九識の窓 / Windows 9x (2)
実家に引いてあるインターネットは俗にいうダイアルアップという奴で、起動するのに電話回線を云々するツールを使っていた。使うだけ課金されると両親が言っていたので僕自身は大学のコンピュータ室でインターネットを使っていた。或いは、インターネットカフェで友人がシフトに入るときは、ただで入店させてもらって一晩中使ってみていた。学校も店もISDNという奴で自宅のより早かった。
インターネットを使うときは、好きなバンドの公式サイトで新曲を試聴することが多かった。その他に、特に巡回するようなサイトもなかった。そもそも当時の回線速度は必要な情報を一つ獲得するのにめちゃくちゃな時間がかかったので、ヴィジュアルイメージよりもテキストによる情報のほうが多かったので、ネットサーフィンなんかしていると非常に目が疲れた。
「詩でも書いてみるか」
なぜそんなことを思ったのかは分からないが、そう思った。感情を吐露するような場所が必要だったのかもしれない。CGI+Perlという仕組みでつくられた投稿掲示板に作品を投稿し始めたら、すぐにそれは習慣化した。感情を情景描写で修飾しながらいい具合にパッケージングする、日記のような作業だった。
3ヶ月も書いているうちに詩作は日常になった。詩作を趣味とする友人なんかも出来、違う地域の違う世代の人たちと交流を持ち始めた。思えばそれが僕にとってのネットコミュニケーションの原体験だった。存在を知ってからアプローチに至り、交流を持ってから実際に会うまでは結構な時間がかかった。
「はじめまして。いつも作品注目しています!」なんてコメントには小躍りし、それをモチベーションにした。恋人が買ったwindows meも投稿に使った。日常の中で思いついたフレーズを携帯にメモし、夜寝る前にそのテキストを組み立てるような日々だった。もちろん推敲の過程でPCがフリーズしたりクラッシュしたりすることもあって、その度に「あー!」とか絶叫して書き直したり書き直さなかったりした。
「作品読ませてよ」
「恥ずかしいから今度ね」
「ネット上では恥ずかしくないの?」
ネット上で作品を綴り、チャットや掲示板で振る舞う自分と、現実の自分が乖離し始めていた。いくらでも演じることが出来る環境があれば、必要がなくても自分を演じてしまうものなのだろうか、僕はいつの間にか詩作を綴ることよりも、詩作を綴ることでもう一人の自分を創りだすことを愉しみ始めていたのだと思う。詩の投稿の他に、そのキャラクターのままCGIBOYというサービスで日記を書き始めた。
「いつかよませてね。あたし、きみの言葉遣い好きだから」
恋人は僕のことを「きみ」と呼んでいた。それが新鮮で、そう呼ばれるたびにこそばゆいけど、悪くない気持ちになった。
学校に行って、バイトに行って、恋人のいる部屋に帰宅して、詩を投稿して眠りにつく。携帯は着信とメールとメモ帳としてしか使わない。電車での移動中は音楽を聞きながら読書に充てた。(そういえば、当時の音楽プレイヤーは「MDウォークマン」という、信じがたいほど短命のメディアだった)そんな毎日が続いた。
ある日、恋人と買い物に行く途中の路に金魚の水槽があった。
金魚1匹50円という看板が立てかけてあって、二人で鉢と一緒に買った。夕食のタイカレーを食べたあとでヨーグルトを食べた。金魚鉢は玄関に置いて、その金魚はすいすいと元気に泳いだ。金魚の作品でも書いたろかいなとPCに向かいっていると、ベランダで涼みながら「夏だねえ」と言った。
「こんな生活が延々と続けばいいなと思ってるよ」
そう言ったのがどちらだったのかは覚えていない。つまりそれくらい、お互いがそれを望んでいたんだと思う。
半年ほど日記を書いたあたりで、友人のNが「ブログ始めた。お前もやろうぜ」と言ってきた。Nが始めたのは「ライブドアブログ」そういえばその頃から「はてな」というサービスでできたページを目にする機会が増えていた。なるほど、ブログの方がデザインとしてはスタイリッシュだな。そう思ってCGIBOYから移転し、ブログに日記を書くようになった。
その頃は気にも留めていなかったが、ブログユーザーがなぜ増えて行ったかという点は非常に興味がある。画像投稿機能、HTMLでの文字装飾機能、読者からのコメント機能などはどちらにも実装されていた。ただ、ブログにはメインコンテンツの脇に固定表示される「サイドバー」があった。俗にいう「2カラム」と呼ばれるデザインだ。
動的なメインコンテンツと静的なサイドバーが一つのページにあると、日記サービスをWEBサイトに見立てて活用できるようになる。当時はWEBサイトを業者に依頼する費用も大きく、HTMLを扱える人も現在より全然少なかったんだろう。2カラム構造のWEBサイトは以前からあったが、ブログをWEBサイトして活用すれば、業者に頼らず、専門知識も要らずにインターネット上に窓口を設置できる。この点が革新的だったんだろう。
また、ブログの運営会社には大きな資本金があった。保存できるデータの容量が莫大故に、大きく、画質のいい画像をばしばし掲載できた。個人ができる表現は、より簡単に、より方式を拡大し広がったのだと思う。
*
2003年に始めたブログをもう10年以上書いている。読み返すと青臭い文章もあるので気恥ずかしい。これだけ続けば誰に読まれなくても価値だと思うので辞めるつもりもない。更新頻度はかなり減ったが、眠れない夜には何か書きたくなる。眠れない夜の度に書いている。
僕にブログを勧めた友人のNは、早々に書くのを辞めた。書く理由を自分の中に見つけられなかったということだった。
2013年。僕はベルリンのGorlitzer parkでビール瓶を持ってNと歩いていた。
「俺まだ同じページでブログ続けてる」というと、「まじか、お前やべーな」と言われた。
「あの時の彼女連絡取ってないの」
「取ってない。何年か前に検索したら釣り大会で優勝してた」
「あの子やっぱおもしれー奴だったんだな」
そう思う。本当に。
「こんな生活が延々と続けばいいなと思ってるよ」
同じことを延々続けることほど難しいことはないな。世の中の仕組みも、自分を構成する水の水質も変わり続けるし。だからと言って変わることを恐れるのも違うな。それじゃきっとどこにも行けない。
変わってしまった後のことを、覚えているだけでいいのだと思う。同じような風の夏の夜に、かつてこんな夜もあったなとふとよぎることが大事なのだと思う。たまにはまた、人知れず詩でも書こうか。
著者のOkazaki Tatsuoさんに人生相談を申込む
著者のOkazaki Tatsuoさんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます