雑誌を作っていたころ(09)

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「青人社」誕生


 ぼくらの会社のスポンサーになってくれたのは、学習研究社、通称学研だった。

 当時、「出版界の眠れる獅子」と噂され、本気で取次ルートに戦略商品を出してきたら出版界の地図が塗り代わると恐れられていた会社だ。

 主要商品は「科学」と「学習」。ほか、全国に2万人の専属要員を擁する直販組織で、さまざまな分野に挑戦していた。

 ただ、市販雑誌の分野では「弱い」と言われ、その部門の再構築が重要課題だったわけだ。

 新会社設立に当たっては、学研から異例の厚遇を受けた。純粋に外様のメンバーに子会社を作らせるというのが初なら、発行権を持たせるのも初。

 事務所に決められた研秀出版(高額直販書籍専門の子会社)の倉庫を改装する費用も、すべて学研が負担してくれた。


 事務所は東急池上線長原駅徒歩1分。長原商店街の中心に位置する松屋ストアの2階である。

 がらんとした台形の40坪に会議室、編集室、デザイン室、応接室、和室の間仕切りと事務什器、ビジネスホン、給湯設備などを備えなければならない。

 こういうことになると、先輩たちはみなぼくの顔を見る。2晩徹夜して、フロアの設計図と配電図を書き上げた。


  新オフィスにあって、「和室」は平凡社雑誌部の伝統的設備として絶対に譲れないものだった。

 平凡社ビルの6階には大広間があり、ムックの編集部はそこに雑誌部長の馬場さんと専属デザイナーを招いて、1冊分のラフレイアウトを決定するのが常だったからだ。

 寿司とビールを出前して、何時間かかっても終わるまでやる。疲れた人は横になっても可。それが平凡社雑誌部の伝統だった。

 しかし学研総務部の人たちに、それを理解してもらうのは大変だった。

「4×5のフィルムを大量に扱いますから、床に落ちたら大変です。それに、一気に1冊分のラフレイアウトを決めるのは合理的でしょう?」

 と必死に折衝したのを覚えている。


 社名を決める段になって、総勢7名の意見は紛糾した。

 なにしろみな一家言ある人たちなので、自分の案が最高と信じて疑わない。

 3日間、毎日できたての会議室にこもって社名案を検討し続けた。

 その結果、最終案は「悠々社」と決定した。

 意気揚々とその案を学研に持ち込んだのだが、編集総務部の温厚な部長さんは開口一番、

「みなさん、喜んでください。外様の子会社で初めて、オーナーのお名前をいただいた社名がつきました。『青人社』です。古岡秀人の『人』と、若々しいみなさんのイメージで『青』。出版界に類似の社名はありませんから、もう登記しておきました」

 と、ぼくらの出鼻をくじいてくれた。

 かくして揉みに揉んだ社名案「悠々社」は日の目を見ずにお蔵入りとなる。

 それがふたたび浮上するには、平成9年10月、ぼくが自分のささやかな事務所の看板に掲げるまでの月日が必要だった。




※この画像は青人社発足当時の案内状。文面は嵐山光三郎(本名・祐乗坊英昭)、イラストは先日亡くなられた安西水丸氏によるものだ。



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雑誌を作っていたころ(10)

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