世界を変えた日本

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国内の要因もありました。
それは、日本人の質が高かったこと。
(日本は当時、識字率が世界一高い、教育超大国だった。)
例えば、以下の文をみてください。
 <修行中心得大意
一、片時も忠孝を忘れず、修行第一の事。
一、諸道具に心移り銀銭を費やさざる事。
一、色情にうつり、国家の大事を忘れ心得違ひあるまじき事。
 右三ヶ條胸中に染め修行をつみ目出度帰国専一に候。以上
 丑ノ三月吉日                         老父>
 これは、19歳の坂本龍馬が、江戸に剣術修行に出る際、父直
足がしたためた訓戒書です。
 「片時も忠孝を忘れず…」の、「忠」は国家や主君、「孝」は親
に尽くすことをいいます。
「常に忠孝を忘れず、修行に励みなさい」といっている。
「色情にうつり、国家の大事を忘れ心得違ひあるまじき…」。
「女にうつつを抜かして、国家のことを忘れるな」と戒めています。
どうでしょう。
現代の親で、田舎から東京に出る子どもに、「国家の大事を忘れ
るな」と訓戒する人がいるでしょうか?
せいぜい「しっかり勉学に励め! そうすれば、いい会社に入れ
るぞ」くらいでしょう。
直足の「修行中心得」を読んで、「これだから龍馬は偉人になれ
た」と思うでしょう。
しかし、龍馬は江戸から遠く離れた田舎の侍です。
彼の生まれ育った土佐藩には上士と下士の区別があり、下士
は激しい差別を受けていた。
龍馬は下士の出身。
こんなド田舎の下級武士ですら、さらりと「国家の大事を忘れる
な」と訓戒する。
龍馬家に限らず、それほど「忠孝の情」「武士道」は一般的だっ
たと考えるのが自然ではないでしょうか?
こういう心意気が、「尊王攘夷運動」「倒幕運動」、ひいては「維
新の原動力」となったといっても過言ではないでしょう。
もう一人例を。
これも江戸から遠く離れた長州生まれの吉田松陰。
松陰は1854年、弟子の金子重之助と共に、黒船に密航を試みま
した。
そして、「アメリカに連れていって欲しい」と懇願したのです。
もちろん拒否されましたが。
この事件について「ペリー日本遠征記」の著者フランシス・L・ホ
ークスは、こう記しています。
<この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭
そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、
興味深いことであった。
日本人は確かに探究好きな国民で、道徳的・知的能力を増大させ
る機会は、これを進んで迎えたものである。
この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものだと信じられる。
また、日本人の激しい好奇心をこれほどよく示すものは他にはあ
り得ない。>
(国際派日本人養成講座 H10.05.23 
密航に失敗した松陰は、故郷の長州で松下村塾を開きます。
こんな田舎の塾から、明治維新の英雄たちが続出することに
なりました。
例をあげれば、
木戸孝允(参議・内務卿・文部卿)、
高杉晋作(奇兵隊総督)、
山縣有朋(元帥・陸軍大将・日露戦争時の参謀総長)、
伊藤博文(首相)、
品川弥二郎(内務大臣)、
野村和作(内務大臣)等々。
松陰は1859年、井伊直弼による安政の大獄で死刑にされていま
す。
享年わずか30歳。
新生日本を見ることはできませんでした。
彼は死の間際、辞世の歌をよんでいます。

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