教科書に載っている、いい話②
「二十一世紀に生きる君たちへ」司馬遼太郎
1989年「小学国語六年下」大阪書籍
私は、歴史小説を書いてきた。
もともと歴史が好きなのである。
両親を愛するようにして、歴史を愛している。
歴史とはなんでしょう、と聞かれるとき、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこに
つめこまれている世界なのです。」と答えることにしている。
私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい
人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きている
ようなものだと思っている。
この楽しさは、<もし君たちさえそう望むなら>
おすそ分けしてあげたいほどである。
ただ、さびしく思うことがある。
私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。
未来というものである。
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
君たちは、ちがう。
二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、
そのかがやかしいにない手でもある。
もし「未来」という町角で、私が君たちを呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている
二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」
そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、
ただ残念にも、その「未来」という町角には、私はもういない。
だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
もっとも、私には二十一世紀のことなど、とても予測できない。
ただ、私に言えることがある。
それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。
昔も今も、また未来においても変わらないことがある。
そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、
さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きている
ということである。自然こそ不変の価値なのである。
なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、
水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
人間は、<くり返すようだが> 自然によって生かされてきた。
古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。
このことは、少しも誤っていないのである。
歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
<人間こそ、いちばんえらい存在だ。>
という、思いあがった考えが頭をもたげた。
二十世紀という現代は、ある意味では、
自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。
著者の浅川 博之さんに人生相談を申込む
著者の浅川 博之さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます