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13/12/27

地球の裏側での3.11

Image by Olia Gozha

はじめに

これを ここに出してしまいましたが

これはまだ 私の中では熟していない言葉たちです。

まだこのときの感情を言葉に置換できません。


だから(当分は)ただの事実の羅列です。


全く言葉として組み立てられない。

それでも これを書かないと

今の私に続かない


思った事を言葉にするのは簡単じゃないですね


2011年3月11日

私のエリアでは3月10日木曜の夜11時ごろだったと思う

最初はインターネットのニュースサイトだったか

この文字が目に飛び込んできた

「日本で大地震 巨大津波警報」

あわてて 普段滅多に見ないライブの

TV ジャパンをつけた

NHKで時々出る気象警報用の画面

日本地図の太平洋岸が

真っ赤に点滅する線で覆われていた

「超巨大津波警報」と書かれていた


「日本で地震だって 東北みたい

なんだか分からないけど 津波が来そう」

震える声で寝る支度をしていた夫に声をかける


地震の規模はまだわからない

ただM8.5以上と書かれた数字(だったと思う)と

混乱してニュースにもなっていない静止画面が

ただ 恐怖感を煽った


アメリカのニュースではまだ

日本で巨大地震が起きた、のひとことで

なにも情報が入らない

あるいは 私の頭が受け入れなかったのか


次に覚えているのは

ヘリで映し出された 宮城の映像

小さい頃から見知っていた田園風景に

見たこともない「波」が襲いかかっていく


飲まれる家屋 濁流に押し流される車

逃げ惑う人々と車両 狭い農道


「そっちへ行っちゃダメ、他の車もくる・・・・」

行き交うことのできない狭い農道で

逃げ場を失った車が立ち往生し

黒い波が近づく

この画面はここで終わるが

津波の画像は続いていく


私は逃避していた

私の実家は茨城にある。

両親は水戸なので海からは十分に遠い。

ただ親族はみな宮城周辺にいる。

叔父の一人は多賀城市あたりで働いていた

叔母の一人は七ヶ浜に住んでいる

あとは みんなどこだっけ・・・・

頭がぐるぐる回る

ただ涙がぼろぼろこぼれた。


何時間座り込んでいたか覚えていない

ただもう夜中だったこと

混乱しているのだろう 

新しい詳しい情報がはいらないこと

翌日 子供と夫を普段通りに送り出さなくては、と思ったこと

(今になれば日本人家庭の我が家が

子供の学校を休ませたりしたっておかしくなかったと思うが)

なにより

もう あの光景を見たくなかった

そんなこんなで

ベッドに入ることにしたのだと思う


ニュースが見られなかった。

聞こえてくるニュースは 

私の知る地域を直撃していた話ばかり

道が寸断されているという

ヘリも飛ばないという


両親には災害電話のメッセージをのこした・・・と思う

姉達にはメールを送った。

TVジャパンは地震関連のニュースだけになった


殆ど地球の裏側にあたる故郷で起きていることを

見続ける事ができなかった。

アメリカのニュースをきくだけで

バケツにくみ取れそうな程 泣いた。


ここでは普段通りの生活をしようと思った。

私には何も出来ないのだからと。

混乱した情報をまともに受け取るのを避けた。

自分が使い物にならなくなるから。


私は現実逃避をしていた。

そして もっと驚くことだが

あの時期の記憶は わたしからすっぽり抜け落ちている。


そこにいないからこそ傷つく人々

私達はすぐさま赤十字経由で募金をした

沢山の友人が心からの言葉をおくってくれ

その度に涙を止められずに ありがとうだけ言った

エリアで募金活動をする人達もいた


子供の小学校で募金活動をしよう、と言ってくれる友人もいた

日本人のあなたが声をかけて欲しいといわれて

校長先生に話をしにいったら

日本だけに募金することはしないと断られた


夫は海外からの災害援助医療ボランティアに申し込んでいた

私もそうしたかった

でも子供を置いて行けない

現実の壁というものに へたり込んだ


日本の親族みなが無事だと確認出来たのは

地震後1週間経ってからだった


あの時期 私の逃避は続いていた

私の涙ボタンはどこにあるか分からず

日中はできるだけニュースから目を逸らした

夜 子供が寝た後で

新聞やニュースに初めて目をとおし

翌日目が開かなくなるくらい泣いたり

逆に自分の感情が麻痺して

読む文章や 聞こえるニュースが理解出来なくなった


多分 私は珍しい日本人ではなかったと思う

一種のPTSDみたいなものだと言われた

自分を守るために感情にフタをするのだそうだ


あのとき 多くの海外の日本人が

もっと言えば 日本の血を持っていると知っている人達が

その場にいないから

自分達は直接何かを出来る訳ではないからと

そんな理由で自分を責め

自分達を追い込んでいた


まだ自分を許せない人達もいる



帰らなきゃいけない

皆が自分に出来ることを探していた

何か出来る人を羨ましいとさえ思ったし

そうはっきり言っていたひともいる。


日本人としてのアイデンティティー

日本への愛国心を再確認した

もうこの時代にはないのでは、と疑っていた

日本の高い精神性をも見た


その年の夏の一時帰国を

いつも通りにすべきか迷った。

茨城はあまり報道されなかったけれど

地震の被害はかなりひどかった。

放射性物質が多いという噂もあった

茨城から関西圏へ引っ越した友人もいた


でも子供を茨城にいつものように2ヵ月返すことに

夫は反対せずにいてくれた。

飛行機で受ける放射線レベルを考えたら

何をこわがってるのか分からないという私に

同意してくれた


私は 子供にこれを伝えたい

私は もう会えなくなっていたかもしれない家族みんなに会いたい

何よりも 私のなかで凍り付いてしまった

大きな岩みたいな感情を

何とかしないとイケナイと思っていた


2011年6月

成田から水戸へ向かうバスの中から

痛々しい地震の爪痕を見ていた

鉾田では「水道再開通おめでとう」のニュースが

人々の顔を明るくしていた

そんな日だった。



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