雑誌を作っていたころ(08)

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最年少社員の退職


 別冊太陽編集部では、「禅」のあと、「夏目漱石」「俳画歳時記」「名筆百選」「江戸の粋」を作った。

 このうち、「俳画歳時記」は100%ぼくの企画。平凡社の経営が危うくなってきて、編集部門のてこ入れのために社長が編集局長を兼任したが、その前で企画案を説明し、承認してもらったのだった。

 しかし平凡社の経営状態は、病人で言うなら「危篤状態」になっていた。

 会社全体が百科事典の売り上げに依存していて、世の中の景気が悪くなるとともに、それがじり貧になってきたのだ。


 部会でも課会でも、労組の総会でも、語られることは不景気なことばかり。だれも窮状を打開する具体案を持ち合わせていないようだった。

 会社が大きくなってから入ってきた社員というのは、言うことは格好がいいが、守勢に回るとからきし駄目なものだ。先輩社員たちの「そのうち誰かがどうにかしてくれるだろう」という態度は、新米の目から見ても情けないの一語だった。

 年配社員が「みんなで書店回りをしよう。1部でも多く注文してもらおう」と意見を言えば、「焼け石に水ですな。ついでに言えば『年寄りの冷や水』」と、評論家然とした態度で冷笑する始末。「あんた、何様?」と詰め寄りたくなった。


 そんな中で、雑誌部のボスである馬場一郎さんがクビになった。メインバンクの埼玉銀行と衝突したのだそうだ。常務取締役兼雑誌部長で、太陽の中興の祖、別冊太陽群の生みの親が更迭されたということで、雑誌部全体に緊張が走った。

「雑誌は全部やめるみたいだよ」という噂が飛び交った。

 ある日、旧上司の嵐山光三郎さんから声がかかった。それも人づてにメモを渡し、社外での待ち合わせを指定するという「訳あり」の雰囲気で。

 さっそく指定された喫茶店に行ってみると、嵐山さんと更迭された馬場さんがいた。

「じつはな、俺たちは馬場さんを中心に新会社を作ろうと思っているんだ。メンバーは俺と筒井デスクほか『馬場ファミリー』の精鋭だけだ。お前も来い」

 びっくり仰天して馬場さんの顔を見ると、緊張感で目を光らせながらうなずいている。平家ガニの風貌を持つ馬場さんが緊張していると、こんな怖い顔はない。

 思えば平凡社の役員面接のとき、一番目立っていたのはこの人だった。そのときは社長に違いないと思ったほどだから。


「資本金や、取次ルートはどうするのですか。営業のメンバーは連れて行くのですか?」

 そう質問すると、嵐山さんが、

「さる大手出版社で、俺たちが得意とする雑誌をほしがっているところがあるんだ。そこに資本金を出してもらう」と答えた。

 ひと晩の猶予をもらい、生まれて初めてではないかと思うくらい真剣に考えた。

 会社に残った場合の未来、冒険に踏み出したときの未来。

 そして、頭の中に「残る人」と「出る人」のリストを作ったとき、答えが出た。

 世話になったと思う人、尊敬できる人は圧倒的に出る側に多い。冒険するなら20代の今がチャンスだ。新会社の設立に加われる機会なんて、一生に何度もあるはずがない。


 嵐山さんに結論を告げて数日後、上司の高橋洋二編集長に呼ばれた。

「聞いたよ。行くんだってな。俺も誘われたが、俺はここが3社めだ。もう転職はしたくない。家のローンもあるし、子供に金もかかるからな。残念ながら一緒には行けないが、がんばれよ。仕事は外すから、辞めるまでそっちの準備をしていろ」

 そして、ぼくの代わりに編集プロダクションの人がやってきた。

 まもなく会社から希望退職の詳細が告げられた。規模は120人。割増退職金は14カ月。受付期間の初日、ぼくは退職願を手に総務課に行った。わざと大声で、

「希望退職の受付はここですかあ?」

 と聞いたので、「最年少社員が希望退職のトップバッター」というニュースはその日のうちに全社に知れ渡った。

 辞めてほしい年寄りの代わりに、給料の一番安い社員が辞表を出すというのは、あまり聞こえのよいものではないらしい。

 専務、総務部長、労組の役員、雑誌部の先輩など、いろいろな人が入れ代わり立ち代わり慰留に来た。なんだか急に人気者になった気分だった。


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