雑誌を作っていたころ(06)

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お説教


 別冊太陽編集部での最初の仕事は、「禅」だった。

 すでに企画が決定してからぼくがやってきたわけだが、禅宗(正確に言えば臨済宗と曹洞宗、黄檗宗)が仏教の一派であることくらいしか知らないのに、翌週から取材日程が組まれていた。これはきつい。

 編集長は「急いで知識を詰め込んで、取材に支障のないようにしておけ」と言うだけ。地下の資料室にこもって、関係しそうな書籍を山ほど集めてきた。


 それを見た編集長は、ひとこと「何、それ?」

「禅の資料です」

「お前、禅の本でも書くの?」

「いえ、知識を詰め込めと言われたので」

「馬鹿か! そんなに乱読して、何が残ると思うんだ。まとまりのない知識の断片だけだろう。そんなんじゃ編集の役には立たない。自分で探して、『これだ』と思う本を、じっくり精読するんだよ。ほかの資料にあたるのは、それからでいい」

 太陽にいたときは時間があったので、大量の資料をじっくり読み込むことができたが、ここではそのやり方は通用しない。「考えてから走る」のではなく、「走りながら考える」必要があるのだった。

 わずか1年の経験だけで、もう自分の殻ができてしまっていることに、愕然とした。


 別冊太陽には「編集会議」がない。編集長とヒラ編集2名しかいないのだから、編集長が「おーい、ちょっと来い」と叫べば、その瞬間から会議である。時間と場所を決めて民主的に行われる太陽の編集会議とは雲泥の差があった。

「ラフの構成案を決めるぞ。案を言ってみろ」

「ええと、臨済宗、曹洞宗、その他でどうでしょう」

「文章ならそれでもいいかもしれないな。だが写真構成なんだから、量に偏りがありすぎる。六対三対一じゃページ構成がアンバランスだと思うだろう?」

「歴史的な流れで時代を区切ったらどうでしょう」

「臨済宗と曹洞宗の並行した流れをどう整理するんだ? この案も書籍向きだな。じゃ、俺の案を言うぞ。京都五山、鎌倉五山、その他だ。もちろん五山以外の寺もそこに入れる」

 それでもう大枠が決まった。


「基本はそれでいこう。次は寺ごとに区切るページ構成の内容だ。何が入れられると思う?」

「伽藍、庭園があれば庭園、ええとそれから……」

「だめだ、基本がわかってない。いいか、『禅』というのは、目に見えないものなんだ。それはわかるな?」

「はい。不立文字(ふりゅうもんじ)です」

「目に見えない考え方であっても、それがものの形をとったとき、なにか訴えかけてくるものがある。それを見せて、読者にイメージしてもらわなけりゃならないんだ。寺の観光ガイドじゃ禅は見えてこないぞ」

「その寺にゆかりのある高僧の頂相(ちんそう)と遺偈(ゆいげ)はどうですか?」

「集められるか?」

「たいていその寺が所蔵してます」

 こんな具合で本の基本的な内容が固まっていった。


 ぼくはカラーページでは少し意見を言えたが、モノクロページでは貝のように黙るしかなかった。執筆者の見当がつかなかったからだ。しかたなく名前を出した人はみな故人。編集長はあきれた。

「筆者の名前もろくに挙げられないんじゃ、編集者失格だな。お前はもう少し基本ができていると思ったが、空っぽじゃないか。いいか、知識が足りないということは、マイナスなんだ。自分のマイナスに気づいたら、全速力でそれを埋めろ。誰かが何とかしてくれるなんて甘い考えでいると、放り出すぞ」

 このお小言には、本気で参った。それ以来、「今の自分に何が足りないか」を考える癖がついた。

 3週間にわたる京都取材は、目前に迫っていた。





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