教科書に載っている、いい話②
同時に、人間は決しておろかではない。
思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。
つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、
というすなおな考えである。
このことは、古代の賢者も考えたし、
また十九世紀の医学もそのように考えた。
ある意味では平凡な事実にすぎないこのことを、二十世紀の科学は、
科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
二十世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、
古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、
二十一世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。
「人間は、自分で生きているのではなく、
大きな存在によって生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、
そのようにへりくだって考えていた。
この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように、
近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を
取りもどしつつあるように思われる。
この自然へのすなおな態度こそ、
二十一世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。
そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
そうなれば、二十一世紀の人間は、よりいっそう自然を尊敬することになるだろう。
そして、自然の一部である人間どうしについても、
前世紀もまして尊敬し合うようになるのにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。
さて、君たち自身のことである。
君たちは、いつの時代でもそうであったように、
自己を確立せねばならない。
<自分に厳しく、相手にはやさしく>
という自己を。
そして、すなおでかしこい自己を。
二十一世紀においては、特にそのことが重要である。
二十一世紀にあっては、科学と技術がもっと発達するだろう。
科学・技術が、こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。
川の水を正しく流すように、君たちのしっかりした自己が、
科学と技術を支配し、よい方向に持っていってほしいのである。
右において、私は「自己」ということをしきりに言った。
自己といっても、自己中心におちいってはならない。
人間は、助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。
ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。
社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。
それがしだいに大きな社会になり、
今は、国家と世界という社会をつくり、
たがいに助け合いながら生きているのである。
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