世界を変えた日本
・トルコ
昭和四十四年に、山口康助氏(現・帝京大学教授)がトルコの古都
ブルサに泊った時、ある古老が片言の日本語を混えて、
「ジャポン! ニチロ、アラガート(日本の人たちよ! 日露戦争に
勝ってくれて有難う)」と、呼びかけてきました。
続いて古老は、日本が日露戦争に勝った時、トルコ人は狂喜して、
息子や孫に「トーゴー」「ノギ」の名前をつけ、イスタンブールの街
には、「東郷通り」「乃木通り」ができた事など、語ったそうでありま
す。[7]
・ポーランド
大戦後、私(加瀬俊一氏)がヨーロッパの大使をしていた時に、東
ヨーロッパの状態を見たいと思い、ポーランドを自動車で視察した
ことがあります。(中略)
それで、道を尋ねるためにある教会に立ち寄ったんです。
年輩の上品な神父が出て来てね、日本人だと言うと、「ああ、いら
っしゃい。日本の車があちこち走っているって聞いてました」、そ
ういって喜んでお茶を出してくれたんです。
そうしたら傍らに、小さい男の子が来てね。
それで私は、「君の名前はなんていうの」って聞くと、「ノギ」って言
うの。
「えっ。ノギ?」。
すると神父さんが言うんです。「ノギというのは乃木大将のノギで
すよ。ノギとかトーゴーとかこの辺はたくさんいましてね。
ノギ集まれ、トーゴー集まれっていったらこの教会からはみだし
ますよ。」
「トーゴー」はもちろん東郷平八郎に因んでのことです。
ポーランドはロシアの悪政に反抗して、独立闘争に多くの血を流
した歴史をもっているんです。
そのロシアを打ち倒した英雄に因んで名前をつけるわけです。
なるほどと思いました。[8]
・アメリカの黒人
日露戦争当時、黒人新聞各紙は、西洋帝国主義の重圧に苦しむ日本
人を「アジアの黒人」と呼び、白人に挑む東郷艦隊を声援したり、一部
の黒人社会では驚くことに、日本ブームが起きて、日本の茶器や着物
も流行。
さらには、黒人野球チームの中から、「ジャップ」(当時、この言葉は日
系人に対する侮蔑語ではなかった)を自称するチームも出ていたとい
う。[9]
日露戦争は非白人が本格的な近代戦で白人をうち負かし、世界中の
抑圧されていた人々の希望に火を灯した。
20世紀は、世界の諸民族が自由と独立を勝ち取った世紀として、世
界史に記述される。
日露戦争での日本の勝利は、まさにその夜明けを告げる鶏鳴であっ
たのである。
【引用ここまで】
▼そして、世界から植民地は消えた
1929年10月24日、ニューヨーク市場で株価が大暴落したのを
きっかけに、世界恐慌へ突入。
これに対し、広大な植民地をもつイギリス、フランスはブロック
経済体制をつくります。
アメリカは、ニューディール政策で危機を乗り越えようとしまし
た。
一方、植民地をあまり持たない日本、ドイツ、イタリアなどは、
世界市場からしめだされ、より深刻な危機に陥っていきます。
苦境の中で、ドイツではヒトラーが、イタリアではムッソリーニが
権力を握り、ファシズム体制を構築していきます。
一方、日本は米英仏を見習い「円ブロック」を形成すべく、中国
大陸への進出を加速させていきました。
1932年3月、満州国建国。
中国はこれに反発し、国際連盟に提訴。
国連は日本の行動を「侵略」とし満州国を承認しなかったため、
日本は連盟を脱退。
国際社会から孤立する中で、日本は似た立場のドイツやイタリ
アに接近していきます。
こうして日中関係は悪化しつづけ、1937年7月、盧溝橋事件を
きっかけに日中戦争がはじまりました。
日本の行動は、中国利権を狙うアメリカを怒らせます。
1939年、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告。
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