この大きな「山」を動かす方法を
前話:
地球の裏側での3.11
次話:
Bridgeというチャレンジ
南東北と揶揄されるのに 地震のことは別とされていた
(多賀城市キリンビール工場近くで 2011年7月撮影)
東北が被災地で
福島は原発事故後の放射線との戦い
そんななかで
茨城に関する報道はほとんど海外に届いていなかった
それでもひどかった。
私の大好きな地元は
あちこち傷だらけで
それでも一生懸命笑顔でいるような
そんな街にみえた。
地震から3ヵ月たとうというのに
屋根に青いシートが目立つ。
崩れた塀の周りに瓦礫を寄せてある。
国道の道の一部が まだ使えない。
私の両親の住むエリアは
水戸の古い街だ。
壁がおちていたり 歪んだ屋根があったり
半壊している建物もあった。
市役所は地盤がゆるくなり
5階建て?6階建て?かのビルが
全面的に使用禁止だった
(2013年冬現在 今も使用禁止である)
母校の場所は水戸城のあったところだが
崖がくずれていた
藩校跡の建物は殆ど立ち入り禁止となり
偕楽園もひどいことになっていた
水戸には水の被害は大きくなかったが
(水道復旧までは時間が必要だったらしいが
それも数日で済んだと聞いた)
海岸沿いの道や街は
まだまだ、というところもあったし
人を寄せ付けない感じもあって
見ていられなかった
素人目にも
復興には様々な問題があるのが見えた。
というか 多すぎて
途方に暮れる というのが実際なんだろう
私の卒業した小学校に
子供達は6,7月の2ヵ月通うが
プールは放射線の影響を恐れたとかで
この年は使用禁止の夏だった。
校庭の数カ所で定期的に放射線量を測定していた。
近所の子供達は 忘れられない地震の恐怖を
ときどき ぽつ ぽつ と話してくれた。
私はこの子供達に
なにをしてあげられるというのだろう。
宮城を訪ねた
帰国前から父にお願いをしていた
叔父、叔母たちに会いたいと。
子供達に津波のあとを見せたいと。
夏休みまえの日曜日
水戸から郡山へぬけて東北新幹線で仙台へ行った
常磐線ではもう 仙台まで行けなくなっていたから
仙台では リタイア後に個人タクシーをやっている叔父が
待っていてくれた。
観光旅行ではないから 重い空気は仕方無い。
でも叔父も 私が来たいといった意味を分かってくれていた
仙台空港への道を進んでくれた
私に仙台の記憶は殆ど無い
3歳なかばで私の家族は水戸へ移ったから。
それでも
あるところから突然風景に「痛み」を感じだした
水が きたところだった。
(修復中の仙台空港外観。2011年7月撮影)
空港側では大分工事が進んでいた
通常のうごきに近づいているのだなというのが
一目でわかる風景の横に
たくさんの瓦礫と自動車が積み上げられていた
道のすぐ脇で
警察か自衛隊の方だろう
制服を着て帽子を被った30-40人のひとたちが
一列に並び 棒を片手に地面を突いて歩いていた
遺体をまだ さがしているのだろう
もう気温はかなり高く 梅雨開け間近の空気は重く
無言の作業だった
鉄筋コンクリートの建物が
一部の壁を残して あとには何ものこっていない
家が建ち並んでいたと言うエリアに
むき出しの基礎が並んでいた
それでも叔父は
「見られる」エリアを見せてくれたのだ
新幹線に乗る前に
仙台周辺の叔父、叔母、従兄弟が
駅まで私達に会いに来てくれた
大きくなったねぇ
息子はむかしの朋ちゃんそっくりだね
そんな笑い話から 地震後の生活の変化とか
血、って不思議だ
何十年と話していない家族もいたのに
まるで昨日も家のうらで挨拶したかのように
時間も距離も超えてつながるものを感じさせる
同時に このひとたちが
あの災害を乗り越えてくれて良かったと
心から感謝した
言葉にし難い複雑な気持ちを沢山もったまま
生まれた土地をあとにした。
山をうごかすために
見たモノを咀嚼するのに
長い時間がかかった。
その場に行って手伝う事なんてできない
しかも 今の私では。
私の大好きな土地のひとたちが抱えるものは
まるで大きな山だった
気付かないフリをすれば
そのままでも生きていけない訳では無い
山 だから
けれど 明らかに今後のエリアの復興を考えた時
時間がかかろうと
切り崩し 動かさねばいけないもの
長い時間 殻にこもっていた自分のきもちが
はじめて前を向いた。
個人が山をうごかすなんて やっぱり無謀だ
でも 山を動かす方法について
個人でアイディアを出すことはできる
山を動かすための 基盤作りを
考えることは出来る
今すぐ じゃなくてもいい
10年後に手助けになることを目標にすればいい
それが
私の中の根本の「なぜ」になりました。
著者のたかな ともこさんに人生相談を申込む
著者のたかな ともこさんにメッセージを送る
メッセージを送る
著者の方だけが読めます