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14/1/29

母を自宅で看取り天涯孤独になった瞬間の話。③

Image by Olia Gozha

2003年8月12日 last  29 day


あの電話で泣いた日からはや9か月が経ったある日。


さっきまで、仲間と来週行く夏フェスに参加する話でわいわいしてたのに。

さっきまで、仕事の同僚に愚痴聞いてもらい、心のもやもやがすっきりしてたのに。




夜21時に電話がきた。


「来週、もう死んでるかも・・・」

つい今しがたメールで、来週休みがもらえたから実家に行くよって打ったら、それすら間に合わない勢いとの返事だった。

夏フェス楽しみだったし、病院での研修もちゃんと受けたかった迷ったけど、やっぱり実家に行かなきゃだめだよなって思った。

だって、気分良く遊べないでしょ、フェスに行っても親が死んでたら。

それにここでもし間に合わなかったら一生後悔するだろうし。

ネットで最終便探して22時のJRで帰ることにした。

あとで聞いたら、同日の夜行バスだと台風の影響で迂回しなきゃならなかったらしくえらい時間がかかったって後輩が言ってたので、JRで正解だった。

行く前に事情を知る仲の良い友人に電話したけど繋がらなかったので、心細く思いながら明日TELすることにする。

最も古い付き合いの友人に電話した。

そいつ「親が倒れる前にちゃんと俺に連絡しろよ」って以前言ってくれたので。

がんばって堪えてたのに、状況を伝えたら「お前は大丈夫か」って真っ先に俺を心配してくれた。

堪えてたもんが一気にあふれ出て泣いてしまった。

ちょっと動揺し始めた。

俺が「とにかくお前からも母に電話をしてやってくれ」って伝えたら、すぐに俺との電話を切って早速俺の母のところに電話してくれたのが本当にうれしい。

しかも「連休とって職場がある静岡から函館まで帰ろうか?」とまで言ってくれた。

本当にありがとう。

職場の看護師長に電話掛けたが繋がらず、主任に電話したら最後まで伝える前に「仕事はあんたがいなくてもなんとでもなるから、気にしないですぐに行きなさい!」とわかってくれた。

内心かなり動揺してたが、主任の励ましで何とかがんばれそうだった。

速攻用意してJRに飛び乗った。


かなり動揺して無我夢中だったが、葬式用に礼服だけは用意してた。


覚悟している。

激動の最後だと。

2003年8月13日  last 28 day



家に着いたのは夜中3時。

帰省を母に連絡してなかったので、普段必ず掛かっているチェーンが掛かってなくて逆にびびったが、友人が「さっき電話で話していて、すぐに函館に帰ってくるみたいだよ」と伝えてくれていたそうだ。

ありがとう、本当に。

母は本当にやつれていた。

下半身は浮腫でぱんぱん。大腿部まで浮腫んでいる。圧痕が半端無く残る。

これほどの浮腫は見たことない。

上半身は骨と皮だけって感じだ。肉が殆どなく、顔は目の付いてる骸骨だった。


動揺した。

表情に出せないが、相当動揺した。

2週間前に比べても本当に悪くなってる。

飲水量も排尿量も一日500ml以下で、今日は一日で200mlしか出てないと言っている。

普通は1500ml前後一日で飲んで出すから、200mlは普通では考えられないレベルだ。

食事もほとんど取れず低栄養状態が続いてるとのことで点滴を薦めてみた。

今日訪問看護がくる時持ってきてもらうことにした。

夜間もぐっすり眠れていないという。

体力がここ数日でがたんと落ちた様子だ。

あまりにも急激な変化だ。

朝まで一眠りした後、訪問看護に連絡し栄養の点滴持ってきてもらった。

IVHポートから入れる。





数カ月前に抗癌剤治療を辞め、自宅で最期を迎える覚悟を外来で医師に伝えた際、2つの提案を受けた。


1つはIVHポートを入れて、自宅でも点滴がスムーズに行えるようにすること。


2つ目は訪問看護を受けることだ。


1つ目の提案に母はかなり渋った。

点滴なんかそもそも必要ないと思っていたからだが、医師の説明によりと言うより、俺の負担の軽減を考慮し受け入れた。


2つ目は俺が是非にとお願いした。

なぜなら紹介された訪問看護ステーションは俺が学生時代の恩師が所長をしていて、とても信頼できる人物だったからだ。


母は了解し、その後数ヶ月の間、週2回訪問看護を受け体調管理をしていた。




訪問看護に来た看護師から指導を受け、俺も点滴の接続をやらしてもらった。

こんなところで新しい手技を学ぶとは思わんかった。

IVHポートの浮き上がっている皮膚に直接針を刺す。

針は90度に曲がっており、案外力がいる。


母は顔を背け、かなり嫌そうだった。

ゆっくりゆっくり点滴を落とし始めたが、吐き気が出て、お腹も張ってきたという。

腹水がたまったのか?


いつの間にか下肢が昨夜より浮腫んだ感じがする。

栄養状態が悪いので点滴しても浮腫むだけなのでもうしない方向となった。



午後に買い物した後、フェスに行く約束をした友人に電話をしたら、「一緒に行けなかったのは残念だけどがんばってね」って励ましてくれた。

うれしい、ありがとう。

チケットは地元の後輩に電話したらたまたまいたのでタダで挙げた。

後輩も心配してくれ、励ますつもりでか焼き鳥弁当おごってくれた。

不器用だけど可愛いやつだ。

親の死は覚悟してるけど、いつまでここにいたら良いのかとまだ迷ってる。


2003年8月14日 last 27 day



ドクターが訪問診療に来た。

点滴はちょっと様子見として、ものだけは一応自宅に置いておくことになった。

そして後で訪問看護の所長さんと担当医と俺で3者面談しましょうってことになった。

夕方色々な用事を見つけて母には内緒でこっそり家を出てきた後、久しぶりに恩師でもある訪問看護ステーションの所長さんに会った。

相変わらず元気。

笑顔を絶やさない。

今は本当に支えになる。

頼りになる。


不思議な縁がある。

結構淡々と緊急時の連絡先や蘇生をどうするか、予後はどのくらいか、介護ベットやエアーマット等安楽なものをレンタルしてみないか、認知症気味の俺の祖母のことが心配だなどなど話した。

結構話を冷静に受け止められた。

だって、ずっとそうやってしっかりもんになるよう育てられてきたから。

「あんたは男だから、あんたは長男だから、あんたが父親に代わって母さんを支えなきゃダメなんだから、あんただけが頼りなんだからね」と幼少期に祖母に繰り返し言われてきた。


今思えば呪いと一緒だ。


「みんなでがんばりましょう!」といってくれた所長の言葉と、最後に「どっか寄ってく?」って誘ってくれてくれた言葉が印象的だ。

この人なら安心。

任せられる。

大丈夫だ、俺も母も。

親戚の家に行って母が貸していた足マッサージ器を取りに行ったら親戚らに捕まった。

早く帰りたかったのに。

彼女達もショックだったのだろう。

普段は連絡もしないのに。


家に帰ったら、まだ親が生きてることに安心した。


それぐらいいつどうなるかわからない状態だった。


でも、母には担当医と所長さんとの面談については言えずちょっと心苦しい。

一人だと苦しい。

今にも押しつぶされそうだ。

明日友人に話そう。

2003年8月15日  last  26 day


昨夜のうちに電動ベットとエアーマットをレンタルしてみてはどうかと母に話し、所長に朝電話したら早速昼前に届けに来てくれた。

さすが所長、仕事が速い。

頼りになる。

また、母のベットを部屋の隅から、リビングの真ん中に移す。

状態がますます悪くなった時の介護の必要性からと、この家の中心が母であることを示すために必要だと所長さんの助言から実行に移した。

母は恐縮がっていた。

他に住んでいる者はおらず、ここは母の家なのに。


エアーマットはまずまずの寝心地で仰向けにもなれると言ってたが、それも15分が限界だそうだ。

すぐに腹部が苦しくなるから少しでも安楽になれるよう、色々と体位を検討してみる。

なんだか我ながら看護してるなぁと妙に思ってしまった。

一日一日が大事だが、雑務も多い。

買い物したり、掃除したり、職場に状況報告したり、時間作ってネット屋で日記書いたり。

迷ったけど、主任に思い切ってこのまま休んでいいか聞いたら「仕事は気にしなくていい。休みも後でどうにでもなるから」って言ってくれた。

所長さんに「最期に間に合うのも大事だけど、それまでの時間を一緒に過ごす事の方が大事だよ」と教えられ、そうしようと決めたのだ。

どう過ごすか。



日記打ってる間も結構心配。

早く側に戻り、居てあげたい。


でも、これは決して忘れてはいけない記憶なのだ。

だから記録する。

これからの日数で母から何を学んでいくのか。

それはまだわからないけど、ただただ一日一日を大事に生きている。

俺も母も・・・


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