雑誌を作っていたころ(07)
萬福寺での取材
京都取材は編集長に同行する形でスタートした。
掲載予定の各寺院を巡り、宗務総長などの担当者に挨拶をして回る。すでに発刊企画書と掲載許可願いは書面で郵送してあったので、話は早い。そして夜は、祇園や木屋町のバーで、京都在住の出版関係者と連日の飲み会だ。
前にも紹介したように、この編集長は1日に3回人が変わる。午前中はひと言も口をきかず、超低気圧。うっかり余計なことでも言おうものなら、夕方まで後悔させられる。そして午後は、スパルタ編集長。次々と指示が飛び、報告を求められる。言われたことができていないと、お小言だ。
ところが夜、アルコールが入ると、陽気でファンキーなおっさんに豹変する。カウンターの上で踊り、皿洗いを買って出る。不思議な人だった。
仕事は当然、朝から始まるので、ぼくは祇園ホテルのレストランで一緒に朝食を取るのが何より苦手だった。このホテル、朝の食事のバリエーションが恐ろしく少ない。卵をスクランブル、フライド、オムレツのどれかから選び、ハムかソーセージのどちらかを選ぶだけ。つまり6通りの朝食しかないわけだ。しかも向かいに座った相手は新聞を読むだけで口をきかない。
当日の予定は前の晩に決めてあるので、話す必要がないといえばそうなのだが。
しかし2週目になると、予定ががらりと変わってしまう。ぼくは単独行動で黄檗山(おうばくさん)萬福寺の取材をすることになったのだ。編集長が監修者と京大の先生を連れて京都五山巡りをしなければならないため、ぼくと写真部のカメラマンだけが別行動で宇治に行く必要が出てきたわけだ。
取材は多岐に渡っていた。まず管長と会い、エッセイの執筆を依頼しなければならない。それから伽藍(がらん)全体の撮影。さらにはモノクロの特別企画「これが禅問答だ」の取材、そしてカラーの「修行僧の生活」の取材。考えれば考えるほど気が重くなってくるので、もう考えないことにした。
京都から京阪電車で萬福寺に行く。駅前から萬福寺名物「普茶(ふちゃ)料理」の看板を掲げている店が目につく。萬福寺は江戸時代に来日した明の高僧、隠元(いんげん)禅師の開山になる寺院だが、奈良時代や平安時代、鎌倉時代に伝来した仏教寺院と比べると歴史が新しい。そのために、創建当時のままの姿を拝むことができる。
隠元禅師が日本にもたらしたのは、中国明代の新しい禅宗だ。臨済宗や曹洞宗は鎌倉時代に伝わったものなので、黄檗宗とはお経の読み方もまったく違う。黄檗唐音と呼ばれるが、その実態は明代の南京官話音である。
「中国語ができないのに、中国の人と話ができるんですよ。お経の発音のおかげでね」
と案内してくれたお坊さんが語っていた。
お経を読むスタイルも変わっている。本堂の中をお坊さんたちがぞろぞろと練り歩き、多彩な打楽器を打ち鳴らしながら「パレード」するのだ。これは梵唄(ぼんばい)と呼ばれるものだが、音響が室内にわんわんと鳴り渡り、エキゾチックな民族音楽を鑑賞している気分になる。そこにあるのは、ぼくらが見知っている中国文化そのものだ。
取材中に何度かお昼の食事をご馳走になる。禅寺だから、当然精進料理なのだが、出された煮込みうどんは滅茶苦茶にうまくて、大食らいのカメラマンが3回もお代わりをした。広い境内を朝から晩まで歩き回っての撮影だから、腹が減るのも当然なのだが。
参禅修行、つまり修行僧が座禅を組むところの撮影は、神経が張りつめた。カメラマンもモータードライブを外し、「手巻き」仕様にした上に、カメラにキルティングの消音カバーをかぶせる気の使いようだ。50人からなる修行僧が、かけ声一つで一斉に気を集中させる。そのプレッシャーは、圧倒的だ。
負けるものかと、こちらも立ったまま気合いを入れるが、なかなか集中できない。両足にかけた体重のバランスや、自分の呼吸が気になってしまうのだ。「お前はここで何をしている!」と叱りつける声が聞こえる気がした。まだまだ「本気」が足らないのだと思い知らされた。
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