31歳で獣医をやめなんとなく絵を描き始めてから家賃0円のクリエイターズシェアハウスに受かるまでの話
日の当たる広めの部屋で画材や作品を十分に置くことができ、2メートルくらいの大きな絵が描けるアトリエがあって、1階の窓を通じて外からでも作品が見られるようなスペースがあったらいい。東京23区内で、川のそばがいい。人が遊びに来た時にゆっくり話せるようなリビングがあって、おしゃれな内装だといい。
しかもタダで。
そんなささやかな妄想が叶ったのは2014年6月だった。家賃0円のクリエイターズシェアハウスTOLABL(トラブル)。リレーションズ株式会社というベンチャー企業が立ちあげたコンセプトシェアハウスで、住人募集時には101人もの応募があり、現在も入居希望や関わりたいというクリエイターがあとを立たない。
▼家賃0円クリエイターズシェアハウスTOLABL(トラブル)
101名の応募から4人が住人として選ばれた家賃0円シェアハウス
101人の応募の中から住人として選ばれ、家賃0円で住むことができたのは、たったの4人。元獣医師で細胞アーティストという謎の経歴をもつ私は、獣医大学への入学倍率よりも高い倍率をくぐり抜け、2014年7月よりこのシェアハウスに住人として住むことになった。
話を2011年まで遡る。
2011年の2月、私はまだ病院勤めの臨床獣医師をやっていた。いわゆる動物のお医者さんである。臨床医としての将来への不安もあったが、何より日々の精神的プレッシャーの大きさから、「これ以上できない」そう感じていた。黒くまとわりつくような恐怖感を、いつも身体の周辺に感じている日々だった。
絵本作家になれたら、イラストレーターになれたら。
そんな夢物語を思い描きつつ、とくに具体的な行動は何も起こせないまま、2011年2月で仕事を退職することにした。
それまでは実家で暮らしていたが、仕事を辞めて実家でダラダラ暮らせば親から怒られると思い、就職のあてはなかったが、退職と同時に家も出ることにした。
住み始めたのは都内のシェアハウス。気のいいイラン人がオーナーだった。
新しい環境で新しいことが起こりそうな根拠のないワクワクを抱えていた矢先、東日本大震災が起きた。交通機関は麻痺し、コンビニに物がなくなる異常事態。ちょうど職をなくしたところだった自分自身の気持ちもふさぎ込み。お金をなるべく使わないように部屋に引きこもった。
その頃、友人がギャラリストの人を紹介してくれ、その人のアレンジした展示を見に行きながら、絵を見せる機会があった。
ちなみに、私のアートのキャリアは小学校から高校までの授業と、高校時代に週に1回だけ習いに行ってた油絵の教室、それに獣医大学時代に100万円くらい払ってほとんど提出しなかった通信教育が全て。
2011年の2月に習っていた絵本講座の先生がくれた紙がすごくツヤツヤで描きやすく、その時にサラサラと描いた絵を気に入ってくれた友人が、「他の人にも見せたらいい」ということで紹介してくれたのだった。
▼ちなみにその頃の絵はこんな感じ。
その人の紹介で、6月に開催されるグループ展に参加することになった。ギャラリーで展示するのはもちろん初めて。アーティスト・イン・レジデンスのように、ギャラリーで3週間公開制作し、その後1週間展示するというスタイルのグループ展だった。
もちろん、無料ではなく、1ヶ月で10万円かかった。通常のギャラリー費用としてはかなり安い部類に入るが、無職になったばかりの自分には十分高い金額だった。
それでも何か、変化が欲しかった。目的なく生きているより、何かやっている感じを出したかっただけかもしれない。
この展示に参加した作家さんは、美大生やデザイン学校の人たちばかりだった。美術系の教育を受けていないのは私くらいで、他の人たちが描く作品は、どれもなんか高そうでかっこよくて、オシャレに見えてゴージャスだった。それから比べると自分の展示は高校の文化祭みたいだった。
▼その時の展示の様子はこんな感じ。
▼描いていた絵はこんな。超シンプル。
恥ずかしい。作品展をやっても誰にも来てほしくない。
それが素直な感想だった。
自分が描くものは、なんとなく好きだったけど、のめりこむほどでもなかった。ただ、友達がおもしろいねって言ってくれて、それにすがってる感じだった。
友達というのは、だいたい褒めてくれるものだ。逆の立場なら、私だって「うん、全然ダメじゃない?」とは言わないだろう。
同じ頃、ひょんなきっかけで六本木のギャラリー、ウナックサロンの主宰、海上雅臣氏に会う機会があった。18歳の頃に出会った棟方志功の作品を購入し、その後7年間志功を推し続けたという海上氏は最初、自分は人の作品は見ないんだ、と言っていた。
私は美術について話す海上氏の姿を絵にする、と言ってその場にあったペンを取り、線画を描き始めた。
目の前で描写される線をおもしろがった海上氏は、その場で動画を撮ってくれた。
「見て、見て、おもしろいよ」
スタッフの人に話しかける様子は、まるで新しい虫を発見した子どものようだった。
それから氏は、棟方志功やジャクソン・ポロックなど、大作家の話をしてくれたが、そのほとんどを私は知らなかった。この時知っていたのは、村上隆と奈良美智くらいだろうか。1ヶ月くらいまえに草間彌生を知ったくらいだった。
「へーえ、本当に全然知らないんだねぇ。おもしろいねえ」
氏はのんびりとそう言っていた。
それからしばらく、機会があってはギャラリーにお邪魔し、作品を持っていった。
一時期、氏の机の近くに絵を飾ってくれたことがあり、こんなことを言っていた。
「力のない絵は飾っていても絵のほうから、ぼくにしまってくれって言い出すんだよ。あなたの絵はそう言い出さないね」
ギャラリーで展示できるようになるにはどうしたらいいのか。
そもそもアートを世に出していくってどこに出せばいいのか。
何も分からなかった自分は、海上氏だけが雲の上から垂れた一本の救いの糸のようなものだった。
氏は自身の発行する美術誌「6月の風」に私の話を何度か寄稿させてくれ、おもしろい展示の機会があれば、たびたび声をかけてくれた。
それでも「自分は批評家だから、説明ができないものを紹介はできない」そう言われていた。ここに通い続けてもどうなるかは分からない。それでも、他に何をしたらいいか分からなかった。
臨床医に戻りたくはないけど、転職歴も多く、普通の企業に就職するのはかなり難しい現状。お世話になっていた人から、地球の歩き方の取材の仕事をもらい、浅い海外経験の中、5週間のタンザニア取材に送り込まれることになった。
ただし、出版の仕事は本が出てから印税が支払われる。取材は7~8月だったが、支払いは翌年の春。これ以降、生活はより困窮することになる。
才能がないなら早く諦めたい
2011年の11月頃、友人の紹介でクリエイター支援をしている会社の代表にお会いすることができた。ポートフォリオを持参し、作品を見せながら言った。
「才能がないなら、はっきりそう言って欲しいです。
ダメなら早めに諦めたいから」
小さい頃から、どちらかと言うと確定的な未来が好きだった。大学に受かった時は6年間は安泰だと思っていたし、獣医師免許を取ってからはこれからずっと獣医でいればいいと思っていた。推理小説は怖くなると後ろから読んで先に犯人を知っちゃうタイプだったし、未知なること、予測がつかないことは不安だし、そういう目に遭うのは好きじゃなかった。
アートで食べていってる人ってどのくらいいるんだろう?
少なくとも、獣医師でいるよりはるかに狭き門なはずだ。
そんな不確定なことを可能性が低いままやり続けるのは嫌だった。
「売れるかどうかなんて誰にもわからないよ。
それでも、やるかどうかなんじゃない?
そういう覚悟がまだできてないと思う」
多くのクリエイターを見ているその人は、そう言った。
それならちゃんと就職して趣味で絵を描いてればいいじゃないか、本当はそう思っていたけど、獣医にも戻りたくない、年齢もいきすぎて企業就職も簡単ではない、なんとなくかっこ悪いから「夢を追ってる」っぽく見せて、宙ぶらりんな生活の体裁を整えるために言い訳をしている日々だった。
いよいよ貯金もつき始め、預金残高が8万くらいになってさすがに焦り始めた頃、紹介によってフルタイムの仕事を始めることができた。
スキルが足りない中、半ば無理やり紹介してもらった会社では、技術が追いつかずに他の社員さんたちにはすごく迷惑をかけたと思う。
会社はウェブ制作関係の会社だった。私は臨床獣医時代からFlashというソフトでアニメを作ったりしていたし、一時そういう仕事がしたくてゲーム会社のウェブ制作の仕事をしていたことがあった。とはいえ、日進月歩の世界。直近の仕事は臨床医だったし、HTMLとCSSの基礎的な知識だけでは、とても業務に追いつかなかった。
唐突にやってきた個展の機会
ウェブの勉強の日々の中、海上氏のところに通い続けた2012年3月。
本当に唐突に、「個展をやる?」という話をいただいた。
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