雑誌を作っていたころ(10)

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年賀状戦争


 新生青人社における最初の仕事は、ムック「四季の手帖」。「月刊太陽」の臨時増刊で大人気を博した「年賀状図案500集」の青人社版を作ろうというものだ。

 しかしこの企画には裏があった。翌年春に予定されている青人社の月刊誌をどのような企画にするかで社内がまっぷたつになり、社長の馬場さんが推す「太陽ライクな文化誌」と、嵐山さんが推す「サラリーマン向け毒入り情報誌」の2案を学研に提出したところ、オーナーの鶴の一声で嵐山案に決定してしまった。

 それで顔が潰れた格好の馬場さんを、名誉回復してやろうと嵐山さんが一晩で考えた企画が「四季の手帖・年賀状図案特選」だったのだ。


 学研サイドからは「そんなにあわてて本を作らなくても」という声も上がったが、半年もただ飯を食うのでは申し訳ない。10年間本を出さなかった平凡社音楽事典の編集部とはわけが違うのだ。それに、古巣に挑戦状をたたきつけることで、社内の結束を強める目的もあった。

 それまでののんびりムードは一瞬にして消え、社内はたちまち雑誌編集部のあわただしさを帯びてきた。5回線とってあった電話回線が足りなくなり、ぼくは学研総務部に使いにやらされた。ときは1981年。インターネットはおろか、まだFAXもそれほど普及していない時代だ。電話が編集の命綱だったのだ。


 嵐山さんは、この企画のために「木目入りゴム板」というアイデアを出してきた。彼が小学生のときから考えていた、「年賀状における品質と手抜きの共存について」という命題を一気に解決する妙案とのふれこみだった。

「学研と交渉して特許をとり、四季の手帖に間に合わせるように」

 と厳命され、ぼくは学研の法務部と生産管理部に日参した。

 学研の生産管理部門は、普通の出版社にある製作部門とはかなり違う。「科学」「学習」の教材を扱っていることと、トイ・ホビー部門やファンシー部門、化粧品部門、オフィス機器部門を抱えているために、あらゆる製造物に対応できる間口の広さがあるのだ。

 凸版印刷の人と打ち合わせをしている横で金型の見積もりをしているかと思えば、別の場所ではオーバーヘッドプロジェクターのオプション品の検討や、浄水器のボディ設計の見積もりが行われていた。


「山崎くん、これ、面白いのかね。どうにも意義がわからないんだが」

 と、生産管理部長の佐久間さんが言う。通称「クマさん」。学研創業期からの猛者で、長原で泥酔して「通学路・自動車通行禁止」の路上標識をかぶって歩いたという逸話の持ち主だ。

「使ってみて面白いというアイデアじゃないんです。使う前に面白そうだと笑ってもらう。それを話だけじゃなくて形にするところが、青人社と学研のタッグマッチの妙なんです」

 と、必死に説明した。

「四季の手帖」は、「全部切り取るペーパークラフトマガジン」という、本を大切にする人が聞いたら目をむくようなコンセプトのムックだった。有名漫画家、イラストレーターの年賀状図案や、戌年にちなんだ犬の写真とカット集、版画技法集、年賀状のマナー、有名人の年賀状などで構成されていた。

 ドル箱企画を持ち逃げされてはたまらないと、平凡社側も新スタッフで「月刊太陽」の臨時増刊を出すことに決めたようだった。本家元祖争いの勃発である。

 ブランド力からいえば向こうが上だから、ぼくらはこの争いを世に広め、両方とも売ってしまう作戦に出た。嵐山さんが朝日、読売の知り合いに「年賀状戦争」としておもしろおかしく話し、記事にしてもらうほか、学研の販売局が取次と大手書店に働きかけ、書店に「年賀状コーナー」を新設して両方とも並べてもらうように依頼したのだ。


 その結果、ぼくらは5万8000部をほぼ完売。「月刊太陽」の臨時増刊は10万部を8割方売り切った。年賀状戦争の結果は引き分けに終わった。

 次はいよいよ新雑誌。期待と不安は高まる一方だった。


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雑誌を作っていたころ(11)

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