住所不定無職の旅人から大学教員になった話。

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大学院での学びは最高に楽しい。



大学を修了後そのままストレートで大学院に通うことになるとは思ってもみなかったが、通うとなると勤務形態を変更しないわけにはいかない。

常勤のままでは夜勤や日勤が入り乱れ授業をきちんと受けられない。

妻とも相談し非常勤の夜勤専従となった。


夜間の仮眠など全く望めない極悪な労働環境下での夜勤専従はかなり辛いが、休みの日も増え、通学のための時間の確保はできるようになった。

休みの日や夜勤明けに1時間掛けて東京青山のサテライトキャンパスに通う日々だった。


国際医療福祉大学大学院の特徴の一つは、学部を横断して取得単位を選択できることだった。

正直長く看護師しているので、「看護学」の勉強には飽きも来ていたので、必須である「看護管理・開発学」以外は他学部の授業である「医療ジャーナリズム」「医療マネジメント」の授業を中心に選んで行った。

これがかなり面白かった。


看護師以外の職業の人との交流が多く、違う角度から医療を眺めることに新鮮味を感じた。

また、改めて看護師の良いところ、ダメなところを眺める客観性を育てた。

まるで旅先で異文化に触れる時のようだった。

異文化に触れると改めて日本の良い所、ダメなところを客観視できる。

人生で大切なことは違う視点から問題を見つめることだと改めて学んだ。


大学院での授業は先生からの一方的な知識の伝授という形ではなく、一緒に授業を作り上げるものが多かった。

課題があって、皆で取り組む感じだ。

週4で大学院に通っていたが、毎回毎回わくわくしどおしだった。


ゲストの講師もすごかった。

一番すごかったゲストは、安倍晋三元(当時)内閣総理大臣。



コーディネーターの先生の友人というからすごい。

ちなみにそのコーディネーターは元フジテレビニュースキャスターで現神奈川県知事の黒岩祐治さんだった。



そんなゲストに質問する機会もあるなど、東京で学ぶことの凄さと面白さを存分に味わった。


大学院での2年間はまさしく自分の世界を広げた。

世界中を旅した時とはまた違う世界の広がり方だった。




必要な勉強は自分自身に委ねられている。

ものすごい量の本を読んだ。

先生やゼミ仲間が勧める本は片っ端から読んだ。

先生方の著書も片っ端から読んだ。


夜勤専従の仕事は忙しく、授業の課題もいっぱいあり、寝る時間も少なかったが、読書も勉強も楽しかった。

2年間の旅で乾いたスポンジのような頭に知識がどんどん吸収される感覚があり、楽しかった。

そして、多くの出会いがあり、大切なつながりが増えた。



病院付属の看護系大学設置計画が白紙になるが・・・。



2年目の夏ごろに当初当てにしていた病院付属の看護系大学設置は結局計画が変更となり中止となった。

設立準備室にいた教員は強制的に退職となり、いきなり当てがなくなった。

今後のキャリアとして3パターン考えられた。


1、違う病院系列で看護管理者を目指し働く。(看護管理を専攻しているので関心は高かった)

2、大学教員を目指し、就職活動。(初志貫徹)

3、訪問看護ステーションなどを独立開業する。(大学院で知り合った社長が魅力を語り、憧れた)


自身の勤めていた病院系列で働き続けるという選択肢はすでになかった。

実は、とあるきっかけで自身が働く病院職員の給与明細と病院の財務状況の詳細を知る機会があったのだ。

その時にわかったこと。


1 仮に今から60歳まで働いたとして得られる退職金は300万円。

  (ちなみに国公立病院だと同条件で1300万円)

2 看護職副院長と医師の副院長では役職手当が一緒でも基本給が倍違う。

  よって年収ではあほらしい程の開きがある。

3 仮に看護部長になっても年収1000万円いかない。

4 経常収支から人件費率を出すと一般的な病院の3分の1。(一般の病院の3倍は人がいなくて忙しい  という意味)

5 病院なのに異常なほどの黒字。(後に黒字分がどう使われているかニュースで話題となりました)


病院名は明かせないが、これら情報を見てから今いる病院で働き続けようという未来は消え去った。

そのため新たに就職活動が加わってさらに大学院での後半は忙しくなった。


ぎりぎりまで今後の就職口を探していたが、大学院入学前に指導教授から紹介してもらった1年先輩で同じ歳の彼が、とある大学でポストが空いていると紹介してくれたので、話を聞きに行くことにした。


話を聞きに行くだけのはずでその大学を訪れたのに、着いてみると理事長から学長、理事役員まで勢ぞろいしていきなり面接になった。

かなりビビった。

とりあえずスーツで行って良かった。


まったく心の準備もしておらず、何を話せば良いやらで、出来としては最悪だったのに、なぜか受かった。

たぶん人が足りなかったんだろう、単純に。


現在の看護系大学の乱立により臨床と同様大学教員が不足しており、まだ俺のような教員としてなんの経験もないやつでもニーズが合ったのだろう。


その後提示された給与はいつだったか準備室の先生が話していたように、それほど悪い条件ではなかった。

これならばと妻も了解し、大学院を修了後大学教員へと転職することになった。




現在大学教員になってみて、ここまでを振り返ってみる。

数年前まで住所不定無職の旅人だったのに良いの?って気もするが、俺の中ではまだ旅の延長みたいなもんだ。

今がゴールではない。



旅の本質は出会いと好奇心を大切にすること。


その時その時で沸き起こった自身の好奇心に従い、出会った人との関係性を大事にしていった結果がたまたま今の姿ってだけだ。

本質的には旅をしていた頃とかわらない。


面白そうだったからやってみよう。

出会った人とのつながりは大切にしよう。


大学教員になってからもそれは変わらない。

面白そうなことはやってみよう。

面白そうだから勉強しよう。

学生や先生、病院の方との出会いを楽しんでみよう。


今だって日々新しい発見の連続だ。

旅先に負けないほどのわくわくする毎日だ。


人生は旅と本質的に変わらない。

どこにいようと、どこに向かおうと、俺は旅人のままだし、その精神をこれからも大事にしたい。


そして、俺が出会うすべての若人に、いつか海外へ一人旅に出ることをお勧めしたいと思う。


人生で出会った全ての方へ、ありがとう。


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