【4】パニック障害と診断された私が飛行機に乗って海を渡り、海外で4年暮らしてみた話。

著者: Shinohara Lisa

【4.地獄の終わり】


ついに1年間かけて作ってきた企画が、無事に終了した。
片付け作業で、翌日も学校へ行かなければいけなかった。

でも幸運なことに急な台風で暴風警報が発令、登校禁止となったのだ。
学生でよかった…心底思った。


思わぬ休みに、布団に入ったまま部屋の天井を見上げた。

天井は、目が回る速さで回っている。
私の精神が限界を訴えていた。


でも、もう大丈夫。
地獄は終わった。
もう、苦しまなくていい。

後日、企画終了の打ち上げがあり体に鞭打って学校へ行くと、
ずっとサポートしてくれていた先生からの労いの言葉を頂いた。

自分の立ち位置も、スタンスも崩すことなく、
トップで舵を取りながら、一歩下がって人を支え続ける。
お前がしてきたことは、誰にでも出来る事じゃない。
この一年本当によく頑張ったな。
お疲れ様。


認めてもらえた。
自分が自分を無視し続けて貫いてきたものが評価された。
きっとそれは私がずっと欲しかったものだった。
でも、私の身体は、私の精神は限界だった。


やっと休める、これできっと良くなる。

でも私の体は、そんなに単純にはできていなかった。
一度病んだ体は簡単には戻らない。
吐き気は慢性化し、このままここで倒れて、死ぬのではないかと怯える。
電車にも相変わらず簡単には乗れなかった。

電車がダメなら車で…と思えば、車に乗るのも辛い。
特に友達の車で高速に乗るのは拷問だった。
ひとの車に吐いてしまう。
そんな強迫観念。
自分を抑えようとしてパニックに陥り、狂ってしまうのではないかという恐怖に心拍数が跳ね上がる。
でも、次第に人によって平気な人、そうでない人に別れた。


ある日、友達のサキの車で出かけた。
だいぶ回復してきていたので大丈夫だと思ったけれど、大きな国道に入った途端、猛烈な発作に襲われた。


サキが言った。



大丈夫?! 気分悪い?
止まろうか?
吐いてもいいよ、楽になるなら出しちゃいな!


なんて心強い子なんだろう。
新車の助手席で、楽になるなら吐いていいと言ってくれるなんて。

私の発作は、次第に引いていった。
以後、サキとどこへ出かけても、滅多に発作は起きない。
私の心が、サキなら安心できると知ったのだ。


程なくして専門学校を卒業。
皮肉なことに、入学前から希望していた職業に就くのを、必死で頑張りすぎた学生生活の内にかかってしまった病気を理由に諦めた私は、就職活動もせずに卒業した。

元々口うるさいタイプでない両親は、この時も何も言わなかった。
たぶん就職となったら口も出したかったろうが、私の負担になると理解してくれていたのだと思う。
そして、理解していることすら態度には出さなかった。

それは、まさに私が望んでいた治療方針。
恐らく院長先生の計らいで、母に伝えてくれていたのだと思う。


自分で言うのも気が引けるけれど、パニック障害やうつ病になる人はやはり、責任感や意志が強い人が多いと思う。
むしろ強すぎる人なのではないかと思う。
人に迷惑をかけてはいけない、
やりかけの事はやり遂げなければいけない、
そんな風に、責任感が強すぎるために自分を無視してしまう。

今となっては、もっと自己中心になればいいのだと思うけれど、今でもやはりそうはなりきれない。


程なくして私は半年間の短期の事務職に就いた。
仕事は楽しく、夢だった業種にも近い。
体調も安定していた。

この頃の私は、日常の小さな出来事に感激して泣いていた。

例えば、
家の外に出られる。
コンビニで買い物ができた。
散歩に出て、発作もなく帰ってこれた。
友達とごはんが食べられた。
座りっぱなしだったけど、大好きなバンドのライブに行けた。
社会に出て働けている。

そんな当たり前で、でもずっと自分が出来なかったことが出来るまでに回復してきたことが嬉しくてたまらなかった。



半年後、契約期間が終わりまた無職となった。
就職活動せねば…と思っていたところへ
半年間の仕事で知り合った、小さな広告代理店の方から
うちへ来ないか、とお誘いを頂いた。

正社員としての採用だった。
簡単な社長との面接を経て、私は広告代理店の正社員となった。


若干20歳のほぼ社会人経験もない私を
正社員で雇ってくれる会社に出会えた事が奇跡だった。


この頃の私は、体調も安定し、毎日の薬は欠かせないけれど、穏やかな毎日を送っていた。

そして訪れた人生の転機。

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