セロリ栽培・日本はじめて物語  こんなことがあった その4

       (原文は2003.7.14に作成)

戦前、日本では野菜のセロリ(celery/和名・オランダ三つ葉)は殆ど知られていませんでした。

☆ 日本が太平洋戦争に敗けた後、米軍(英、豪州軍も)が日本各地に占領軍として数多く駐留しました。昭和20年の占領初年から、この8月15日で丸58年が経過し、彼らは名前が変わって同盟軍として58年経つ今も、継続して駐留してくれています??

 占領軍のトップであるゼネラルマッカーサー始め米軍将兵は生の野菜をサラダで常食するのでその材料の調達が毎日毎日必要でした。

しかし日本に新鮮な野菜はありましたが、生で食べる事が出来る野菜は調達出来ませんでした。

なぜなら、当時の日本では、殆どの野菜農家は日本列島太古からの伝統リサイクル黄金肥料(早い話が人糞肥料)もかなり使っているのがわかったからです。

 戦前の日本では今の中国、台湾人と同じで野菜を生で食する習慣は一般家庭では殆どありませんでしたし、日本人は昔から低コストで資源の有効活用をしていたのです。

 止むなく占領軍の調達部は日本政府に命じ、清潔な環境で化学肥料のみを用いて野菜を作らせるようにしました。

米軍調達部”野菜栽培Cord”で作らせた野菜の中には、ジャガ芋、ニンジン、キャベツ、玉葱、などに交じって彼らの好物ではあるが、それまで日本ではあまり栽培された事が無い種類がいくつかありました。

   その一つにセロリがありました。

当時の農林省は、アメリカ本国でセロリを栽培している土地の気候風土を調べたところ、寒冷地が適地であり、朝夕と昼間の気温差が大きく、カラッとして湿度が低い土地に良質のセロリが育つという事がわかり、北海道や長野県で試験栽培しました。

 長野県で栽培されたのは八ヶ岳の麓の高地で、現在の茅野市や今ペンション村で知られる原村あたりがその中心です。

色々と試行錯誤の結果、アメリカで取れるセロリ並みの品質のものが出来るようになり、苗の生育、成長途中、取入れ、洗浄、梱包、輸送と米軍検査部門の厳密な検査にパスし関東、中京地区の米軍駐屯地へ出荷されるようになりました。その輸送箱にはわざわざ「清浄野菜」というラベルが貼られて出荷されました。

日本の普通の八百屋(日本にスーパーが出現する10数年前の時代です)で売られて、我々の親や我々が日々食した野菜は、彼らにとっては清浄ではなかったのですね。

☆ 中学校の夏休みに母の里の八ヶ岳山麓の地区へ四日市から遊びに行って、始めてセロリに 出会ったとき、セロリが積んである土間へ入ると、あの独特の匂いが漢方薬の匂いのようだと思いました。ただしその後長い間セロリは四日市の家の近くの八百屋では見かけませんでした。

そして時代が下って、セロリも徐々に人に知られるようになり、関西でも万博以降マーケットにも少しづつ出回るようになり、今ではどこのスーパーでも売られている野菜になりました。

茅野の私の母方の従兄はもう何十年もセロリ専業農家をやっていますし、また諏訪地方ではセロリは、ごく普通のポピュラーな野菜として味噌汁の具や、漬物にも使われてよく食べられています。

 洗ってマヨネーズをつけて一本そのままバリバリ食べるのと、漬物にしたセロリの浅漬けは私の大好物の一つです。

諏訪・茅野地区は寒天や凍豆腐(高野豆腐)の産地でもあるほどの寒冷地なので、お米の単位あたりの収穫量は良くない土地ですが、セロリは東京という大消費地へ出荷が出来る夏季の有利な近郊野菜として栽培が長く続いています。恐らく今でもセロリの出荷額では日本の中では長野県がトップだろうとおもいます。

*最初に農林省から試験栽培を言われた農協の一つの組合長をしていた母の兄である伯父と一緒に、日本で最初にレタス栽培導入に携わり、今も専業でレタスを作っている従兄から今回の前半の話を聞いて構成。

 ♪ところで昭和20年代後半の朝日新聞に連載された「ブロンディ」というアメリカ家庭漫画があり、亭主のダグウッドが会社で弁当を食べる場面で、紙袋からパンとは別に、白くて長いものを出してかぶりついている場面がよくあり、あれはなんだろうと長年思っていたのですが、あるとき「ひょっとしてセロリじゃないか」と思い当りましたがどうなんでしょうか。




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