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14/2/3

母を自宅で看取り天涯孤独になった瞬間の話。⑪ その後

Image by Olia Gozha

2003年9月10日 1時30分~  After time


息を引き取った瞬間今まで堪えていた涙が一気に溢れた。

声を上げて泣いた。

自分でもびっくりするぐらいすぐに泣けた。

この瞬間の感情は一言で容易に表現できる。



「絶望」


祖母が起きてきたので一緒に「ご苦労様、お疲れさん」と声をかけあいながら母の体を拭いた。

祖母も急に元気がなくなっていた。

訪問看護ステーションには連絡だけして、担当医には朝に来てもらうことにした。

別にすぐに来てもらう必要がないので、このまま最後に一晩母と一緒に時間を過ごしたくて。

電話を切ったら、母が生前死んだら着せて欲しいと希望していた着物を祖母の家に取りに行く。

母と祖母の最後の2人きりの時間を作ってあげたくて。

そして自分も一人になりたくて。

祖母の家に着物を取りに行ったその帰りの車の中でヒロに電話をした。

ヒロが電話に出た途端もう堪えきれず、何も話せないまま泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて泣いて、泣いた。

人生における全ての悲しみを一気に受けたかのように号泣した。

声を上げ、子供のようにわんわんといつまでもいつまでもいつまでも泣いた・・・

ヒロも一緒に電話口の向こうで泣いてくれた。

それを受けてまた号泣する。

周囲を気にすることなくいつまでも・・・

30分以上2人で泣き続けていたら、少しすっきりしてまたがんばらなくちゃと思えた。

そして何より、俺は決して一人じゃないんだと勇気が湧いた。

帰ってから今後の予定を祖母と話し合った。

生前の母の意向を汲んで身内だけで密葬することに決めていた。

喪主は俺だ。

頭も体も興奮しすぎて眠れる気配はない。

とりあえず体を綺麗にしたくて、まずはシャワーを浴びた。

お湯と共に色んな感情を洗い流す。

気持ちを引き締める。

しかし、ふと気を緩むと涙がこぼれる。

思った以上にかなり動揺しているのがわかる。

ふらふらするが、倒れるわけにはいかない。

朝6時まで待って、母が自分で作った「死んだ後連絡をとって欲しい人リスト」に従い電話をした。

丁寧に母の死を伝えようと心がけた。

皆それぞれ母の死を悲しんでくれた。

密葬ということを伝えると母の友人はすぐにご理解してくれたが、本当に残念そうで寂しげだった。

もう自分がきちんとしないとだれも助けてくれない。

だから、失礼のないように心がけた。

朝早くからあちこちにばたばたと連絡し、一段落するとまず担当医がきた。

担当医も一応死亡確認したが、死亡診断書には俺が看取った1時30分で記載してくれた。


それが、自分のこれまでを認めてもらえたようで嬉しかった。

訪問看護ステーションの所長さんもすぐに来てくれ、冷蔵庫に置いてあったモルヒネなどの薬品類を整理して持って行ってくれた。

とても悲しんでくれ、優しい言葉をかけてくれたのが、うれしい。

母の友人のおみさんがきて、母と祖母の側についていてくれた。

「喪主は動くもんじゃない、こまごまと動くのは出来るだけあたしがやるから」と言ってくれ、言葉どおりなにかと動いてくれた。


病院に死亡診断書を受け取りにいく。


病院の職員にもきちんと医師から俺の母の死を伝えていたらしく、俺の顔をみるなり職員が丁寧にねぎらいのあいさつをしてくれた。

そのちょっとした言葉と心遣いがうれしい。

家に帰ると俺と入れ替わりに、おみさんが祖母を連れて市役所の手続きと駅に親戚の迎えに行ってくれた。

しかし、祖母は混乱してらしく市役所で迷子になり、すぐに必要ではない手続きを始めて、いつまでも帰ってこない。

しかも大事な死亡診断書を持ったまま。

その間葬儀屋や親戚の方が来てくればたばたした。

ベットで休む母の姿を見て皆嘆いてくれる。

葬儀屋は必要な書類の手続きや葬儀の内容、準備を冷静に話してくれた。


しかし、喪主なんて初めての経験で分からない事だらけ。

さらにまだ気持ちの整理もできてないため理解するのが難しかった。

それを知ってか、一つ一つ丁寧に教えてくれ、理解するまでちゃんと待ってくれた。

その冷静さがすごく頼もしかった。


墓に納骨する時、墓の管理者の許可が必要とのことで、管理者である祖母の末弟に電話をする。

が、末弟は状況を知るなりいきなりしぶって、すぐに許可の返事をしない。

どうやら昔祖母と金銭の問題で仲たがいしたらしくそれが原因になってるようだ。

「そっちがどうしてもと頭を下げるなら許可するよ」と。


本当に祖母は余計なことしかしない。


いつまでも死亡診断書を持ったまま帰ってこないため葬儀屋も困って、散骨の話も出たぐらいだ。

結局納骨の許可も下りず、後回しになってしまった。

いきなりの状況に軽くパニックになりながら、一つ一つ決められることから決めていった。

「私が死んでも線香の臭いは辛気臭くて嫌いだから、たかないでね」という、母の言葉を思い出す。


葬儀の内容はこの上ないぐらいシンプルにし、坊さんや牧師も呼ばず、線香も蝋燭も燃やすことなく、ひたすら母には花に囲まれ休んでもらうことになった。

集まった親戚の食事の用意や葬儀の手配、連絡がつかない母の友人への電話、頻回に届けられる香典や花のサイン、死んだ後に出してほしいと頼まれていた封書の投函などやることは多く、ばたばたと忙しいため、心身の疲労が募る。

そんな中祖母が帰ってくるなり俺に逆切れしてきた。

「あんた市役所に電話したっしょ、市役所の用事は全てあたしがやるって言ったのに!」とわけのわからん怒りをぶつけてきた。

おみさんや親戚が話しを聞いて祖母をなだめたが、今祖母の末弟と話をしたら喧嘩にしかならなさそうなので、末弟には俺からもう一度連絡するので、後日祖母からもきちんと末弟と話し合うように伝えた。


祖母は一応了解したが、ぶつぶつ文句ばっかり言っている。


母の死んだ時ぐらいそんな古くからのしがらみを持ち出さないでくれ、うんざりだ。



しばらくすると一旦帰った葬儀屋が再度来た。

ベッドで休んでいた母を綺麗に化粧してくれ、着物も着せてもらった。

体が硬くなってる筈だが、きちんと着せてくれた。

すごい腕前だった。

葬儀屋はすごく細やかに何事にも配慮してくれ、化粧や着替え中の母が見えないようにと、近くにあった鏡をシーツで覆ってくれたりした。

細やかな配慮が心を慰める。

帰り際、葬儀屋は「こういうシンプルに御花に囲まれるのって素敵ですね」と言ってくれた事がとってもうれしかった。

末弟から連絡があったので、再度話した。

なんだかずいぶん祖母との過去のいざこざについてがたがた言っている。

くだらねぇ・・・。



それは当事者どうしやって欲しいので、母の骨を納骨してもらえるかどうかだけに絞ったらちゃんと供養するならと許可してくれた。


そんなことは当たり前だろ。


やり取りを聞いていた親戚一同納骨の許可が下り、やれやれという顔だ。

祖母との兄弟はここにもいるのに、その人は一言も替わろうかとも言わなかった。


皆、2人のいざこざに関わりたくない様子がありありだった。



孫の代までしがらみ引きずってんじゃねぇよ、こいつらばかばかりだ。

手前らのケツぐらい手前らで拭いて片付けやがれ、くそが。


疲労と緊張で妙に怒りが溜まった。

なんだかんだとばたばたしていたら、母は棺おけの中で綺麗に化粧され、沢山の花に囲まれ眠っていた。

おみさんが共通の友人らに連絡をしてくれていたので、次々と綺麗な御花が届く。

すごいと思ったのは、母の友人は皆母の好きだったバラの花を黙っていても送ってくれたことだ。


花の好みも共有できる関係性は本当にすごいと思う。


俺の職場の友人らも御花を贈ってくれた。

部屋いっぱいの花に囲まれていてその様子は本当に見事だった。


まさしく母の望むとおりでシンプルだが、とても豪華。

皆の気持ちがとても良く表されていた。

息子としてもうれしいかった。


母はもっとひっそりとしたのを希望していたが、俺としては棺の周りがたくさんの花で囲まれている様子を見るのは誇らしい。



自分の友人にも何人か連絡をとった。

時間がないので数人だけだったが、同郷の友人に留守番電話で母が死んだこと伝えたら、なんと夜の20時過ぎに別の友人を連れて2人で家にきた。

山形にいるはずなのに、たまたま函館に帰っていたところ電話を聞いたいう。

かなりびびった。

ずっと親戚の前だったので気を張っていたが、友人の姿を見て安心したのか、とたんに泣けてきてしまった。

友人らは母に直接会ったことがないにも関らず、母の顔を見た後、合掌してくれた。

それがうれしくて、もうぐだぐだやっている親戚の存在なんかどうでも良くなり、友人らの前で泣きまくりながら「ほんとは、すごくすごく大変だったんだわ」と本音を話した。

2人は黙って話を聞いてくれ、泣いてくれた。


親戚の人たちは気を利かせて、帰っていった。

2人ともずいぶん遅くまで話に付き合ってくれた。

それがどれだけ心強かったことか・・・

本当に、本当にありがとう。



一生分の恩を受け、時計は0時を回った。

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