【くれくれ体質なクズだった私が「180°変わって」会社を興した話】はじめての海外オーストラリアで過ごした1年
オーストラリアには、 “なにか” がある・・・
はじめまして、水元英登(みずもと・ひでと)と申します。
私が大学生の頃のこと。誰にも相談することなくオーストラリアに1年行こうと決意します。
これは、生まれて初めての海外渡航となります。
私に多く事を与えてくれた “たったひとつのきっかけ” の話です。
あなたはオーストラリアについてどれくらいご存知ですか?
オーストラリアは日本から南へ、赤道を越えた地球の向こう側、南半球にある大陸です。ロシア、カナダ、中国、米国、ブラジルに次ぐ世界で6番目に面積の大きい国で、英連邦王国の一国でもあります。
私がいたのは北東部のクイーンズランド州でした。州都ブリスベンの南70kmにあるゴールドコーストはオーストラリア最大の観光保養都市として知られています。北部のケアンズはグレートバリアリーフへの観光を始めマリンスポーツの基地でもあります。常夏のような過ごし易い気候で人口の集中している地域です。
それでも、東京の人口密度の2%程度でゴミゴミした感覚は一切ありません。
州都ブリスベンの中心地はクイーンズ・ストリート・モールと呼ばれる歩行者専用の道路を挟んだショッピング街となっています。歴史的な建物と近代的な建物が混在するおもしろい街並みとなっています。
ブリスベンからはシティートレインネットワークが広がっており、私は北へ20km電車に乗った海沿いの街にホームステイすることになりました。
ブリスベンのシティートレインは山手線のように本数があるわけではありませんが、比較的時間通りに運行され、東京から行った私でも交通の便は良い方だと感じていました。ブリスベンのセントラル(中央)駅以外では、無人駅の自販機で切符を買って乗るだけという、のどかな営業となっていました。(改札などがない)
ブリスベンの中心地から離れるほどに、車社会になります。車の通る道路沿いに向かい合うように平屋の家が並びます。家には必ずガレージがあり、車はもちろんヨットを置いている家もありました。
町には一軒『パブ』と呼ばれる小さなカジノがあります。お酒を提供して、スロットマシンなどをやる娯楽施設です。時にはトップレスのウェイトレスさんもいます。もちろん、成人しか出入りはできません。
日の出ているうちは、近くの海岸線に出かけ「フィッシュ&チップス」や「ハンバーガー」、生牡蠣などを海沿いのお店でテイクアウトできます。
私が初めてとなる海外オーストラリアで1年間を過ごしたのは、2002年のことでした。
成田空港から飛行機に乗るのも初めて。こんなにも長時間の飛行機に乗るのも初めて。

(機内食は牛肉にしますか?鶏肉にしますか?
への対応も入念に練習しました。
まあ、実際はカンタスとJALの共同運航便で日本語O.K.だったし、“Beef or fish?” だった気がします。現実に向こうに着くまでは、夢の中と言うか、リアルな現実としてその先がイメージできませんでした。
2002年と言えば、日本ではマイクロソフトが家庭用ゲーム機「Xbox」を発売しました。そんな頃のことです。Googel earthのサービス開始が2005年。日本で一番の品ぞろえと思っていた紀伊国屋書店にも、これから住むところの詳細な地図は置いていませんでした。
就職氷河期が叫ばれる中、海外へ1年間の移住。
この事実は、あとになって客観的に見れば『就職から現実逃避した若者』。でも、私には必要な1年。
鳥かごの中の鳥のような日々・・・
このような素晴らしい環境の土地に住みながら、最初の半年はほとんどその恩恵を取りに行くことはできませんでした。
積極的に話しかけられる英語力もなく、かと言って学ぼうと食いついていくこともない。日本との違いを楽しめる好奇心もなく、韓国人の店で冷凍の納豆を買い溜めしたり。そのうえお金も使いたくない・・・
テレビを見ていても、なにを言っているのかわからない。ホストマザーともしゃべれないから気まずい。
今のようにパソコンがあるわけでも、スマートフォンがあるわけでもありません。
平日こそ、朝から晩までやることはあるのですが、土日になると、家の部屋から出てもなにをしたらいいのかまったくわからない週が何度も続きました。私は来てすぐに、あと何週で帰れるか数えるようになっていました。
最初のホームステイ先は最寄りの駅まで歩いて30~40分。そこからシティー・セントラルまで電車ですから、そこまでして行ったとしても特にすることもない・・・
さらに悪いことに私がいた当初オーストラリアではデパートその他の主だったお店は土曜日の午後から日曜日は閉まっているのでした。だからシティーに出ても、お店はほとんど閉まっているのです。買い物は平日の仕事帰りに車で寄って済ませ、休日は家族と広い家でのんびり過ごすのがオーストラリア流なわけです。
それでも無理やり動物園や博物館や川沿いの公園で催されるバザーなどに出かけたりしました。でも、すぐに思いつくものはすべて行ってしまいました。有名な観光地であるゴールドコーストまで行けば、娯楽は多くあるのですが、そこまでして遊んでいるお金の余裕などありませんでした。
車がないこともあり、ホストマザーがどこかに誘ってくれない限りやることが非常に狭い範囲から抜け出せなくなってしまいました。
ひとりでコアラを触りに行く。くら~い私。
私はそれまでの人生、「自分はなんでもうまくやれる」と思っていました。定期試験で他人よりも良い成績を出し続けていれば、誰も私に否定的な意見を言ったり視線を向けてくる人なんていなかったのです。
それなのに、「学年何位」のような看板がないとホストマザーのようなひとりの人間とも十分にコミュニケーションが取れず、自分がなにをすべきかの道も切り拓けず、未知のものに遭遇することを恐れて扉の開いている鳥かごにまた戻ってきてしまうという現実に「認めたくない」人間として小ささを感じ始めていました。
でも、その一方で「なんで誰もなんとかしてくれないんだよ」というクレーマー体質的な腐った考えが支配的だったことを告白します。
結局、私を動かしたのは “女性” でした・・・
そんな私にも、6か月も経てば転機が訪れるものです。
私が平日通っていた施設に通訳としてたまたまやってきた女性との出会いがその後のオーストラリアでの生き方を一変させるきっかけとなります。
彼女は当時大学生でしたが、日本語を勉強し日本人向けに観光ガイドの仕事をすることを希望していました。これまで何もできず幼稚園児くらいに退化していたように思えた自分が、日本語が話せるという事で、やっとこの地で大人になれました。
うる覚えですが、彼女は3日間くらい来る予定だったのです。私はもうそれ以外に考えることもないので、「友達になってください」という英語の言い方を紙に書いて何度も練習したのを覚えています。英語のニュアンスの違いなどにもとても気を使いました。
この辺りが、公務員っぽい考え方で、今から考えれば気持ち悪いのですが(笑)
そして、予定の最終日に勇気を出して切り出したのでした・・・
そんな私を見て「あ、ズリー!」って感じで他の人も電話番号を聞いたりしていたようですが、実際にその後会ったりしていたのは私だけだったようです。なんといっても執着度が違いますから。・・・表に出さないように気をつけましたけど。
当時のオーストラリアの携帯電話はノキアか何かのもので、電話番号を知っていると短いメールのようなものを送ることができました。私はこのために買ったのか、すでに持っていたのか忘れましたが、プリペイド式の携帯電話をホストマザーと買いに行ったのを覚えています。
ホストマザーにも「プリペイド式の携帯電話が欲しい」とまずは英文を作り練習を重ねて切り出したはずです。なんて進歩(涙)。
自分が変わると環境がついてきた・・・
ちょうどこのころでしょうか?シティーの主なお店が法改正か何かで日曜日もやるようになりました。これによってわざわざ電車に乗ってシティーに出ていく機会が激増しました。金曜日の夜に大学生が集まる飲み屋に呼んでもらい朝まで飲み明かしたりすることも経験しました。
お金も使うようになりましたが、それまでが使わな過ぎたと思うようになりました。
英語のポップミュージックのCDを買って、ひとりでも楽しめるようになりました。「女性は匂いに弱いのよ」なんて言われて生まれて初めてGIVENCHY(ジバンシー)の香水をデパートで買ってつけて出かけるようになりました。
中二みたいですが、試験さえ攻略できれば我が物顔で学校中を歩けていた私の人間力は中学生以下で止まっていたのでした。
髪を染めてみたりもしました。とにかく性格が明るくなりました。
さらに拍車をかけるように、ホームステイ先を移ることになりました。先入観ゼロの状態から明るい自分を見せることができました。ホストマザー自身もこれまでの固い英国夫人のような人ではなく、いい意味でゆるい明るい若いおばあちゃんでした。
これは偶然でしょうか。・・・いいえ、他人は自分を映す鏡だったのです。
さらにいいことに、そのホームステイ先は駅から近かったのです。私の電車移動回数は一時の十倍くらいになったのではないでしょうか?
ワニを触る表情もこんなに明るい!
このあとは、「もう帰りたくない!」みたいなエピソードしかありません。自分としては、ものすごく成長したと思っています。年齢から考えるとマイナスから平均点だけれども。でも、この経験がなかったら恐ろしいことになっていたと思います。
堅物と呼ばれていた私ですから、せいぜい免許を盾に教師にでもなって、生徒たちを型にはめて喜んでいたことでしょう。ひとクラス40人だとしても毎年生徒は入ってくるわけですから、千人規模で、若者の明るい未来を奪い取っていたと思うと巨悪ですよね。
オーストラリアに学んだこと
◆変化を受け入れること
この後帰国した私が会社を興すのは、もう少し後のことです。
でも、この一年が今の私を形づくるのに最も伸びしろの大きかった時期だと確信しています。私の実家はどちらかというと自己表現をしない人が集まっています。厳格とは違うのですが、自分をあまり出しません。それが嫌で出て行ったわけですが。
外界を知ることはこんなにも強烈だとは、私自身も想定というより想像もしていませんでした。
履歴書的には大きな回り道。この先も私が履歴書を誰かに見せることはないけれども。見る立場になることはあっても。
「周りのみんながやっているから」・・・そういう考えは一切持たなくなりました。「その日一日をおとなしくこっそり暮していれば、また同じように平穏な明日が来る。」・・・そんな生き方では満足できなくなりました。
それまで「そういうものだ」と黙って受け入れていた出来事に、「なんでだろう?」「おかしくないか?」と気がつくようになりました。黙って習慣を繰り返し、老いていくだけの人生を客観的に(俯瞰的に)見下ろすような感覚を持てるようになりました。
自分の人生が、自分のものになりました。
どこかで自分の根底に自信を持ち続けることのできる根拠はこの一年だったのではないかと今は思っています。
最終的には一番明るくなっちゃってます。若いね。12年前・・・
なんで、こんな個人的な話をストーリーとして書こうと思ったのか?
結構書いてて恥ずかしいような、心の中身も書いちゃいましたね。当時、つんつんしていたので、実際にあの頃を過ごした後輩の人たちがこれを見たらどう思うかな・・・
確信を持って言えることは、
『いまだにこの感情を隠し続けて生きている奴がいっぱいいる』
ってことです。
私が12年も前に、成田から飛び立つ以前に持っていた腐った頭。
“若い” って、そういうことだと思うのですが、近年、そのまんまでズルズル生きられちゃってる人が多くいるように感じられます。自分の人生を自分で操縦していないのに、文句を言ったり、不安になったり、絶望しちゃったりしてる人が多くいるように感じられます。
すごく!・・・もったいないです。
周囲の変化に目を向けて、自分の心の変化を認めると道が拓けます。
『ちょっとしたきっかけで、あなたの行動は変わります』
『ちょっとした行動の変化で、あなたを縛っている環境は変わります』
私は、このストーリーを見て変わった “あなたのストーリー” が見たい。
この記事が「きっかけ」であることを祈っています。
あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ざっと書いてみただけで結構な文量になってしまいました。スクロールするのがつらかったことでしょう・・・もしも、興味持ってくれる人が少しでもいるようでしたら、もっと詳細なエピソードもお話できたらなと思っています。
『後部座席でキスする感じになっちゃって、運転手にすごく怒られた』とか
『その流れでこじれて、ボコボコに殴られちゃったり』とか
『親子のどっちとデートするか、決断を迫られたり』とか
質問があればどうぞ。(ほぼ放送できません。)
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それでは、また どこかでお会いしましょう。
おわり
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私、今は日本でライフスタイルを提案する仕事をしています。
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