僕がF1に興味を抱いたきっかけ

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試合会場までは慣れない満員電車。
なんと。
満員の電車内で腹痛を起こしてしまった。
友達には先に行ってもらい、ひとりトイレに駆け込む。
しかし、トイレは長蛇の列。朝の駅のトイレは混むのだ。始めて知った。
ようやく一人の空間に入れた。汚い和式のトイレ。
ずーっとしゃがんでいるが、なかなか腹痛がおさまらず立ち上がれない。
ようやく試合会場に辿り着いたが、時すでに遅し。
試合は始まってしまっていた。
顧問の先生には怒鳴られ、僕は放心状態。
人生で始めての屈辱を味わってしまった。
友達は、普段の実力を出し切り見事優勝。僕は、ただただ応援するしかなかった。


■新人戦後
その後は、これまで以上に練習に没頭。
たった一人で朝練をやり、放課後も夜遅くなるまで弓を引き続けた。
この「アーチェリー」、暗くなると全く打ち込みが出来ない。仕方なく毎日遅い時間まで筋トレをやり続けた。
2年生になり、6月から国体やインターハイの予選があった。
各予選では、満員電車の腹痛に襲われることもなく、無事に試合会場に到着。
結果は、圧倒的大差で優勝。何と2年生にして国体、インターハイに出ることができたのだ。


■国体やインターハイ
さすがに他県からは強豪校のツワモノ達が揃っている。
しかも皆3年生、先輩たちだ。
結果は、惨敗だった。
■全国選抜大会
2年生の3月。すでに3年生は引退しているシーズン。
僕は、同学年のツワモノ達と互角に戦い、5位入賞。
もちろん県内には敵なしの状態だった。
あの忌まわしい新人戦の過去もようやく吹っ切れた。
■ヒーローはセナ
「アーチェリー」に没頭している中でも、F1は欠かさず見ていた。
1992年までは最強のホンダエンジンを積むマクラーレン。僕はセナのファンだった。
翌1993年、雨のドニントン。マクラーレンはホンダの撤退により非力なフォードV8にスイッチ。
スタート後の1コーナーは5位で通過。2コーナーからが伝説の走り。
シューマッハ、ベンドリンガー、ヒル、プロストと10コーナーのメルボルンヘアピンまでに、トップに立っていた。その強烈な走りは20年後の今見てもシビれてしまう。
■セナの死
あれは忘れもしない1994年5月1日。
その年から最強ウィリアムズに移籍。
FW16でイモラを走行中、単独でクラッシュし死亡してしまった。
フジテレビのF1放送では、今宮さん、川井ちゃん、三宅アナ、涙を堪えながらセナの死を伝えた。
■バイクとの出会い
セナの死により、毎戦F1は見ていたものの、以前ほどの情熱は傾けていなかった。
「アーチェリー」に没頭しながらも、実はバイク少年だった。
きっかけは中学時代、共に体育館で放課後を過ごしたヤンキー友達。
彼は中学卒業後、進学せず就職の道を選んだ。
そして就いた職は「新聞配達」。
かなり真面目に働いていたようで、毎朝毎夕、カブにまたがり新聞を配達していた。
バイクにも興味があった僕は、彼のカブに乗らせてもらいスピードの虜になっていった。
校則では免許をとる事は許されなかったし、バイクに乗る事もできなかった。当然見つかったら停学だ。
しかし僕は、どうしても誘惑に勝てず、免許を取り、先輩から3万円で売ってもらった「NSR50」に乗っていた。
■NSR50
このバイクは、通称「走り屋」が好む走りの良いバイクだった。
先輩から売ってもらった時点では、既にリミッターカット、チャンバー交換、エンジンからブレーキに至るまで「フルチューン」されていた。
交差点ではエンジン回転を合わせながらシフトダウン、膝を擦りながら曲がり素早いシフトアップ。どこでも楽しめた。
しかし僕は「走り屋」の世界を知らず、峠などで本格的に走った事はなかった。

■F1から二輪の世界選手権WGPに浮気
セナやプロスト、マンセルのF1に熱狂していた僕だったが、自分がNSRに乗るようになると、二輪の世界選手権(当時はWGPと呼ばれていた)に興味が移ってしまった。
WGPでは、ホンダやヤマハ、スズキといったメーカーのエントリーが大多数。
また、日本人ライダーがF1と比較すると圧倒的に活躍していた。
ポールや優勝はもちろん、坂田和人や青木治親などは125ccで毎年チャンピオンを獲っていた。
その他のクラスでも日本人は強かったし、外国人ライダーもドゥーハンやシュワンツなどのスーパースターが大勢いた。
F1以上に感情移入し、バイクにのめり込んでいった。
■大学受験
勉強面は全くダメというか勉強しなかった。クラスでは常に「ワースト3」。大学受験など考えもせず、整備士になるため専門学校に行こうと決めていた。
けれども幸運なことに、アーチェリー部で圧倒的な成績を叩き出していたこともあり、いくつかの大学から誘いが来た。
「スポーツ推薦」としての誘いだ。
僕はその中で最も強豪校に進学を決断。「アーチェリー」に打ち込めるのであれば、専門学校には行く必要はない。そう考えていた。
そして、その大学に対して、顧問の先生経由で回答してもらった後、形だけの入学試験を受ける事になる。結果は決まっているのだか、形式上だ。
高校時代の試合の成績を顧問の先生に一覧にして大学に提出してもらい、実技試験は免除。あとは形だけの筆記試験。
そこには、既に顔見知りだった全国のツワモノ達も受けにきていた。
皆、形だけだと知らされていたこともあり、入学後の話に花が咲いた。
こうして、クラスで「ワースト3」を常にキープしていた僕も、高校3年生の夏には進学先の大学を決めることができた。


■バイクを買うためにバイト
既に大学進学を決め、部活も秋のインターハイ後に引退。
結果は良くなかったが、腹痛により出場できなかった新人戦を思い出すと、よく立ち直り3年間の部活動をまっとうした。
さて部活を引退後、NSR50からNSR250への乗り換えをたくらんでいた。というのも高校2年から3年になる春休みに合宿免許に参加。既に「中型免許」を取得していたのだ。
NSR250の中古車相場は、当時35万円程度から。
その資金を稼ぐためにバイトに明け暮れた。
高校からは進路が決まった生徒のバイトは許されていた。
選んだバイト先は、スーパーのお惣菜コーナー。学校が終わった後は、毎日毎日お惣菜を作り続けた。
その甲斐もあり、高校卒業直前には、憧れのNSR250を手に入れることができた。
この2ストマシンは鬼のような加速で、コーナーでもペタペタ倒れ良く曲がる。そのままレースに出られるようなマシン。気分はGPライダーだった。
■彼女には寂しい思いをさせてしまった
部活動「アーチェリー」に、「F1」「バイク」「バイト」と濃密な高校生活をエンジョイしていた僕。
さらに「アーチェリー部」の後輩とお付き合いもしていた。
背の低いショートカットでボーイッシュな可愛い子だった。
今思えば思春期の頃、もっと彼女とたくさんの時間を過ごすべきだったのだろうが、優先順位は「アーチェリー」→「バイク」→「バイト」→「F1」→「彼女」だった。
帰り道が同じ方向だったので、部活帰りの自転車デートくらい。彼女には寂しい思いをさせたまま、高校卒業と同時に自然消滅の様な形でお別れしてしまった。
■卒業
卒業式の日の朝。担任の先生から声をかけられた。
「お前バイクに乗ってるだろ。ずっと前から知ってたぞ。でも部活に打ち込むお前を応援していたし、進学も決めたお前を停学にさせなかった。感謝しろよ」
そうだったのか。先生は知っていたんだ。勉強も出来なかったが、先生は僕を応援してくれていたんだ。いつか恩返しをしなければと思った。
本当に感謝しつつも、少し複雑な気持ちだったが、無事に高校を卒業した。

体育会全開の大学時代


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