あるがまま、ないがまま。

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私は、足早に出口へ向かった。スーツケースの重みのあるこまの音だけが誰もいないロビーに静かに響いた。恐 らく20時間以上ぶりの地上。思い描いていたアフリカはどんなところだろうと想像しつつ、自動ドアが開いた瞬間、目の前に待っていたのは見たこともない男 と外の異様なにおいと暑さで目眩がした。その男はナイジェリア人特有のなまりのある英語で、「自分はあなたの友達の知り合いで、あなたを迎えに来た。妻と子供 が待っている我が家へ連れて行く。」と繰り返した。NYに在住10年目のステレオタイプのわたしには、その言葉がどうしても信じられず、疑いの気持ちでいっぱいになった。


彼の笑顔もなぜか含み笑いのようにも見える。「どうしよう。」この5文字が頭の中をいっぱいにし、入口も出口もない自分は大きな選択を迫られてるようにも感じた。そのとき、彼の携帯のベルが鳴った。電話の相手はS氏らしく、2人は私のことを話し始め、すぐに彼は私に電話を渡してくれた。「hello!」わざとナイジェリア訛りで話した電話の主はまぎれもなくS氏だった。「すまない、ドイツからの便が一日送れた。彼と一緒に先に家に行ってくれ。」それだけいうと、もともと電波が悪かったうえに聞き取りにくかったが、電話が切れてしまった。そのときには気にする余裕はなかったが、 10年くらい前の機種の携帯。あたりを見渡すと、平地に貧困そうな人たちの人だかりと、空港へ入ったり出たりする人たちの車。遠くに見えるドラム缶からは、大きな火が出ていた。(後でわかったのだが、その火で、肉やとうもろこしを焼いていた。)家もビルもなにもない。なんだかテレビで見たことのある50年前へタイムトリップしたような気分だった。



電話の後、わたしは、この男とS氏が繋がったことに少し安心し、彼の言う「妻と子供が待っている家。」へ向かうことにした。駐車場まで行くと、彼のクリーム色の古いベンツがあった。そのベンツに乗り込み私たちは出発した。



車の中から見た光景はたくさんのバイクとドアがなくバンにぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた人たち(恐らく人民が使うバスだと思う。小さなバンに10名ほど 乗っていた。)もちろんクーラーなどないので、100度以上の暑さでも窓を全快にしているだけだ。生ぬるい風が私の頬に当たった。それはざらっとした砂埃まじりの風だった。ありとあらゆるところで、わたしにとっては不思議な光景を目にする。車が高速で通るわき道でスナックや乾電池、水などを売る少年。簡易テントのような中に入って何かを売っているが、遠くからではわからなかった。頭の上にバケットを乗せて歩く女性たち、骨が透けて見えるまでがりがりにやせた牛やヤギ。ここはいったいなんなんだろう。すべてがごちゃ混ぜになっている。車も、バスも、バイクも、老人も、若人も、商人たちも、店も、動物も分け 隔てなく同じ空間で生活している。スナップショットを撮ったとしたら、小さなひとつの町ができあがるだろう。


そうこうしているうちに、車の多く走る通りからわき道にそれ、村の中に入り込んでいった。狭い道路に行き交う人たちを通り越しながら、大きな鉄の門の前に着いた。彼曰くギャングスターたちの集まりが抗争しているらしく家へ強盗に入るのを、この鉄の門が防いでいるらしい。門が開くと、また第二幕が開いたように、村の人たちの栄えた商店街(出店の集落)のような所に出てきて、わたしはなんだか「ようこそ」と言われている気持ちになった。


彼の家は門から5分も経たない所にあり、門番の若い男が家の前の門を開けた。彼の家は庭付きの2LDKほどの広さの一軒やで、ナイジェリアでは裕福な暮 らしのようであった。彼の妻は、とても愛想のよい女性で、訪れたときちょうど髪の毛をブレイド(三つ網)にしてもらっている最中で、私をキッチンから、庭に出てみるように叫んだ。庭に出てみると彼女のヘアースタイリストがいた。小さな幼子を背に負ぶった若いスタイリストは再び彼女の髪の毛を結いはじめた。しばらくそれを眺めていたが、少したってから家の中に入り横になった。そして知らない間に眠ってしまっていた。


大きな声がして、目を覚ましたら、知らない男たちが2人大きな荷物を持って家の中に入ってきた。

一人は妻の兄H氏(ニューヨークでの電話の主である)とその友人のT氏だった。私は、そのとき初めて彼らとも小学校のあるビレッジへ行くことを知った。(ホームステイ先はH氏の実家であったこともその時知った。)その後、皆で夕食を食べた。夕食はアフリカンシチューと彼らは呼んでいたが、スパイシーで美味であった。


「ここはいったいなんなんだろう。すべてがごちゃ混ぜになっている。」


Day 2


とても寒かった。起きたとき、私の体が震えてさえいた。わたしは病気なんじゃないかと思った。ブランケットもカバーもなくて夜中にかいた汗が引いて体温を低くさせたに違いないと思った。まだ汗をかいていた。でも寒い。アフリカに着いて2 日目の朝、隣の部屋から聞こえる大きな声で目が覚めた。ベットから起き上がると、来ていたTシャツが汗でびっしょりで、着替えてから一番にマラリアの薬(Doxycycline)を飲んだ。その後すぐ、トイレで吐いた。私はもう何かの伝染病にかかってしまったんじゃないかととても心配して、水しか出ないシャワーで体と髪を洗った。シャワーの後、妻が私のところに来て朝食を食べるかと聞いてきたので、私はまったく食欲がなく ただお茶だけ飲みたいと答えた。



妻以外の私を含め4人でダイニングルームで朝食をとりはじめたとき、H氏とT氏がマラリアの薬の話をし始めた。わたしがもう薬は飲んだというと、食べる前に薬を飲むのはよくないと言った。私が「吐いた」というと、「当然。」という返事だけ帰ってき た。アフリカのルールを知らなくてはとそのとき感じた。私たちが、食事を終えてやっと妻が子供たちと食事を取り始めた。ナイジェリ アでは、主人やお客様の後に妻と子供は食事をする習慣のようだった。食事の後、S氏が到着したが、彼のドネイションの懐中電灯500個の運送中に問題が発生したとの事 だった。NYでは考えられないくらいの何もないゆっくりした時間の中、ランチにアフリカンシチューと,フライドターキーを食べ終えた私たちは、リビングルームに集まってT氏のギターと歌を聴き始めた。


妻以外の私を含め4人でダイニングルームで朝食をとりはじめたとき、H氏とT氏がマラリアの薬の話をし始めた。わたしがもう薬は飲んだというと、食べる前に薬を飲むのはよくないと言った。私が「吐いた」というと、「当然。」という返事だけ帰ってき た。アフリカのルールを知らなくてはとそのとき感じた。私たちが、食事を終えてやっと妻が子供たちと食事を取り始めた。ナイジェリ アでは、主人やお客様の後に妻と子供は食事をする習慣のようだった。食事の後、S氏が到着したが、彼のドネイションの懐中電灯500個の運送中に問題が発生したとの事 だった。NYでは考えられないくらいの何もないゆっくりした時間の中、ランチにアフリカンシチューと,フライドターキーを食べ終えた私たちは、リビングルームに集まってT氏のギターと歌を聴き始めた。


“I came to lagos...im in lagos...”

“I decide to continue my dream in lagos...”


「アフリカのルールを知らなくてはと、その時感じた。」


Day 3


遅い午後に目覚めたわたしは、妻と夕飯の買い物に市場に出かけることにした。アフリカに到着して以来、家の外に出るのは初めてだったのでワクワクし た。私たちは車でアフリカの野菜が売っているグリーンマーケットに行くことにした。彼女は、2種類の野菜と2種類のスパイス、そしてビーフと スネイル(巻貝)を買った。家に戻り早速準備に取り掛かることにした。彼女はアフリカのトラディショナルスープを作り始めた。アフリカンは、上手に彼らの手を使って食事をする。片手の手の平の中で小さなお団子を作り(キビや泡のようなものを炊いたものでカサバという)、スープにつけてそれを食べる。





見ているととても優雅に食べているので思わず見とれてしまう。このアフリカンシチューを料理するのに3時間はかかったが味は本当においしかった。(しかし、2日目には食べ れなくなってしまったのだが。)特に彼らが使っているスパイスは絶品だった。名前はぺぺ。(昔私が買っていたオカメインコと同じ名前だったのでとても親近感が湧いた。)唐辛子を干したものだ。これは、帰る前に買って帰りたいと思ったはじめての品だった。(結局、ビレッジのホームステイ先のマザーに頂いた。)忘れられない出来事は、スープのだしに干した魚を使うのだがその魚が大きな鍋から頭がはみ出るくらいの大きさなのだ。日本では煮干やかつお節だが、やはりアフリカでは巨大な煮干なのである。今日はたくさんのアフリカントラディショナルを学ぶことが出来た。


「やはりアフリカでは巨大な煮干なのである。」


Day 4


朝食の後、マラリアの薬を飲んだが気分が悪くなりトイレに駆け込む。吐きたいのに吐けない苦しさが続き15分位してようやく治まる。この薬とはいつも悪戦苦闘だ。

H 氏が、メールをUPS(海外の郵送サービス)に取りに行くというので便乗することにした。車で1時間ほどの距離だったがメールは届いていなかった。その足で私た ちは両替場に行くことにした。両替する場所は2箇所あり駐車場が唯一の両替場である。1箇所目で両替屋の男が1000ナラ(ナイジェリアの通貨)を11ドル80セントと言った。それを聞いたS氏が、「話にならん、 空港に行こう!」となり、空港まで向かうことにした。2カ所目の空港付近の駐車場を迂回すると、たくさんの男たちが寄ってきて、「エクスチェンジ!」と 叫んでいた。空港では、1000ナラが、11ドル70セントだった。私は100ドルを両替した。


両替の後に私たちはH氏の友人の家に行くことにした。そこには、夫婦と息子と住み込み手伝いがおりとても裕福そうな暮らしだった。私たちはアフリカのビールを飲んだ後に私とS氏と息子で家の周りを探索する事にした(外は、安全ということだった。)本当は、ラゴスの町はとても危ないらしく歩けない所も多い。10分くらい歩いた所に小さなバーがあったのでそこに入ることにした。そこにはアフリカンスタイルのBBQがあって、外から煙が出て いて肉を串刺しにしたものを男が焼いていた。私たちはビールを頼みどう見ても十代にしか見えない童顔の息子に「あなたは21歳以上なの?」と尋ねた。彼は「僕は19歳でナイ ジェリアでは18歳からアルコールが飲めますよ。」と言った。


バーで1時間ほど時間を過ごした後、友人の家に戻り私たちはまた食べて飲んだ。息子が自分の部屋に私を連れて行きお気に入りのナイジェリアンミュージシャンのCDをかけてくれた。その声は、ナイジェリア訛りのひとつもない英語で歌われた曲だった。この地域は、ある一定の時刻になると水も電気が止まる様でバスルームに行った時に流れないトイレが妙な感じだった。こんなにお金持ちな家なのに水が流れない。私はそう思った。


家を一歩出ると、家もない。仕事もない。身寄りもない人々がたくさんいる。そうかと思えば、家の中では、陽気に食べて飲んで踊る人たちがいる。こんな気持ちははじめただった。わたしは、今いる自分を好きにはなれなかった。


「こんなにお金持ちな家なのに水が流れない。私はそう思った。」


Day 5


やっと、私はこのマラリアの薬と仲良くなれたと思った。それは今までのように気分が悪くなったり吐いたりしなくなったからだった。アフリカの温度にも慣れてきたわたしは、この家の子供たちと予行演習で昨日から折り紙を作りはじめた。




わたしたちはまずバルーンを作成し、そのバルーンを糊で紙に貼り少し手を加えて一枚のアート作品を完成させた。完成作品を子供たちはとても喜んだので、目には見えないけれど子供たちの自信に繋がることがわかった。折り紙は万国共通である。ナイジェリアの子供たちにも喜ばれることがわかり気分が良くなったわたしは、一人で家の外を散歩することにした。午前9時45分に家を出て10時15分頃に帰ると約束をし た。それは、私にとってナイジェリアに来て初めての一人きりの旅だった。


ラゴスの街中を一人で外に出たのは初めてだったので、まず家の周りを散歩した。道行く人が私に挨拶をしてくれ る。私は彼らにとって面白い生き物に見えるのだろう。ここには、日本人、いやアジア人さえいない。わたしは、ラゴスの空港に降り立ったときから気になっていたアフリカの民族衣装のドレスを探してい た。グリーンマーケットに行く途中に、車の中で見かけたテーラー屋に行きたくて探したが、歩く距離ではかなり遠いところにあったようで見つけられなかっ た。


少し残念な気持ちを胸に家に帰ってみると、丁度皆が出かけるところだったようで、私たちは車でまたH氏の手紙のためにUPSに行かなくてはならなかった。しかしメールはまだナイジェリアには届いていなかった。その時、ナイジェリアには時間というものは存在せず、ただ時が過ぎていくだけなんだと感じた。車に乗っていると、何度かバイクに乗った警察官が肌の色が違う私たちを見つけては検問してきたのだが(私は日本人、S氏はドイツ人である。)実はこの検問はただの口実であって警察官がワイロをたかっているだけだったと後で教えられた。ナイジェリアの警察は誰も信用出来ないという。「秩序やルールは存在しない場所にいる。」と初めて実感した。


アメリカでの生活のように、ここの法律では私たちは守ってくれない。発展途上国のこの国は内戦が絶えず、その時に一番最初にターゲットになるのは外国人のわたしたちである。その後エアポートに行きビレッジ行きのエアラインチケットを購入した。わたしはというと、まだアフリカ民族衣装の熱が冷め切らず、帰り道でそのテーラーを見つけ車を降りた。店の中には、わたしの祖母が使っていた手動のような鉛の塊のようなミシンでドレスを縫っている女性がいて2畳ほどの狭い部屋に山ほ どの生地が積んであった。その中から気に入った柄の生地を2つ取り出してドレスにすることにした。(写真参照)彼女は私のサイズを測ったくれた。身体を計ってもらってドレスを新調したのは初めてだった。(このドレスは、30ドルくらいだった。)来週の14日にピックアッ プに来いと言われたが、わたしははそのころビレッジにいるはずだ。運良く家に帰ると妻がピックアップしておくと言ってくれた。今日の夕飯は、T氏がジャマイカ料理を披露してくれた。



「秩序やルールは存在しない場所にいる。」


Day 6


今日は雨だった。私は午前7時に起きた。なぜなら私たちは家を午前8時に出るからである。

2台のタクシーが家の前に着いた。わたしは、子供たちとナイジェリアの家族にさよならを言った。約1時間かけて空港に着いたときもまだ激しく雨が降っていた。私たちのフライト時刻は午前11時45分。飛行機までアフリカンタイムなのかと待ちくたびれたところにようやくエアーラインカンパニーのスタッフが現れ、「フライトが遅れていて、午後5時になりました」と告げた。私たちは空港の中で7時間を過ごした。


インスタントのコーヒーを買って飲んだ後すぐ気持ちが悪くなったり、腹痛もあったが「ああ、またか。」という気持ちしかなかった。悲しいかな私はこの習慣にすっかり慣れてしまっていた。結果的に私たちは飛行機に乗ることが出来たのでよかったとしよう。丁度わたしの隣の席に座った紳士と話が弾んだところ、彼はエドワードという名前ででNational Open Universty of Nigeria にて教授をしていることがわかった。専攻はEducation(教育)だという。彼曰く、Open Universityは授業料は無料で、なぜならFederal(連邦の)だからである。


ナ イジェリア政府が生徒の為に資金援助をする。もちろん、本当に少しの人数の若者だけがナイジェリアのプライベートスクールに行くことが出来る。若い優秀なナイジェリアンにとってFederal Universityはとてもよいアイデアだと思った。そして彼は「高校にソーラーパワーのシステムが導入されている。」といい、それらは、World Bank(ワールドバンク)がドネイション(寄付)したということだった。これも、とても明晰なアイデアだと思った。この紳士とのおかげで、フライトがとても短いように感じられた。飛行時間は50分足らずであったが。こ の紳士にさよならを言ってから、ビレッジを目指す為に車を探した。ビレッジまで車で2時間かかるとH氏が言った。


また、雨が降り始め、この時期は毎日雨が降ると車の運転手は言った。今、ナイジェリアは冬なんだ。途中ガソリンスタンドに寄って、水を買った。(男たちはアフリカのStar ビールを買った。)わたしは、女一人だったのでトイレが心配だった。ここにはもちろんスターバックスもファーストフードもない。ということは途中にトイレはないということだ。皆にトイレの話をすると、「公共施設のトイレがどこにでもあるじゃないか」と笑っていた。しかし、暑さの為か汗がトイレに行く気持ちも忘れさせてくれた。2時間のドライブを予定していたが、30分ほど早くビレッジに到着した。


知らぬ間に雨は上がっていた。電気がない村なので、すでにあたりは真っ暗だ。車を降りてすぐ家の門が見えた。門の中に入ると中庭があり、日本の祖母の家を思い出した。とても似た造りであった。 その家の一番下の娘が部屋に案内してくれた。そこは1週間私の部屋になるようだった。とても小さな部屋には窓がひとつ,机とベットがあった。家の中では手探りなので少しづつ目が肥えた。その時ふっと見上げた月はやけに美しく、オイルランプの下でパームワインをごちそうになり、ビレッジでの最初の訪問は、夜になったので眠るというシンプルな行為から幕が開けた。


「夜になったので眠るというシンプルな行為から幕が開けた。」


ービレッジでの生活ー


Day 7


わたしは、朝早く目覚めた。午前8時前だった。目覚まし時計をつけているわけではないのにアフリカでは自然と早く目が覚める。朝はのんびりと外の青々と茂ったパームツリーや吸い込まれそうな青い空の景色を味わったり、鳥の声に耳を澄ましたり、空気の流れを感じたり土のにおいを嗅いだりして、心が深呼吸している。ここではいたるところに生きている瞬間を感じる。自然との一体感。これが、自然の摂理というものなのだろうか?自分自身がいつのまにか本能に戻りつつあるような感覚さえした。




この家の住民はみなシンプルに生きている。動物や植物たちと同じように夜明けと共に行動を始めるのは、少しでも太陽が出ている間に仕事をするため、電気がないために夜は行動ができないので、日が落ちるのとともに行動がゆっくりになる。わたしはいままでの自分の生活を思い出していた。不本意にも携帯アラームにたたき起こされたときから慌しい一日が始まり、アフリカ産の豆の香ばしい香りがほのかに色付けをしてくれる朝のコーヒーが唯一の楽しみであり、忙しい日はほとんど朝食をとらずにパソコンに向かい、知らぬ間にランチタイムになっているという生活を続けている。


世界には言葉では言い表せないほどの経験が待っているというのに、私の生活はというと、一言でたりるほどのものなのである。この短期間ですら、自然は人間に何かを与えてくれている。自然は考える力と時間をも与えてくれている。自然治癒力というものは、病気に侵された体を自分の力で治癒していくものであるが、心の自然治癒力とは、心が自然に戻っていくことなんだと思った。そしてここからがスタートなんだろうと思うと、私の中にあったあらゆる欲望が自然と消化していくのを感じた。


ホームステイ先の娘たち(下が13歳くらい、上は17歳くらいだろ う)は、早朝からもうすでに家の仕事を始めていた。ナイジェリアでは、女の子たちは本当によく働き、シンプルな生き方から古代人をイメージすることが出来た。女性は家を守り男性は狩に出る。このビレッジでは、まだ昔の風習が残っており、ビジター(訪問者)は台所に入ってはならないという。しかし、マザーが私を呼んでキッチンに入れてくれ、アフリカのトラディションを見せてくれた。長男であるH氏がそれに激怒した理由は大事なお客様には台所を見せないという意味と、敵が来たときに大事な食料を奪われないようになどの意味があるということだった。ここでは、男性は男性の風習、女性は女性の風習があり、役割が交わらないことが多いことも知った。



生きることに不必要なものは排除されて最小限の生きるために必要なルールだけが存在する。マラリアの薬を飲んだが、体調に変化もなくそれどころかとても気分がすがすがしかった。この場所の空気はまったく違う。私は田舎が好きで子供のころは父方の実家である小豆島によく遊びにいったものだったが、まったく違うここアフリカとの共通点を感じていた。ここでわたしを癒してくれているのもの存在すべてが、本来あるべき姿をしているところにあると思った。


ここの娘がホームステイ先から歩いて5分ほどの距離にある小学校の校長の家へ連れて行き、若い校長先生とその妻と子供を紹介してくれた。(ナイジェリ アでは,ビジターには妻と子供をまず紹介するようである。)それから、後で私がホームステイしている家に来てくれるとの事だった。もちろん時間は決めていない。ここでは、「後で。」という言葉しかないのだ。だが彼は、家に戻ってからすぐに現れた。そのときに折り紙を説明し、何点かの作品を作成し披露した。彼は、初めてみた折り紙をとても気に入り、一言笑顔でこう言った。「生徒たちは、折り紙をとても喜ぶにちがいない。」と。

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