第5章 節電虫(益虫)の両親  5.2.3 英語・英会話塾・英検面接試験官

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先に記述しましたように、私は1976年に東洋紡績株式会社からの希望退職に応じて退職しました。数年間お世話になった高槻研究所が堅田研究所に統合されるのを機に1976年8月に私が社会人としての一歩を踏み出した東洋紡を退社し、数日後にはアメリカのサンディエゴ州立大学の学生寮にいました。

退職後にアメリカに直行した理由は私自身の英語能力を本場で実際に確かめることでした。語学能力は会社の業務遂行でも必要でしたし、好きな英語は在職中にもNHKのテレビとラジオでブラッシュアップしていたのですが、現地の大学授業でどの程度役立つのかを確認し、更に勉強するためにサンディエゴ州立大学の短期留学コースに入学したのでした。

結果的には日本で10年近く独学していたおかげで英語言語学や関連科目のほとんどをAで修了できました。半年という短い期間でしたが実際に見聞したこと、外国の地で経験したことは脱サラ後の展開に大いに役立ちました。

英語の資格試験は一回だけ受験することを原則に受け、現在、TOEICで835点、国連英検でA級となっています。生徒の皆さんには試験を受けるように勧めますが、私自身は試験は一回だけと内規で決めています。

アメリカのサンディエゴから帰国した年、1977年にケイ・イー・シーを設立して、中学生と高校生を中心に受験英語を講義しながら、一方で英会話教室も主宰し、また無料英会話学習クラブを地域の一般成人に開放しました。

しかし、初年度に集まってくれた生徒数は15名ほどで、利益とは無縁のスタートでした。その中でもいまだに記憶に鮮明なのは、女子2名だけで中学3年間を維持したクラスです。また同じように男子2名だけでほとんど日本語を使わずに中学3年間を維持したクラスです。初期のクラスは10名以下で、これらのクラスから日銀マンやミノルタの英国駐在員が巣立っていったのが印象的です。

脱サラ当初から翻訳通訳を基本に据えたビジネスを念頭に置いていましたが、田舎町で翻訳や通訳は実績のない人間にはほとんど依頼はありませんでした。しかし、時は第二次ベビーブーマーたちが小学校から中学校にさしかかるタイミングで、先に述べたように地道に数名からのクラスを3年間指導維持した実績とともに塾ビジネスは開始後数年で予想以上に活況を呈し、脱サラ後の人生設計の基礎を築くことができました。

英語という商品、ベビーブーマーたちが増加していたという環境、私の年齢がまだ30歳であったという条件などが重なり合って良い結果が出ました。

やはりビジネスには時代に求められる商品、商品を求める客観的な環境、そして誠実で精力的な実行力などが必要と感じました。

この書を記述していた時点では英検(日本英語検定協会)の二次面接試験委員を25年以上も務め、更にこの経験を生かして「英検1級(&同等)資格者ネットワーク in 日本」を創設(2014年、https://www.office-ktk.jp/%E8%8B%B1%E6%A4%9C%EF%BC%91%E7%B4%9A%E8%B3%87%E6%A0%BC%E8%80%85%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88/)することは予想もしていませんでした。

写真データ、写真資料は以下のサイトを参照下さい。

https://www.facebook.com/ElectricitySavingNo.1

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