30までに自分が何者かも決められなかった甘ちゃんが仕事で○○を得てサラリーマンを卒業した話
こんにちは。
私は水元と申します。
自宅でPCと向き合ったり、たまに事務所へ郵便物を取りに行ったり、
おもしろそうな人がいたらお会いしたり、
そんな仕事をしています。
今では会社経営をしている私も、2009年、30歳になってもなお
自分が何者であるか決められずにいました。
30歳までには自分が何者であるかを決めろ
この30歳と言う一応の区切りを意識していた理由は
うる覚えながら、あのタモリさんが
「30歳までは何をやってもいいが、30歳からはちゃんとしたことをやっていかなければならない」
と過去に思っていたというエピソードが頭のどこかにあったからでした。
もともと私は要領の良いタイプだったために
言われたことはきっちりやるタイプの会社員でした。
ただし、自分で考えたり、気を利かせたりというようなことは一切しませんでした。
なので、最初は気に入られても、その伸びしろのなさにすぐに疎まれる存在でした。
当時私は日本有数のおしゃれスポット『中目』の桜並木沿いの会社に勤め
徒歩圏内に住宅補助をもらいながらひとり暮らししていました。
ただ、そこはイケイケのベンチャー。
今だからわかります。私は経営者にとって一番イラつく
ぶら下がり思考の社員だったのです。
6ヵ月であっという間に、実質追い出されました。
高い家賃を抱え、収入源がなくなった私は
“とりあえず” 転職活動をはじめます。
一体 どこでレールを踏み外してしまったのか
今も覚えている、その時に感じたことは
「自分がいかに世の中を知らないのか」
自分にぴったりの職種とはなんなのだろうか。自分にできる仕事はなんだろうか。
そんなことを30過ぎていまさら考えている男を想像してみてください。残念でしょ?
30過ぎの転職はそう甘いものではありませんでしたが、
結局は現状の自分にできること「人事・総務」として正社員採用が決まりました。
そもそもこの歳で未経験の職種を選べる立場ではなかったのです。
こうして私のその日暮らし的なサラリーマン生活がリスタートしたわけです。
でも仕事に慣れ、全貌がわかってくるとすぐに悟りました。
この仕事のレールは、将来のどこにもつながっていないことを。
こんな恐怖、あなたは経験したことがあるだろうか?
私を拾ってくれたのは、都心のあるIT系下請け会社でした。
事務職である私以外は全員技術者。
技術者はお客様先で常駐し、月末の勤怠報告を見ても残業が常態化しているのがわかりました。
なかなか骨が折れる仕事です。
でも、私は違いました。
終業と同時に「3、2、1、GO!」で退勤。
そうです。以前までとまったく人間が変わっていなかったのです。
職種も違い、もらっているものも違うのですから
ひとりだけ浮くのは当然ですが、
それでもなんとなく居心地が悪いと思いながら、ただやるべきことをやっていました。
本屋で出会った 『金持ち父さん』
私じゃなくてもできる仕事。なんのやりがいも感じることができない毎日。
ある日、私を変えたのはたまたま本屋で見つけた一冊の書籍でした。
『金持ち父さん貧乏父さん』ロバートキヨサキ著
正確には前からこのある意味わかりやすいタイトルが頭に残っていて
なんの本なのだろうかと気になってはいました。
退屈でしかたなかった私はなにかはわからない “なにか” を求めて
この本を読み始めたのでした。
実際この本を最後まで読んでも
なんのことを言っているのかよくわかりませんでした。
なにをしたらいいのかもまったくわかりませんでした。
ビジネスの「ビ」の字も知らない甘ちゃんでしたので。
この本がなんのビジネスについて書かれた本なのかもわかりませんでした。
ただ、貧乏父さんはやばいと思いました。
まじめに働きながらも一生金銭問題に悩まされる貧乏父さんにはなってはいけないと思いました。
そして、すでに他界していた父を思い出しました。
私立大まで出してくれた実の父を「貧乏父さん」と呼ぶのは罰が当たりますが、
父は自分のすべてを我慢して私たち家族のためにがんばってくれていたことを思い出しました。
父は大手電機メーカーの技術者でした。
文系の私は父がどんな仕事をしているのかちんぷんかんぷんでしたが
この転職で「こんな仕事してたのかな」とイメージできるようになっていました。
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