で兄弟のことを知る由もない。一方、小学校は6年間。わたしが入学すると、既に兄は校内のちょっとした有名人。兄弟皆んな同じ学校に通ったことで、姉やわたしが続いて入学すれば、「あー、マー君の妹さんなのね!」と声をかけられることもあった。

「お前の兄ちゃん植物人間なの?」
突然、好奇心旺盛な悠太君が悪気もなく聞いてきた。悠太君は親が離婚してから喧嘩や万引きを繰り返し、校内ではいわゆる問題児に認定されていた。調子が良い時はクラスのムードメーカーでもあるけれど、喧嘩が始まると手のつけられないとっぽいグループの頭だった。わたしはなぜか彼とよくしゃべった。愛嬌のある彼がいつもそんな風に笑って過ごせれば良いのにと思っていた。そんな彼からの直球の問い掛けに、わたしが気を悪くすることはなかった。ジロジロ見るだけの大人達よりずっと良かった。

「違うよ。歩けるし(当時はまだ歩いていた)、話せるし(声帯がないので慣れればかすれた声が聞こえる)、頭も普通だし(勉強もできる)。ただ、原因不明の病気なだけ。」
「ふーん。お前も大変なんだな。」
「まぁね。」

手のかかる兄がいて大変じゃないと言えば嘘になる。ただ、わたしにとっては当たり前過ぎて、それが本当に大変なのかという感覚は麻痺していた。大喧嘩をしたり、妹をいじめたり、違う意味で世話の焼ける兄は世間に五万といるだろう。それに比べればなんてことはない。病気や障がいというフィルターの前に、わたしにとってはただの兄という存在に変わりはなかった。

そうは言っても、障がいだらけの兄を世間に見られることが嫌になる瞬間は度々あった。一歩外に出れば、まじまじともの珍しい生き物を観察するような視線を感じることもあった。エイリアンにでも出くわした様な顔を幾度となく見てきた。

そもそもわたしが兄のことをいわゆる障がい者だと気付いたのは、小学3年生の時だ。薄々感じてはいたものの、それまでわたしにとってはあまりに当然の存在すぎて、兄が世間で特別視される人間だとは気付かなかった。授業で特別養護学校の生徒達と交流した時初めて、兄は紛れも無く障がい者のひとりなのだと思い知らされた。


入学許可の壁は高かったが、入学してしまえば、幸せなことに彼の担任になったどの先生達も親身に受け入れてくれた。まだ独身だった幼稚園の先生は、毎年恒例だった仲良し三家族の旅行にも一緒に参加する程だった。第一、二、三の母達もこぞって先生を「しょうちゃん、しょうちゃん」と呼び、先生のお見合い相手まで気にしていた。園長先生は、身長は小柄だけれど、お腹周りがどっしりした見るからにビッグママ。いつも甲高い声でゆっくりと話しかけ、子ども達への愛情が滲み出ていた。母は今でも園長先生と時々会って食事をしている。

小学低学年の時はベテランの女の先生が兄の担任を引き受けてくれた。貫禄ある風格の中に子ども達を包み込む大らかさを兼ね備えているような先生だった。小学校としても前代未聞の新入生。先生は余程の勇気が必要だったと思う。最初の頃は母が付き添うこともあったけれど、しばらくすると登下校や遠足の時だけで、あとは先生にお任せした。心から尊敬している先生のひとりだ。先生が家庭訪問で笑いながら話していたのを今でも覚えている。

「もーね、あの時程焦ったことはなかったですよ。気がついたらマー君の喉の蓋が消えていてね、どこを探しても見つからないの!どうしよう、どうしよう!具合が悪くならないかしら、お母さんにすぐ連絡した方が良いのかしらって。必死に蓋を探しているのに、マー君を見ると“先生大丈夫だよ”って平然としていたの。何がダメで何が大丈夫かは自分でちゃんとわかっているのよね。そして、ホッとしてマー君を見たら洋服に蓋がペタってついていたの。もー二人で笑っちゃいましたよ。」

この頃使っていた喉のパーツには蓋が付いていて、外出時は痰をとる時以外は付けるようにしていた。感染予防の目的と息が漏れずに声が聞き取り易くなるからだ。家の中では外していることの方が多く、兄が話す時は自分の指で穴を抑えると声が聞こえた。そんなことで、蓋がなくなったからといって兄の体調には何の変化もない。有難いことに、先生はそんなパーツの一つひとつまで気にかけてくれていた。

小学校と言えば、運動会は毎年恒例のメインイベントだった。父親は早起きして校庭にブルーシートを広げて陣取りをし、母は大きなお弁当をこしらえた。いつもの三家族の他に、兄と同じクラスのお寿司屋さんも豪華な寿司桶をもって輪に加わった。そして顔見知りや近所の人たちもそれに加わることもあった。それぞれの家族が一畳分程のシートでこじんまりとお弁当を食べているというのに、わたし達のシートは花見会場さながらの賑わいだった。

兄は入退院に合わせてこの小学校と病院内の学校を行き来して通った。学校に通っている間も、定期的な通院があったり、時には想定外の受診もあった。鍵を開けてもシーンとした家。そんな時はまるで樹海みたいに家の空気が冷たく静まりかえっていた。先に帰っているはずの兄と母がいないと、診察に時間がかかっているだけなのか、また急に入院になったかのどちらだろうかと不安にもなった。逆もしかりで、帰宅するとしばらくぶりに兄が退院していて、何事もなかったかの様に家にいることもあった。

小学校6年生の時には初めて1ヶ月の皆勤賞を取ることが出来た。途方もない達成感。クラスメイト全員が、母と登校した彼を教室で待ち構え「おめでとーう!!」と盛大に祝ってくれた。黒板のイラスト文字に教室内のデコレーション、みんなで寄せ書きまで用意してくれた。

“マー君、おめでとう!頑張ったね!”
“おめでとう!スーパーカッコいい!!”
“おめでとうございます!これからも健康に気をつけて。”
“マー君がいると明るくなります。これからも毎日来てください!”
“新記録更新し続けよう!応援してる!”

彼は先生達だけでなく、クラスメイトにも恵まれていた。


Vol.5 おりがみ

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兄は太い指の見た目によらず手先がとても器用だった。彼の“遊び”と言えば、ガンダムのプラモデルにミニ四駆作り。ガンダムを入れたおもちゃ箱の中には優に300体以上が収容されていて、お気に入りを並べては戦いごっこをして楽しんだ。ミニ四駆にはヤスリや工具を使って改造し、極限まで軽さと車体のバランスを調整していた。軽過ぎてもレース中に吹っ飛んでしまうし、重過ぎても思うようにスピードが出ない。タイヤを変えたり、モーターを変えたりして世界に一台だけのスーパーカーを作っていた。週末になると父とミニ四駆のレース場に行き、自慢の車を走らせるのが楽しみだった。わたしがリカちゃん人形に惹かれるまでは、ガンダムとミニ四駆で一緒に遊ぶことも多かった。

ミニ四駆制作中、度々ハプニングが起こった。ハプニング大賞は、瞬間接着剤。なかなか出てこない瞬間接着剤の先を覗き込んだ瞬間、ピュっと出た液体が彼の目に命中した。「目が開かない!」と騒ぐ兄を横目に、石塚のおばあちゃんが機転を効かせて注射器と水を持って現れた。急いで注射器で目に何度も何度も水を流し、やっとまぶたがパカっと開いて瞬間接着剤事件は一件落着。あの時おばあちゃんがいなかったら、兄はまたひとつ人に説明できない障がいを増やしているところだった。「もう絶対に瞬間接着剤の先を目に向けない。」家族みんなで大笑いした。

もう一つは、急に居なくなったで賞。ある夏の日、兄は窓に背を向けて畳に座り込み、いつもの様に背中を丸めてミニ四駆制作に熱中していた。「またやってるなー」と思いながら、母とわたしは少し離れたテーブルで麦茶を飲みながら夏休みの宿題を終わらせようとしていた。そして次の瞬間兄にもう一度目をやると、彼はそこからそっくり居なくなっていた。機敏に動くことが出来ない彼が瞬間移動ができるハズもない。驚いて母と駆け寄ると、彼は窓から落ちて庭に転がって大笑いしていた。後ろの窓が開いているのに気付かず寄っかかろうとしたらしい。彼を部屋に引き上げてまた大笑い。

兄は予想できないハプニングと笑いを巻き起こす天才だった。


とにかく器用で何かを作ることが好きだった彼は、ガンダムとミニ四駆を卒業すると、家で過ごす時間の多くをおりがみ制作の時間にあてていた。幼い時に病院で付き添ってくれた祖母から教わって以来、彼はおりがみが大の得意なのだ。一枚の紙で100羽が連なった鶴、躍動感溢れる獅子舞や哀愁漂うかぐや姫の旅立ち。みるみる腕を上げ、既に民芸品屋に置けるくらいの技を身につけていた。母と珍しい和紙や作品を貼り付ける色紙を買いに出かけることも増えてきた。


週末は父のワゴン車に沢山の医療機器と彼の食料である点滴を積み、色んな場所に出かけた。夏休みと冬休みにはいつもの三家族で毎年旅行を楽しんだ。遠出した東北旅行では、気仙沼の漁港で豪勢な帆立丼を前に兄は満面の笑み、夜は南三陸で崖ギリギリにそびえ立つ老舗旅館で大きな舟盛りを堪能した。那須ではりんどう湖ふれあい牧場に何度も訪れ、毎回素敵なペンションに宿泊した。

次の旅行先を決める時、母がたまたまテレビでお茶の水にある「おりがみ会館」を見つけた。そこはおりがみの聖地と言える場所だった。ビル全体が見た事もないデザインの和紙やクリエイティブな作品で埋め尽くされている。終始心を躍らせ大量の和紙を購入したのは言うまでもない。テレビでインタビューを受けていた名物館長さんにも挨拶した。館長さんは、持参した彼の作品をしばらくニコニコと眺めてからゆっくり口を開いた。

「君の作品からは魂が感じられる。この判子を名前に変えるともっとプロの作品らしくなるよ。おりがみはこれからも続けていきなさい。」

兄の作品には、右下に愛嬌のある彼の顔を形どった印が押されている。親しみやすいが、プロ目線ではそれが子どもっぽさを演出させるという。館長さんのアドバイスは彼の作品を趣味や特技から引き上げ、兄だけでなくわたし達家族にも希望をもたせてくれた。大満足のおりがみ会館は、彼にとってディズニーランドより興奮する場所だっただろう。

作品は全て兄と母の共同作業。二人で和紙の組み合わせやデザインを話し合い、母が採寸して和紙の準備を整える。同じ和紙でも切り取る場所によって作品の雰囲気も変わってくる。わたしは細かいことが苦手で、この採寸作業が面倒に思えて仕方なかった。

「最近僕の話もろくに聞いてくれないし、和紙も切ってくれないじゃないか!」一度だけ、溜まっていたものを吐き出すように兄が泣いて訴えたことがあった。もちろん母の時間に余裕がない時は作業が進まない。それを理由に二人がギクシャクしていることも度々あった。それでも二人で数々の作品を作りあげてきた。

「個展を開いてみてはどうだろう。」とおりがみ館長さんのアドバイスを受けてから間もなく、兄の個展は現実のものとなった。父の知り合いの協力もあり、地元の展示スペースで数日間に渡って開催されることになった。そうと決まれば人づてに色んなことが動き始めた。自宅や展示会場に新聞やラジオの取材も押し寄せ、地元ではほんの一時スターになったようだった。町の人達も「がんばれ!雅之くん!」と大きな横断幕を作って展示会場にデカデカと張り出してくれた。「僕はもう頑張っているんだけどね。」と苦笑いする兄だったけれど、とにかく沢山の人たちの熱い応援が伝わる展示会だった。そのお陰で、彼も彼の作品も多くの人の目に触れた。その後は彼の作品を求める人も増え、贈答品として注文が入る事も多かった。

彼はおりがみクリエイターとしての肩書きを手に入れたのだ。


肩書きと言えば、兄は社長になったことだってある。わたしが高校生になった時、母は突然お洋服お直しの店をオープンさせた。知り合いから空いているスペースを借り、日曜大工が得意な父とふたりで壁を真っ白に塗り、元が薄暗いバーだったとは思えない空間に変身させた。母はしばらく知り合いの店で洋服直しの修行をし、着々とオープン日に備えた。

「お母さん、お店はじめたから!お兄ちゃんの社長席はここにするからね!」
社会人として初めての社長職。母は、大学に行くことも、就職することも難しい彼に第三の居場所をつくったのだ。兄が姉やわたしには言えない葛藤や不安も、母には全てお見通しだった。文字通り気まぐれな社長出勤が多かったけれど、お店は順調に繁盛し続けた。


Vol.6 不思議な体験

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初めて身内の死を経験したのは、大好きな石塚のおばあちゃんとの別れだった。これまで兄と二人三脚、母とも二人三脚、わたし達家族のぽっかり空きそうな部分をいつも補ってくれたおばあちゃん。いつも優しくて、どこかハイカラで、トヨエツや反町隆のファンだった。近所の人たちに「最近じゃ、おばあちゃんは臭い!汚い!って毛嫌いする孫もいるって言うけれど、うちはみーんな優しい孫で幸せです。」って自慢していたおばあちゃん。おばあちゃんは石塚の家ではいつもおじいちゃんに遠慮していた。


おじいちゃんは書道の先生で、石塚の家には毎週末30人くらいの子どもから大人までが、だだっ広い畳の間に集まっていた。わたしも小学校低学年からおじいちゃんが書道教室を閉めるまでそこで習い続けた。「左で筆は持てん」と右で文字を書くことを教えてくれたのは、おじいちゃんだった。いつも赤筆で生徒達の文字を直したり、お手本を書く姿は威厳があって格好良かった。毎週末、稽古時間の少し前に石塚の家に着くと、おじいちゃんは決まって畳の間で専用の座椅子に座っていた。メガネをずらして読書をしているか、何度も血圧を測ってはノートに記録していた。高血圧で、食事の塩分にもえらく気を遣う人だった。

一方ではいわゆる大酒飲みで、若い頃外で飲んできた日は、おじいちゃんが家に向かってくるのが300m先からでもわかり、家族はみんな身構えたらしい。その名残は今でも残っていて、酔っぱらったおじいちゃんを怒らせてはいけないような雰囲気は何となく感じていた。おじいちゃんが大広間にいると、おばあちゃんと母は居間でゆっくり世間話に花を咲かせた。おじいちゃんが居間にやってくると、おばあちゃんはいつの間にか台所に引っ込んでしまって、一緒に座って話し込むことは少なかった。

居間にもおじいちゃん定位置の座椅子があった。座椅子から手を伸ばしてやっと届く棚には、いつも宝焼酎の2リットルボトルが赤と青で一本ずつ常備されていた。歴代内閣総理大臣の顔が並んだ年季の入った湯呑みを「ここらまでお水を入れてくんちょ。」と言って中曽根康弘あたりを指差す。わたしが水を入れてくると、それに焼酎を入れて昼間から飲みだす。上機嫌になってくると「あたしの乗っていた船は空爆にあってねぇ、仲間はみんな死に物狂いで大海原を泳いだんですよ。でもねぇ、必死に泳ぎ続けた仲間達はほとんど死んだ。あたしは体力を温存して浮かんでたから助かったんだなぁ。」と太平洋戦争の話を始める。母はその海軍話を幼い時から何万回と聞かされて「また始まった」と毛嫌いした。姉やわたしも戦争話に興味をもつまでは大分時間がかかった。けれど、おじいちゃんが亡くなった時、黄色くなった軍隊手帳やら軍歴が押入れから出てきた時は「もっと詳しく聞いておけばよかった」と後悔した。


「最近便秘が酷くてね。お腹も膨れて苦しくて。食欲もないわ。」
「しっかり病院で診てもらってよ。まだまだ元気で長生きしてよね。」
母も心配していたが、自分のことになると後回しのおばあちゃんがやっと検査した時には大腸癌が進行していたらしい。「らしい」というのは、母はおばあちゃんのお葬式までわたし達に病気のことを隠していた。

兄を想ってか、母は生死観については慎重に扱ってきたのだと思う。我が家で一度もペットを飼うことがなかったのは、きっと兄の衛生面を気遣っただけではない。病院でいつか一緒だった友達が亡くなった時も、母は兄に伝えることはなかった。

祖母は高齢で癌の進行がゆっくりだったせいか、わたしたち兄妹は誰も気付かず、最期に入院するまでは我が家にも泊まりに来てくれた。ドライブで夜桜を見たり、温泉にも一緒に行った。

兄の付き添いで薬にも大分知識があった祖母は、正気がなくなるモルヒネは絶対に使いたくないとも言っていたらしい。最後に病院にお見舞いに行った時は、痩せ型のおばあちゃんが更に小さくなっていてショックだった。

それから間もなく、時には母よりも兄の近くにいたおばあちゃんが先に天国に行ってしまった。訃報を聞く少し前、おばあちゃんが空に向かって一歩一歩ルフィーみたいに足を伸ばしていく不思議な夢を見たのは、虫の知らせということだったのだろうか。

家族みんなで石塚の家に行き、兄も姉もわたしも文字どおりわんわん泣いた。みんな石塚のおばあちゃんが大好きだった。流石のおじいちゃんもすっかり意気消沈していた。

「おばあちゃんともっと一緒に居たかった。」
「もっとおばあちゃん孝行したかった。」

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